天上の時間




唐突に意識が現実に引き戻された。

対局時は盤上にのみ集中して他のことは何も入って来ない。

音も景色も目の前に居る対局相手さえ、打っていると次第に遠ざかり限りなく無に近くなる。

それがどうして我に返ったかと言うと、知らずに口元が笑っていたからだった。


「おまえなあ」


ぼそっとした声に目を上げると、碁盤を挟んで向い側に座っている進藤が非道く不機嫌そうな顔でぼくを睨んでいる。


「幾らなんでもそりゃ失礼ってもんだろ」


おれにと言われて、なるほどと思う。

たった今進藤は盤上に黒石を打ち下ろした所だった。

それはぼくが前日から苦労して築き上げて来た白の模様をひっくり返し、形勢を逆転させ兼ねない急所で、よくもまあそこに打ってくれたものだなと正直とても腹が立った。

にも関わらずぼくは無意識に微笑んでしまっていたらしい。


「人が考えに考えて打った一手を笑うってのはどういうことだよ。少なくともおれは最良の一手だと信じて打った。なのにおまえにとっては笑いが出るくらいの悪手だったって言うのかよ」

「いや、まさか」


ざわと周囲がざわめいた。

名人戦第七局2日目。周りには立会人を始め、見学の棋士や記者などが沢山詰めている。

その対局のさ中、挑戦者が名人にくってかかったのだから皆驚いたのだ。


進藤とはよく碁会所で打ちながら喧嘩になるけれど、公式で言い争いになったことは実は今まで一度も無い。つまりそれくらい彼は今ぼくに腹を立てているということなのだ。


「ごめん、そんなつもりじゃ無かった」


実際、進藤が打ったのは悪手どころか名手と言っていいもので、彼で無ければたぶん気づくことは出来なかっただろう。


「じゃあ一体どういうつもりだったってんだよ」


一向に収まらない雰囲気の進藤に、とうとう立会人の篠田先生が立ち上がった。


「挑戦者、対局時の私語は慎んで下さい。そしてタイトル戦であるということの重要さと神聖さを忘れないで欲しいね」

「だって先生、こいつが―」

「いや…随分嫌な所に打ってくれたなと思って」


彼がぼくを指さしたのと、ぼくが苦笑しつつ口を開いたのは同時だった。


「は? そういう感じじゃ無かっただろうさっきの」

「本当だよ。ぼくの折角の筋書きを台無しにしてくれたんだから。……ここから挽回するのは並大抵じゃ無さそうだ。あそこに黒石を置かれた


時は正直キミを殺したくなったよ」


「だったらなんで笑ったんだ」

「楽しいなあって」

「は?」


進藤は目をぱちくりとさせて、心底驚いたような顔をした。

それは周囲も同じだったようで、ざわめきが一層大きくなる。


「おまえ何言って……」

「楽しくなったんだよ、本当に。こんな命を削るような碁はキミとしか打てない。こんなにぼくを苦しめるのはキミしかいないってそう思ったら楽しくて、嬉しくて、つい笑ってしまった」


ごめんと、決して馬鹿にして笑ったわけでは無いのだと付け足したら進藤はむうっと黙り込んだ。


「名人、名人も対局の際は私語は控えて頂きたい。この対局はネットでリアルタイムで全世界に配信されていることを忘れないで欲しいですね」


篠田先生が困り顔でぼくに言った。


「すみません、けれど曖昧や疎かにしてはいけないことだと思ったので」

「解らないでもありませんが、そういうことはなるべく対局後に私的にするように」

「はい」

「それでは、再開して頂いてもよろしいですか?」


事実上対局は中断してしまっており、けれど時間はぼくの持ち時間として着々と消費されている。篠田先生はそれを心配しているのだろう。


「いいよね? 進藤」


促すように問いかけると進藤はぼくを見て、それから妙にしかつめらしい顔で言った。


「……本当に楽しくて笑ったんだ?」

「うん」

「こんな碁はおれとしか打てないって、それが嬉しくて笑った?」

「うん」


反芻するように進藤はしばし視線を落として考え込んだ。そして顔を上げる。


「だったらいい」


にこっと、それまでの仏頂面が嘘のように進藤は嬉しそうな笑顔になってぼくを見た。


「それだったら何も文句はねーよ。おれも今、おまえと打ってて最高に楽しいし」

「そうか、それは良かった」


これから全力でキミを潰しに行くからと言ったら進藤は愉快そうな顔になり、挑むように返して来た。


「出来るならやってみろよ名人様」


全力で返り討ちにしてやると、清々しい程のふてぶてしさでぼくに言い放つ。


(望む所だ)


姿勢を正し盤に向かい直すと、ざわついていた室内が水を打ったように静かになった。


ゆっくりと精神が集中に向かう。

ちりちりとしたこの緊張感。

進藤もまた背筋を伸ばし、鋭い眼差しでぼくの指先が動くのを待っている。


(ああ、好きだ)


唐突に思った。


(大好きだ)


彼も、彼の打つ碁も好きで愛しくてたまらない。

白石を掴むと、ぼくは心に決めた場所に打ち下ろした。

パチリと固い石の音が室内に響き渡る。


進藤の眉が深く寄せられるのを視界の隅に認めながら、ぼくは自分の唇が再び微笑みの形に持ち上がって行くのを感じていた。



※この二人は恋人であることと好敵手であることが同義語なんだと思います。なので打つことは=愛し合うことでもあるという。
戦う=愛し合うでもありますね。2015.10.20 しょうこ