梅に鶯
日曜の午後、溜まっていた洗濯物を洗っていると、進藤のお母さんから電話があった。
生憎彼は外出中で、それを告げると、だからかけて来たのだと言った。
『さっきヒカルが来て、塔矢くんはお家に居るって聞いたものだから』
そしてにっこりと笑った表情が見えるような明るい声で聞いて来た。
『この後何か予定があるの? 碁のお仕事は無いんでしょう?』
無いと言うと、じゃあこれからちょっとお邪魔して良いかしらと言う。
『はい、構いませんが、でも…』
ぼくに何か用があるのだろうかと少しだけ心配になって尋ねてしまう。
男同士の『結婚』に妻も夫も無いわけだけれど、それでも進藤のお母さんを前にすると、どうしても
姑を前にした嫁の気分になってしまうのだ。
『大丈夫。ちょっと持って行きたいものがあるだけだから』
渡したらすぐに帰りますと、見透かされたように言われて顔が赤く染まった。
『それではお待ちしています』
電話を切った後もまだ顔は赤く、取りあえず部屋を綺麗にしなければとリビングを振り返ったぼくは、
またもや姑を迎える嫁のような気分になっていた。
「こんにちは。ごめんなさいね、お休みなのに」
そう言ってやって来た進藤のお母さんは、玄関から中にあがりもせずにぼくに抱えて来た風呂敷包
みを手渡した。
「これ、ヒカルに食べさせてあげて。無理矢理口に突っ込んでもいいから」
そして、じゃあと去ろうとするので慌ててしまった。
「そんな! 上がって行って下さい。せっかく来て下さったのに」
「そう? じゃあちょっとだけ」
そして申し訳なさそうにぼくの出したスリッパに足を入れた。
「綺麗にしてるわねえ」
塔矢くん仕事もあるのに大変じゃないのと尋ねられ、はなから進藤が関わって無い風に捉えている
のが可笑しくて、いえ交代でやっていますからと言ったら驚かれた。
「ヒカルが掃除? 有り得ないわ。あの子、家に居る時は部屋のゴミすら下に持って来なかったのに」
余程あなたが好きなのねと言われて顔が熱くなる。
「それよりさっき頂いた物は…?」
「ああ、あれね、梅干しなのよ。毎年漬けていて、去年のが良い感じに味が馴染んだからお裾分けと
思って」
言われてみれば確かにあの包みはずっしりと重かった。なるほど梅干しを入れた瓶だったのだと思
えば納得がいく。
「ありがとうございます。大切に食べさせて頂きます」
「塔矢くんは梅干しは好き?」
「特別に好き嫌いを意識したことはありませんが、家では良く食べていたので好きの方に入ると思い
ます」
「だったら良かった。ヒカルにも食べさせてあげてね」
先ほどと同じことを言われてはっとした。
「進藤の好物なんですか? 今まで特に言われなかったので知りませんでしたが」
そうならばこれからは切らさないようにしなければと考えていると、目の前の義母が可笑しそうに笑
った。
「いいえ違うの。あの子梅干しは苦手なのよ」
「そうなんですか?」
「子どもみたいでしょう? 酸っぱいのが嫌なんですって。見ててご覧なさい、おにぎりがあったら絶対
梅干し以外の物を食べるから」
「あの…では、どうして…」
嫌いな物を食べさせるようにと言ったのだろうか。
「苦手でもね、体には良いでしょう? 理屈なんか知らないけれど疲労回復にも良いって言うし」
私は碁のことは未だによく解らないけれど、とても疲れる仕事だというのは解ると彼の母は言った。
「どんなものでもそうだけど、あなた達の仕事も健康であってこそよね」
だから嫌がろうとなんだろうと毎日食べさせてやって頂戴と言われて素直に頷いた。
「はい。毎日食べさせるようにします」
「それにね、梅干しを食べさせると他にも良いことがあるのよ」
くすくすと笑いながら言うのでなんだろうと思っていると、義母は内緒話をするように顔をぼくに近づけ
て言った。
「ヒカルね、梅干しを食べる時、ものすごく酸っぱそうな顔をするの。あの顔、とても可愛いわよ」
可愛げも無く大きくなってしまった息子だけれど、あの嫌そうな顔だけは未だに可愛く感じるわと、顔
中を笑顔にして言うのでぼくも思わず笑ってしまった。
「そうなんですか。では…ぜひ」
今日から試してみようとぼくは思った。
「ずっと好き勝手やって、こっちのことなんかお構いなしなんだから、このくらいの仕返しはさせて貰わ
ないとね」
「すみません」
思わず反射的に謝ってしまうと、進藤のお母さんは少し慌てたように言った。
「あら、違うのよ。塔矢くんとのことを言っているわけじゃないの。あの子、小さな頃から私の言うこと
なんか聞いちゃいなかったから」
ずっと心配のしっぱなしよと、そこだけはほんのりと苦笑になった。
「それじゃ、梅干しも渡したことだし帰るわね。今日は夕方から町内の集まりがあるのよ」
慌ただしくてごめんなさいと言うのにぼくの方こそ頭を下げた。
「すみません、お茶もお出ししないで――」
なんだかんだ言ってぼくは緊張していたのだろう。そうでなければ義母が座ってすぐに茶を入れる支
度をしただろうから。
「いいのよ、ちょっと渡したかっただけだから」
そして立ち上がり、玄関に向いながら思い出したように振り返る。
「塔矢くんもちゃんと食べて頂戴ね」
「は?」
「梅干し。好きだったなら良かったわ。あなたも体が資本なんだから大事にしなくちゃダメよ?」
「―はい」
「それじゃまた来るわね」
他にもあるヒカルの苦手な物を教えてあげると言われて笑ってしまった。
「だからあなたも私の知らないヒカルのこと、教えてね」
もちろんあなた自身のこともと言われて頬が染まった。
「はい。…もちろん」
お待ちしていますと答えたぼくに義母は笑った。その笑顔はとても進藤に似ていて、当たり前なことな
のに胸が熱くなった。
ああ、彼のお母さんなのだと、ぼくは改めてしみじみと思ったのだった。
※「進藤」「塔矢」呼び夫婦と、名前呼び出来なくて相変わらず「塔矢くん」の義母。全員照れ屋という。
ちょっと春みたいなタイトルですが意味的にはこれでいいかなあと。
2013.7.3 しょうこ