vacation
アイランド型の大きなシステムキッチンの向こうには果てしなく先まで青い海が続く。
三方に開けた広大な景色には人の姿は全く無くて、ただただ自然と自然の織りなす風景
のみが繰り広げられる。
(こういうキッチンは日本では有り得ないな)
一人先に起きてきて、オレンジを櫛形に切りながら、アキラはぼんやりとそんなことを考え
ていた。
(少なくとも都内で見ることは無い)
広々としてリビングにそのまま繋がっているキッチンは、床から天井までが大きな窓にな
っていて光が差し込み、明るくて気持ちがいい。
「どうしても来たいと言った時にはどんな下心があるのかと思ったけれど…」
来て良かったなとアキラは思った。
「ハワイに行きたい」
ヒカルがそう言い出したのは、まだ三月に入ったばかりの頃で、いきなり何を言い出した
のかと思った。
「ハワイって…今頃行ってもまだ寒いんじゃないのか?」
「いや、別に泳ぎたいとかそーゆーのじゃなくて、ただ行って泊って来たいだけなんだって」
ヒカルが言うには前の月に北海道に行った際、その移動の飛行機の中で機内誌を読んで
いて見た場所にどうしても行ってみたいのだと言う。
「特別に何があるってわけじゃないんだけど、なんかすごく気持ち良くてのんびり出来そうだ
ったから」
一泊でも2泊でもいいからそこに行ってみたいのだと言い張るのを聞きながら、わざわざハ
ワイに行くのに一泊とつい笑ってしまった。
「なんで笑うんだよ、だって仕方無いだろう。おまえとおれで一緒にそんな一週間も2週間も
どこかに行けるわけが無いし」
「まあ…それはそうだけど」
棋士に決まった休みは無い。有給休暇があるわけでも無いので一般の人達のようにまとま
った休みに海外に行くというのは簡単そうでなかなか出来ないことだった。
「今度のGW、上手いことすれば合間に三日くらいは休めるんじゃないか?」
「三日って…」
それでは本当に一泊二日コースになるのではないかと苦笑してしまった。
「おれ、全部持ってもいいから一緒に行ってくんない?」
「いや、もし行くなら自分の分は自分で持つ」
タダほど高いものは無いというのはヒカル相手なら尚更だった。
「えー? たまには素直に奢られておけばいいのに」
「キミにそんな借りを作ると体で返せと言われそうで怖いから嫌だよ」
それくらいなら自腹で行くと、なんとなく流れで行くことに決まってしまった。
どう考えても無謀というか無駄というか、折角行くのに勿体無いと誰もが言うような旅程だっ
たがあまりにヒカルが行きたがるのでアキラは押し切られるような形で一緒にハワイに行く
ことになってしまったのだった。
三月に空きを探してGWにハワイになど行けるはずも無いとアキラは密かに高をくくってい
たのだが、どういう悪運の強さかヒカルはまんまと二人分の予約を済ませてしまった。
「なんか、ハワイにこういう行き方をするヤツっていないみたいで…」
旅行会社でヒカルは何度も確認されてしまったのだと言う。
『お客様、それでは実質向こうには一日半ほどしか滞在出来ませんが』
「それでいいですって言っているのにしつこくてさー」
それでも腐ってもGW、行きの便は満席だったのだが、たまたまキャンセルが出てチケットが
取れてしまったのだと言う。
帰りの便は言わずもがなで、ヒカルは余程ハワイの神様に気に入られたのだろうとアキラは
苦笑してしまった。
そして水着もカメラも何も持たず、ごくシンプルな国内旅行のような軽装でアキラはヒカルと共
に機上の人となった。
夕方成田を出発して7時間、ハワイに着いたのはまだチェックインには随分と間がある時間だ
ったけれど、ヒカルはその辺りもぬかりなくアーリーチェックインの手配をしてくれていたので、
早々にコンドミニアムに入ることが出来た。
「さて、それでどうするんだ?」
タクシーではるばると来たこのコンドミニアムは観光地からは外れていて、周囲には建物一つ
見あたらない。
「別に何も?」
荷ほどきをするでも無く、広いリビングのゆったりとしたコーナーソファに寝ころびながらヒカル
は言った。
「おれ、ここにのんびりするために来たんだもん、だから別に何もしないよ」
「何も? どこか見に行ったりとかそういうこと一切無しなのか」
「おまえどこか行きたかった?」
改めて聞かれると答えに詰まる。
「別にどこが見たいとかは無いけれど」
はるばる長い旅をして来てたどり着いた異国、しかも南国でヒカルがしたいことが本当にただ
のんびりと過ごしたいだけと聞いてアキラは少し呆れてしまった。
(だったら別に国内の温泉でもなんでも良かったんじゃないか)
泳ぎもしない、ダイビングもシュノーケリングもしない、アクティビティの類を全くしないハワイと
いうのは通常有り得るのだろうかと溜息をつきつつ思ってしまう。
いくら囲碁バカで他にさして興味を持たないアキラでも、見知らぬ土地に来たら人並みな観光
くらいは一通りする。
ましてやそれが国外だったら尚のことだ。
「あ、ちゃんと携帯用の碁盤セットは持って来てるから」
「それはぼくも持って来ているけれど」
食事はどうするんだと言ったら、二十分程歩いた所にミニマートがあるらしいからそこでなんか
買って食おうとあっさりと言われた。
レンタカーを借りなかった段階で移動する気が無いのだということはわかっていたが、ここまで
観光をする気が無いとは思わなかった。
「まあ…キミが良いならそれでいいけど」
「え? おれ? 満足に決まってるじゃん。おまえいつまでもそんな所に突っ立って無いでこっち
に来いよ。このソファ座面が広くてすっごく寝心地がいいから!」
ソファはそもそも座るものであって寝そべるものでは無いのではないかと思いながら側に行く。
確かに固からず柔らかすぎないそのソファは座面が広く、非道く座り心地が良かった。
「今日はこのままだらだらして、もうちょっとしたら散歩がてら買い物行って」
それから後は余力があったらえっちをしようと邪気の無い笑顔で言われて気が抜けた。
「本当にキミは…」
わからないなと呟いてしまう。
ソファから見る外の景色は素晴らしかったし、後に散歩に出かけた外の空気も爽やかだった。
明らかに日本とは違う空の青さと空気に混ざる花の香りは、それだけで充分に気持ちがいいも
のではあった。
「だからって本当に何もしないとは思わなかったな…」
昨夜は結局ヒカルが言う所の「えっち」もしないで眠ってしまった。
棋戦と棋戦の合間だったということもあるし長旅で疲れたということもある。
いつもならアキラがバテていてもごねるように抱きついてくるヒカルの方が先に眠ってしまったの
でアキラは本当にキミは何がしたかったのだと言いたくなってしまった。
「何かろくでも無いことを考えているのかと思ったのに…拍子抜けだ」
一泊二日の一泊が過ぎ、残り少ない2日目の朝にもいつまでもまだ眠っているヒカルにアキラは
苦笑して先に一人で起き出した。
乾燥しているのか非道く喉が渇いていて水分を摂りたい気分だったのだ。
そしてキッチンにやって来て昨日の残りのオレンジを取り出し、切りながらぼんやりと窓の外に広
がる景色を見ていたというわけである。
「確かに…気持ちがいいな」
昨日はアーリーチェックインとは言え、ここに来た時は昼近くになっていた。だからわからなかった
のだが、このキッチンは朝非道く気分が良い。
入ってくる光の種類が違うと言うか、ガラス越しではあるものの自分が建物の中では無く、広がる
景色の中に立ったまま風に吹かれて調理しているようなそんな気持ちになってくるのだ。
青く広がる海の先にはぽつりと船の影のような物も見える。
始終横切って飛んで行くのは海鳥で、その白い姿が交差する様をアキラはしばらく手を止めて楽
しんだ。
「進藤が見たいと思ったのはこの景色なんだろうか」
その割に自分自身は見ていないではないかと思いつつも、もしこの朝の景色を見たいと思ったの
だとしたらそれはわかると思ってしまった。
(それでもこんな短い日程で来ようとは思わないけれど)
出来るなら一週間くらいここでのんびり過ごしてみたいとアキラはぼんやりと考えていた。
周囲に何も無い、自然しか無いと言う環境は最初寂しいと思ったけれど、こうして一晩過ごして見
ると静けさが心地よいと実感した。
(誰にも邪魔されずにのんびりと出来るし…)
ああ、そうか、やはりではそういうことだったのかと一人ごちる。
もしここが日本なら、どうしてもアキラはテレビを観たり新聞を読んだりしようと思ってしまうだろう。
自分が居ない間の他人の対局結果も気になるし、気になれば連絡も出来てしまう。
でもここでは―。
ここではそういうことは一切無かった。
テレビはちゃんとあったけれど、何がやっているのかわからないので観たいとも思わないし、電話
もしようと思えば出来るけれどわざわざしようとは思わなかった。
それに何よりたった一泊のことなのだから帰ってからでいいでは無いかと思ってしまう自分が居た
のだ。
それはそのままこの場所でのリラックスに繋がる。だからヒカルはわざわざ大金と時間を費やして
こんな遠くまで来たがったのだとようやくわかったような気がした。
「でもいい加減起こして来ないと…」
別にチェックアウト直前まで眠っていてくれても構わないがせめて周囲を散歩くらいもう一度したい。
昨日とはまた違った視点でゆっくりのんびり歩いたらどんなに楽しいだろうかとアキラは思ったのだ
った。
「進藤は寝起きが悪いから、朝食を作って食べ物で釣った方がいいかな」
卵とベーコン、パンとフルーツ。ジュースとミルクは飲み切れそうに無かったのでミネラルウオーター
を瓶で一つ買ったのだった。
「取りあえずこのオレンジをなんとかして―」
それからヒカルを起こして二人で朝食を作ってもいい。
ついと視界の端をまた海鳥が横切った。
「気持ちがいいなあ…」
静かなキッチンで美しい景色を見ながら二人で食べるオレンジにナイフの刃を入れる。
ただそれだけのことが自分でも驚く程幸福に感じられた。
(結婚するって言うのはもしかしたらこんな感じなのかもしれないな)
苦笑しつつそう思った時に、ばさっとシーツの塊のような物に後ろから抱きつかれた。
「進藤…」
いくらなんでもだらしないと注意しようと振り返るアキラをにこにこと機嫌の良いヒカルの目が見詰
めている。
「今おまえ、もしかしなくてもおれと結婚してもいいかもって思っただろう」
「そんなこと思って無い」
「いや、絶対思ったはず」
妙に自信のある様子でヒカルは言ってアキラを構わず抱きしめた。
「進藤、シーツが汚れる」
「こんな綺麗なキッチンで? 有り得ないだろ」
「でも今オレンジを切っているから」
アキラは内心動揺していた。さっきぼんやりと戯れに思ったことがそのまま顔に出てしまっていた
だろうかと思ったからだ。
「ぼくはただ、そろそろキミを起こした方がいいかなって」
「それで、でも妙にシアワセな気分になってたんじゃないか?」
そしておれと結婚してもいいかもと思っていたに違い無いと言われてカッと頬が染まる。
「そこまでは考えていない」
「へー『そこまで』は考えて無かったんだ」
ってことはその手前くらいまでは考えていたんだよなと言われてアキラは顔が火照るのを止めら
れなかった。
「なんでそんな…キミは…」
「だってここ、そういう場所なんだもん」
「え?」
「ここってさ、恋人同士で来ると必ず結婚したくなるんだって」
他に邪魔が入らない環境と、広大で美しい景色。それらが重なって多くの恋人達が結婚を意識し
て帰るのだと言う。
「ハワイでプロポーズされたい場所のベスト3にもなってんだ」
「だからここに来たかったのか――」
確かに静かな環境でのんびりしたいというのもあっただろう。でもそれだけで無くそういうジンクス
のようなものがある場所だったので、ヒカルはあんなに無理強いのようにしてここに来たいと頑張
ったのだ。
というのもアキラはヒカルのプロポーズをずっと拒み続けて来たから。
「なあ、ちょっとでもおれと結婚したいって思ったんだろ?」
「思って無いとは言わないけれど、男同士でそんな―」
そんなことが気軽に出来るとは思っていない。
考えただけでも様々な障害や差別が目に浮かぶようだし、容易為らざる道だとしか思えないのだ。
「おれだってもちろん今すぐとか思って無いけどさ」
それでもちょっとでもそう思ってくれたのなら、いつかでいいからおれと結婚してと言われてアキラ
はいつものようには断れなかった。
「卑怯だ…」
目の前に広がる景色は美しく、差し込む光はたまらない幸せを変わらずアキラに感じさせた。
昨日二人で歩いた道。見慣れぬ食品を顔を突き合わせ、笑いあって買ったこと。
調理して食事をして、広いお風呂に入って眠ったこと。
どれもこれも他愛無いありふれたことだけれどたまらなく幸せだった。
そしてその幸せはヒカルが相手だからこそ感じられるものだとアキラは実感してしまったのである。
きっとこのコンドミニアムのジンクスはジンクスでもなんでも無く、そういう所から生まれて来たもの
なのだろう。
ゆっくりと静かな時間の中でお互いを見る。そしてそれにまんまとアキラは乗せられてしまった。
「なんだったら朝飯食った後でもいいけど?」
まな板の上の切りかけのオレンジを見てヒカルが言う。
一生をかけたことなのに、一週間でも無く一ヶ月でも無く一年先でも無く、そんな僅かな期限で答え
が貰えると確信しているのにアキラは内心苦笑してしまった。
「わかった。それじゃ朝食を食べてそれからこの近所を散歩して、それからだったら答えてもいい」
「マジ?」
「本当も何も」
キミは最初からそのつもりで来たんだろうと言ったらヒカルは悪びれなく「うん」と言った。
「ここだったら絶対言って貰えるかな…って」
「キミが望む答えかどうかわからないけれどね」
「絶対おれが欲しいと思ってる答えだって!」
微塵の疑いも無くヒカルがそう言った時、窓の外をまた海鳥が横切り、アキラは溜息をつきながら
「負けたよ」と小さく呟いたのだった。
※嘘ハワイです。なのでここはハワイのどこだなどとツッコミを入れないでいただけたなら嬉しいです。
普段と全く違う環境に身を置く。それで壊れるものもあれば結ばれるものもあるということで。
どちらにしても普段はわからないお互いの姿を見ることが出来ていいのでは無いかと思います。
2009.5.3 しょうこ