Destiny
「いつかおれを捨てる時は、ちゃんとおれに言ってね」 昼下がり、一局終えた後にごろりと畳に横になると進藤はふいに言ったの だった。 「おれのこと嫌いになった時はさ、ごちゃごちゃ考えないでそこできっぱり別 れるって言って」 「何をいきなり」 かなり面食らって尋ねると「だっておまえ、気持ちが離れてもおれのこと可哀 想って思って合わせちゃう気がするからさぁ」 おれ、バカだからきっとおまえにそうされても気が付かない。だからもしそうな ったらはっきり嫌いと言ってと言う。 「…じゃあぼくも」 「それは無し」 半分も言いかけないうちに言葉は断ち切られてしまった。 「おれがお前のこと嫌いになるなんて死んでも、地球がひっくり返っても絶対無 いから」 「なのにぼくにはあると思っているのか…そんな薄情ものだとでも?」 どちらかと言えばぼくの方は、彼の心が変わる方が有り得そうな気がしているの だけれど。 陽気で人当たりがいい、多少野放図ではあるものの、見目も悪くない彼は若い女 性にとても人気がある。 「ぼくのキミへの気持ちがそんなものだと?」 随分失礼だなと言うと、進藤は拗ねたように顔を背けた。 「…そんなふうに思っているわけじゃないけどさぁ…おまえ冷静に話しとかできちゃ うじゃん。嫌いな奴にも嫌いって顔しないで、そのくせ心の中ではきっぱりと決別す る。もしおれあれやられたら悲しくて死ぬと思うから」 そこまで言われてははあと思った。 つい先日のこと、ぼくはあるベテラン棋士と言い争いになったのだ。 同じ研究会に出入りしていて、それまで好意的に目をかけてもらっていた人。 それがつまらないことでぼくを中傷し、父をもバカにするようなことを口にしたのでら しくなくカッとなってしまった。 「塔矢先生は狡い。国内で勝てなさそうになったから海外に逃げるとは」 父の前では自由闊達で羨ましいとそんなことを言っていたくせに、同じ口がそんなこ とを言うのが信じられずつい口が滑ってしまった。 その人は最近健康が優れず、碁の方も芳しくなくて、そのせいだったのかもしれない けれど、酒の席であったこともあり、アルコールのまわったぼくの頭はその暴言を聞 き流せなかったのだ。 「むしろ今は海外の方が囲碁のレベルは高くなっているじゃありませんか」 日本の囲碁で満足できなくなったから、己を高めるために父は国の外へと目を向けた のだと思いますよと。つい当てこするようにそう言ってしまったら相手の顔色が見てわか るほどにはっきりと変わった。 まさに売り言葉に買い言葉。 しまったと思った時にはもう引き返せない雰囲気になってしまっていた。 「あ〜まあまあ、アキラもそうムキにならない。昔からお父さん子だからしょうがないけ どさぁ」 芦原さんが何とか納めてくれたから良かったものの、あのままだったらとても収拾は つかなかっただろう。 「すみません、仁科先生。酒の席ですから…どうか」 ぼくもすぐに謝ったけれど、でもその日から、その人はぼくにとってこの世に存在しな いのと同じものになったのだった。 目には映すけれど、心では確認しない。 「あの人はもうぼくにはどうでもいい人になってしまったんだよ」とバカ正直に進藤に 言ったのがいけなかったのか。 同様のことを過去に何度も見てきている進藤は、それで不安になってしまったらしい。 特に先日の人は、「いい人なんだよ」と言った記憶も消えない間での出来事だったか ら。 「だからってぼくがキミにそんなことをするなんて」 「しないって言えるのかよ」 顔を覆う腕の下から進藤の目がぼくを軽く睨む。 「おれ、バカだし阿呆だしスケベだし、おまえの都合なんてこれっぽっちも考えない所 あるし、でもそれってよくよく考えてみたらおまえが一番嫌いなタイプなんじゃんよ」 「…まあ、確かに」 ずかずかと無神経に踏み込んでくるバカはキライだ。 というより、ぼくは誰にも入って来て欲しくは無いと思っている節があるから。 「キミ以外はね」 「え?」 「キミ以外の同じようなバカにはぼくは容赦しないよ。でも何故か、キミのことは一生 嫌いになれないって思うから」 大丈夫だよと言いつつ、心の中で違うと思う。 そうじゃない。嫌いになれないなんてそんなものじゃなくて、好きで好きでたまらない のだ。 初めて会った時からぼくを捉えて離さないこの瞳を。 髪を腕を目を体を。 他の人間が言ったなら許さないと思えるような軽口さえ、ぼくはたまらなく愛しいとそう 思っているのだと気が付いて少しばかり自分で驚いた。 (そうかそんなにぼくは好きだったのか) この男が好きなのかと。 なのにその当人はぼくが自分を嫌うかもしれないとそんな明後日のことを心配している のだからと、そう思ったらおかしくてたまらなくなった。 「なんで笑うんだよ」 思わずこぼれた笑みを見とがめられて拗ねたように言われる。 「キミがあり得ないことを真剣に心配してるからだよ」 「あり得ないって?」 「だからぼくがキミを嫌いになっても態度に表さないかもしれないなんて」 そもそもぼくは絶対に一生キミを嫌いになんかならないんだからあり得ないんだよと、 そう言ったら進藤は疑り深そうにぼくを見た。 「…なんでそう自信満々に言うわけ?」 「確かにキミはどうしようも無いバカでどうしようも無い身勝手で、ぼくを泣かせてばか りいるけれどね」 おいおいおれそんなこと言ってねぇと抗議するのを手で制する。 「それでも出会った頃からぼくはキミのことしか見ていない」 ずっとキミのことしか好きでは無かったんだよとそう言ったら進藤の顔が赤くなった。 「だ…それは…」 「碁のことはもちろんだけど、それだけの理由でぼくはあんな傍若無人で失礼極まり ない、小学生のキミを追いかけたりはしなかったと思う」 それはつまりそれ以外のものが存在したということなんだからと。 「それって…もしかしておれが好みだったってこと? おれみたいのがお前、好みだ ったの?」 「さあ、わからないけど。でも…」 キミがいなかったら生きていけないくらいにはキミのことが好きみたいだよと言ったら 進藤はみるみるうちに真っ赤になった。 「あ…その…アリガト…です」 「安心した?」 「…う…まだわかんないけど」 でも嬉しかったありがとうと言う進藤は、もう首や耳や、指先まで赤く染まってしまっ ている。 「お、おれは大好きだから…」 最初から好きだったし、これからも一生好きだからと。 「おまえの全部、ばっちりおれの好みだからさ」と、しどろもどろに言われて愛しさで 胸が痛くなった。 「うん…ぼくもキミが大好きだよ」 言葉に出して言うと、進藤は驚いたような顔をして、でも嬉しそうに笑った。 「―おれの方がもっと好きだよ」 「いや、ぼくの方がもっと…もっとキミのことを好きだよ」 他愛ない、こんなバカな言い争いをする自分が信じられない。 運命という言葉はあまりに陳腐で使いたくは無いけれど、でも他に似合う言葉が 見つからないからやはり運命なんだろうとそう思う。 キミとぼくが出逢えた奇跡。 それに心から感謝しているから―。 「ぼくがキミを捨てるなんて絶対に―絶対にあり得ない」 ずっと、ずっと、ずっと、ずっと。 キミのことが大好きだよと、そう言ったら進藤は耐えきれぬようにぼくをかき抱き、 泣きそうな顔で、熱い、甘いキスをしたのだった。 |