奥様はプロキシ
番外編
すみませんちょっと変な方に暴走しました。ヒカル母の話です(^^;



「男の子なんてつまらないわよ」

ヒカルを産んだ時、見舞いに来た人生の先達―主に叔母たちは口をこぞって言った
ものだった。


「そりゃあ、小さい頃はかわいいけれど、ちょっと大きくなったと思ったら、ババア、メシ
って」
「そうそう、で、挙げ句の果てにどこの馬の骨とも知れない女を引っ張ってきて結婚しま
すなんてね」


自分自身には男兄弟はいず、子どももヒカルが最初の子だったので、美津子はヒートア
ップしていく会話をただ、ただ感心して見つめた。


(そうか、この子も)

こんなに小さくてかわいいこの口が、いつか自分をババアと呼ぶのかと思うと不思議で、
少しだけ切ない。
ババア、メシ。でもそこまで成長した姿を見てみたいとも思うのは既に重度の親バカなの
かもしれなかった。



「―どんな人生を送るんでしょうねぇ、この子」

叔母たちが帰った後、美津子はぽつりと夫に言った。

「そんな大それたことはしなくていいから、幸せな人生を送ってくれたら」

それでいい。そう思う。

「どんな人と結婚するのかしら…」

きっと可愛くて、きれいで、素直な、聡明な人を連れて来るだろうと言うと、それは注文
のつけすぎだと夫が笑った。


まさか二十年後、男同士で結婚すると宣言するとは…。

目の前に並ぶ二人を身ながら、美津子は遠いあの日に思いを馳せ、そして大きくため
息をついたのだった。




「おれ、結婚する」

唐突にヒカルがそう言った時,驚いたものの、二十歳だから無いことでも無いかと美津
子は思った。けれど相手を尋ねた時、その口から出た言葉には正直、凍り付くかと思
った。


「えー? 塔矢」
「と、塔矢って、アキラくんのこと?」
「うん。おれ、あいつのこと好きなんだ」


正気に返るまで十秒ほどかかった。

「ふざけないでちょうだい、だってアキラくんは男でしょう」
「だから?」


それの何がいけないのかと言う態度に美津子は絶句した。碁を始めた頃から、なんでも自
分で決め、目標に突き進んで行った。そんな息子を親としてやや淋しいとは思いつつも、頼
もしいと思っていた。でも…これは有りなんだろうか?


「だって…じゃあ、あなたずっとそうだったの?」

ゲイという言葉は知識としてはあるけれど、まさか自分の息子に当てはまるなどと思ったこ
とも無かった。


「えー? 違うよ、おれ塔矢が好きなだけで、男が好きなわけじゃなねーもん」

けろりと言われて、でもじゃあそれとこれがどう違うのか説明しろと言いたくなる。

「で、で、で、でも、結婚て言うのは一人の意志じゃできないもので」
「あいつにもプロポーズした」


あっさり言われて再び絶句する。

「じゃ、じゃあ、アキラくんがそういう…」
「あいつも別にホモじゃねぇよ。おれのこと好きなだけ」


あっけらかんと言うことかと思わず背後、仏壇の両親の写真を探してしまった。

(お父さん、お母さん、あなたの孫が大変なことにっ)

でも写真が助けてくれるわけもなく、頼みの夫も今は単身赴任で遠く離れた場所にいる。

「とにかくさー、もう向こうの家には話、通してあるから、母さんも塔矢に会ってくれない?」
「話って…あなた、向こうのお宅に伺ったって言うの?」
「一昨日行ってきた」


話だけはよく聞く、塔矢名人。碁の世界では神様にも近いというその人の家に、結婚の
承諾を得に行ったと言うのだ。
さーっと音をたてて血の気が引くのを美津子は感じた。


「…で、あちらはどう言っているの?」
「別にいいって」
「いいって?!…本当にそうおっしゃったの?」
「うん。あいつのオヤジとちゃんと話してきた。心配はしていたけど、でもおれらの意志を
尊重するって」


頭がくらくらとした。

「か、神様に近いって人は考え方もそうなのかしら…」

思わずつぶやくと、すかさずヒカルが訂正を入れた。

「違うって、『神の一手に誰よりも近い』んだって。あー、でもおれと塔矢もいつかそこに行
くけどさ」


嬉しそうに言う、息子の言葉がほとんどわからない。

宇宙人なんじゃないか。
取りかえっ子というのも聞いたことがある。
こんなわけがわからないことを嬉々として言う息子が果たして本当に自分の息子なのか。
けれど美津子の葛藤にはまるで気づかず、ヒカルは言ったのだった。


「だからさー、父さんにも連絡して。あいつ連れてくるから」
「そ、そう。そうね…わかったわ」


他に言うことができなくて、美津子はそうヒカルに答えながら、昨日病院でもらってきた血圧
の薬を引き出しからそっと取り出したのだった。




夫に連絡をとり、慌ただしくセッティングをしたその日は、憎らしいくらいの上天気で、美津子
は良かったのか悪かったのかと窓の外を見ながらつぶやいた。


「おい、そろそろ来る頃じゃないのか?」

夕べ最終の新幹線で帰ってきた夫は三時間ほどしか眠っていない。眠れなかったというのが
正しいだろうか。
自分もまた眠れなかった。塔矢アキラを息子の友人としては知っていた。
この家にも何度か来たことがある、今時珍しい礼儀正しい子だと思った。けれど今日、アキラ
は息子の結婚相手として挨拶にやって来るのだ。


「ただいまー」

脳天気な声がしてヒカルが帰ってきた。もう何十回もふきんをかけたリビングのテーブル、美
津子は他に何も手につかなくて更に磨きをかけていたのだが、びくりとその手が止まった。


「父さん? 母さん?」
「は、はあい。今行きます」


夫と顔を見合わせ、覚悟したように頷き合う。これから何が起こっても動揺しまいと夕べ話し
合って決めたことをもう一度確認する。


「い、いらっしゃい」

玄関にはヒカルと、その後ろに申し訳なさそうな、とまどったような顔をしたアキラが立ってい
た。


「こんにちは」

ぺこりとアキラが頭を下げるのに、美津子も慌てて頭を下げる。

「今日はお忙しい所を申し訳ありません」と、それは夫に向かってアキラが言った。

(相変わらず礼儀正しい子だわ)

ヒカルとは大違いだと、こんな時なのに美津子は感心してしまった。

「いや、まあこんな所じゃなんだし、あがってください」

おかしいほど常套に全てが進んで行く。

「あの…これ、母がよろしくと」

アキラが言って差し出したのは銀座の菓子屋の和菓子だった。

「まあ、ありがとうございます」

受け取る、それは栗の菓子で、美津子はああと思った。
ずっと前、遊びに来たアキラと話をしていて、栗が好きなのだと言った記憶があるのだ。
何の話で出てきたのだったかはもう忘れてしまったけれど、互いの好物を話したような
気がする。アキラはそれをちゃんと覚えていたのだろう。


「ありがとう、これ大好きなの」

美津子が言うと、ぱっとアキラが嬉しそうに微笑んだ。

(いい子…なのよね)

持たせたのは母親でも、選んだのはたぶんアキラに違いない。
美津子のアキラを見る眼差しから緊張が解け、その色は急速に優しくなった。




「で、あ、あの…」

茶と、和菓子を前にして四人、テーブルにつく。
堅苦しくしたくなくて話す場所を和室にしなかったのだが、それでもやはり和気あいあい
といった感じにはならないものなのだった。


「塔矢くんは、今、碁の方は」

沈黙の中、ようやく夫がぽつりと話を始めた。

「はい、五段です」
「ヒカルは三段だったわよねぇ」


救われたように美津子も口を開く。全くこんな時には一体どんな話をしたらいいものな
のかわからない。そしてそれはたぶん皆同じ気持ちなのだろう。


「収入はやっぱり五段の方が…」
「そうですね、一概にそうとは言えませんが、やはり段位に比例していきますから」
「どうなのかな、奥さんの方が収入があるっていうのは」
「あなた、二人とも男なんですから、奥さんていう言い方は変ですよ」
「あ、そ、そうか。申し訳ない」


夫もかなり逆上しているようで、慌てふためきアキラに頭を下げる。

「いえ、そんな気を遣わないでください。お義父さんも…お義母さんも」

お義父さん、お義母さんと呼ばれて、美津子と夫は同時にびくりとした。

「あ」

アキラが小さく言い、それから「ごめんなさい」とつぶやいた。
本当に、悪い子ではないのだと、アキラを見ながら美津子は思う。面食いの息子が選ん
だだけはあって、母親似のアキラは顔立ちが整っている。


さっきから実感しているように礼儀正しいし、頭もいいのだとヒカルに聞いた。これで性
別さえ違っていたら、こんなためらう気持ちにならずに済んだのにと少しだけ苦く思う。


「あのさー」

ぎこちない会話と続く緊張に業を煮やしたのか、唐突にヒカルが言った。

「やめようぜ、こういうの。話、進まないじゃん」

そしてアキラをふり返り言う。

「おれ、こいつと結婚しようと思ってる。いいかな」

いいかなも何ももう決めているんだろうにと喉元まで出かかる言葉を押しとどめる。

「塔矢くんもそれで本当にいいの?」

思わず美津子が尋ねると、うつむいていたアキラがはっとしたように顔を上げた。

「―はい」

まっすぐに自分の目を見て言う。その瞳にはかけらの迷いも無かった。

「こ、子どもを作ることはできないですが」

付け足して、顔を真っ赤に染めながら言う。

(…か)

相手は成人した男であるにも関わらず、ついかわいいと思ってしまった。
本当に素直な子なのだと、しみじみと美津子はアキラのことを見つめた。


「…じゃあ、色々と決めないとね」

ため息まじりに言うと、アキラの目が驚いたように見開かれて、それから嬉しそうな笑
顔になった。


「ありがとうございます」

深く、頭を下げる。

とにかくこれで後戻りはできなくなったのだ。



噂というものは恐ろしいもので、数日後、買い物をしていた美津子は近所の杉本とい
う主婦に声をかけられた。


「進藤さん、聞いたわよ、ヒカルくん結婚されるって」
「あ、はあ杉本さん…いえ、まあ」


どこから漏れたものか。承諾はしたものの、まだ美津子には周囲に打ち明ける心の
準備が出来ていなくて正直困ってしまった。


「おめでとうございます。で、どんなお嬢さん? もうお会いになったんでしょ?」
「ええ、まあ」


曖昧に言葉を濁しながら、なんとか逃げようと思う。悪いことに杉本は近所でも有名な
噂好きで、うっかり何か言えば一時間以内に広まることは間違いないからだ。
たぶん、ヒカルの結婚の噂を聞きつけて、更に情報を得ようと自分を捜して来たのだ
ろう。


(ヒカルの結婚相手が男だって知ったら、どんな顔をするのかしら、この人)

尾ひれ、背びれをつけてふれまわるのは間違いないと思いげっそりとした。

「ヒカルくんはいいわよねぇ、囲碁の才能があるんだから。うちのバカ息子なんか、就職
はできたものの安月給でいつリストラされてもおかしくなくて」
「はあ、いえ」


相づちとも言えない相づちをうちながら、なんとか解放される術を美津子は考えた。

「兄の息子なんか、二十も年上の女を連れて来て結婚するだの大変な騒ぎでねぇ。しか
もそれが水商売の女だって言うんだから。進藤さんとこは違うでしょう?」


微妙な探りの手が気持ち悪い。

「やっぱり、碁の偉い先生の娘さんかなんかで」
「ええ、まあ、そんな所です」


碁の偉い先生の、までは合っているのだが。
娘じゃなくて、息子だと言ってやったらどうなるのかと、危険な好奇心もわき上がらない
でも無いけれどそれはぐっと我慢した。



冷や汗をかきながら、どれくらい話をしていただろう、背後から今一番聞きたくない声
がした。


「あれー、母さん何やってんの」

ふり返ると、そこにいたのはヒカルで、悪いことにアキラも連れていた。

「引っ越しのこととかあるじゃん? これから行こうと思ってたんだけどまだ話し中?」

飛んで火にいるというべきか、話の矛先はヒカルに向かった。

「あら、ヒカルくん。今ちょうどね、あなたの話をしていたのよ。ご結婚なさるんですって、
おめでとう」


飛びつくように杉本がヒカルに向かい、それから誰だろうと言うようにちらりとアキラを
見た。


「あ、ありがとうございます」

そんな杉本の視線には気づかず、屈託なくヒカルが答える。

「で、どんなお嬢さんなの? お母さんたら、なかなか教えてくださらないから」

興味津々で尋ねる杉本は、まさか隣にいるアキラがその相手だとは夢にも思わな
いようだった。


「えー? そりゃあ美人でぇ、碁が強くてぇ…い痛ーっ!」

しゃべりかけたヒカルの脇腹をアキラが思い切りつねったのだ。美津子が困った立
場にあることを見抜いてヒカルの口を止めたのだ。


「なにすんだよ、おまえ」

それに対してヒカルの方はというと、鈍すぎるのか後ろめたいものが何一つないから
なのか、なぜ自分がつねられたか全くわかっていないようだった。


「進藤…」

小さくアキラがささやく。

「先に行こう」

袖を引き、美津子に微かに頭を下げる。

(ごめんなさい)

声にならない声を聞いたような気がして、美津子は、はっとした。


何が悪いんだろう?
目が覚めるようにそう思った。


大昔、ヒカルが生まれた時に漠然と思った結婚相手。
可愛くて、きれいで、素直で聡明。
それがアキラには全部当てはまっているというのに、なぜ他人を前にして、恥のように思
うのだろうか。


杉本が言うように、ろくな結婚をしない者は山のようにいる。また幸せな結婚をしても子ど
もに恵まれない者もいる。それは色々で幸不幸はそれぞれの感じ方次第で変わる。


ヒカルとアキラのそれは、同性同士だという、それだけが普通とは違うけれど、祝福されて
いいものではないのか。



「進藤さん?」

急に黙りこくってしまった美津子に、杉本が不審そうに声をかけた。

「どうしたの、あなた、気分でも悪いんじゃ」
「あ、いいえ」


正気に返って、慌ててヒカルたちを呼び止める。

「ヒカル、塔矢くん」

驚いたように二人がふり返る。

「なに?」
「せっかく杉本さんがいらっしゃるんだから、紹介しないと」


何がどうなのか全員がわからずに、目をぱちくりとさせるのをにっこりと微笑み、アキラの肩
に手をかける。


「杉本さん、この人が今度ヒカルと結婚する塔矢…アキラさん。うちに一緒に住むことになり
ますから、よろしくお願いしますね」


さすがの杉本も絶句して、ぱくぱくとただ口を開けている。

「で、アキラさん、こちらがうちの斜め前の家の杉本さん、何かとお世話になることが多いの
でお名前をちゃんと覚えておいてね」


呆気にとられ、立ちつくしていたアキラが美津子の顔を見、それからヒカルの顔を見た。
ヒカルと美津子両方に微笑まれて、さっと頬に赤味がさす。


「はい。よろしくお願いします」

ゆっくりと深くおじぎをする。

「じゃあ、杉本さんお先に失礼します」

まだ動けないでいる杉本を置き去りにして、美津子はヒカルとアキラと共に歩き出した。


「あ、あの…いいんですか?」

心配そうにアキラが言う。

「もう今夜中には近所中に知れわたっちゃうなあ」

暢気にヒカルが言って、アキラは心持ち青ざめた。

「やっぱり、訂正してきたほうが…」
「なんで? おまえ本当におれと結婚すんだろ」
「でも、キミの家があそこに住めなくなったりしたら」
「―大丈夫でしょ」


アキラの言葉を遮るように美津子が言った。

「別に何かやましいことがあるわけじゃなし」

のんびりとした言い方は、自分では気が付いていなかったけれど、ヒカルにそっくりだった。

「今日、お夕飯何にしましょうか?」
「おれ、カレーがいい」


ヒカルが言うのを聞き流し、美津子はアキラをふり返った。

「鰆がいいかしら。確か魚、好きだったのよね?」
「―はい」


にっこりと笑う、その顔をやはりかわいいと思うから。

(息子が二人になったんだと思えばいいんだわ)

明日からきっと騒がしくなる。でも、一人であの家で暮らす。それよりはずっと楽しい日々
になるのではないだろうか。


自分とヒカルとアキラと、三人でー。

「杉本さん、おもしろい顔してたわねぇ」

思い出して笑いながら、美津子は妙に清々しい気分になって空を仰いだのだった。



※なぜ母話を書いてしまったのかしらと自分でも不思議(^^;しかも母ビューなので、アキラが妙にカワイイです。
後に自分の息子をばしばし殴りつける気の強さを持っているというのを知るのですが、それでもカワイイと思っ
ていると思います。ヒカルビューと母ビューはとても似ているので、アキラの結婚生活はうまくいくことでしょう。
とりあえず次は来月に本編。アキラ視点の話にもどります。→プロキシ