意外に長い付き合いではあるものの、進藤の泣き顔を見たのは一度きりだった。

北斗杯で高永夏に負けたその時に、涙をこぼしたのを見たきりでその後は泣く姿
を見たことは無い。


それほどに真剣だったのだと。
それほどに悔しかったのだと、初めて見た涙は衝撃で、でもとても美しいと思った。




そう言うぼく自身は実は人前で泣いたことが無い。

それというのも父が人前で泣くことを恥ずかしいことだとぼくに教えたからだ。

男たるもの無闇に涙を見せるものでは無いと、特に勝負の世界に身を置いているの
だから弱みを見せるものでは無いとそれはとても納得のいく言葉だった。


だから決して泣くまいと、悔しくても辛くても泣くことだけはしないと心に決めていたの
だ。


けれど進藤の涙は美しいと思ったし、別に泣いたことを男らしくないとも思わなかった。
そういう涙もあるのだとぼくは進藤を見て知ったような気がする。


以来「泣く」ということに対してそれほど構えることは無くなったのだけれど父の言葉の
呪縛は案外と強くて、ぼくが人前で泣くことは無かったのだった。





初めて泣いたのは、進藤に告白された夜だった。

ずっと好きだったのだと言われて、気がついたら涙がこぼれていた。

「ごめん…嫌かもしんないけど」

おまえのこと好き。

ずっとずっと好きだったと、ぎこちない彼の言葉は胸の奥底まで染みた。

「嫌だなんて…そんなこと」

あるわけが無い。

ずっと秘めてきた想いを打ち明けようとした瞬間に声が喉に詰まり、代わりに涙がこぼれ
た。


「ぼくもキミが…す…」

好きだよとどうしても言えず、俯いた頬を涙が滑った。

あんなに拘っていたにも関わらず、あっさりと泣いてしまった自分に驚いたけれど、でもそれ
ほど彼のことを好きだったのだと自覚して、思っていた程抵抗感は覚えなかった。


はじめてのキスは頬にで、進藤はこぼれるぼくの涙を全てキスで掬った、その感触の優しさも
ぼくにそう思わせたのかもしれない。




恥ずかしい。

けれど後で我に返った時にはあまりの自分の無防備さにやはり恥ずかしいと思い、それから少し
悔しくなった。


だってぼくは泣いてしまう程に彼の言葉で心を乱されたというのに、彼は泣いてはいなかったか
らだ。


確かにがちがちに緊張していたし、声もうわずっていた。普段の彼ではまるで無かったけれど、
でも我を忘れてはいなかったのだと考えたら信じられないくらい悔しくなった。


つまりぼくは高永夏に負けたのだ。

北斗杯で彼に負けたことの方が進藤にとっては重大にことだったのだ。

悔しかった。

無自覚ではあるのだろうけれど、彼にとっては永夏…いや、碁の方が大きな存在なのだと知らされ
たようで、それは我が儘ではあるかもしれないけれど、恋を自覚し始めたばかりのぼくにとってはた
まらなく悔しいことだった。


碁より大事なものは無い。

それは当たり前のことで、そうでない彼を望んでいるわけでも無いのに、おかげでぼくはかなり長い
間彼に対して素直になることが出来なかったのだった。





二度目に彼の涙を見たのは、初めて体を重ねた夜だった。

何度も失敗して、それからようやくぼくの中に自身を納めた彼は、大きく息を吐くとそれから何かを
呟いた。


「……」

体の熱に浮かされた、譫言のようなものとぼくは思ったのだけれど、その後激しく体を揺さぶられな
がらふいにかちりと頭の中でつぶやきが言葉として脳に届いた。



『夢みてぇ…』

幸せだと、彼はつぶやいたのだ。


「あっ…あっ……進藤っ……」
「塔矢っ、塔矢っ」


初めての熱と初めての痛みと初めての高揚でぼくはわけがわからなくなり、視界に映る彼の顔も汗と
涙でよく見えなかったのだけれど、気を失いそうになるほど長い時間の後に、ふるりと彼が震えた時
にのけぞった顎とその顔がはっきりと見えた。



彼は泣いていた。

幸せだ。愛してるとそうつぶやきながら泣いていたのだった。

「進藤…」

彼の表情は切なくて、ぼくへの愛に満ちていた。


(なんでぼくは馬鹿なことを……)

つまらないことで拗ねていた自分をぼくは恥じた。

別にぼくは彼にとって碁よりも低い存在では無く、泣くほどに真剣に愛する対象であったのだと、ようやく
それがわかったからだ。


「塔矢……好き」

流れる涙を隠しもせずに彼はぼくの体を抱きしめた。
びっしょりと汗をかいた体は緊張からか震えていた。


「なんか言って……?」

不安そうな声が耳元に囁く。

「大好きだよ……ぼくも」

ごめん、愛しているよと彼の体を抱き返しながら、ぼくは彼の涙は美しいと思い、たまらなく尊く愛しいと思
ったのだった。




100題、1話目は「涙」それでもってまたまたまたまたまたまたお初話です。はうー(びしっ←鉄拳制裁)
勝負で負けた涙と気持ちが高ぶった時の涙は全く違うものですが、恋愛初心者なのでつまらんことも
気になると、そういう話なんでした。2005.9.20 しょうこ これからもよろしくお願いいたします。