頬杖
どういうきっかけでそういうことになったのか覚えていないが、皆で飲みに行った居酒屋で、
おれは隣に座っていた野郎の集団と喧嘩になってしまった。
元々かなりテンションが高く、酔いもしたたか回っていそうなそいつらが目障り耳障りだっ
たせいもある。
でもたぶんきっかけとなったのは、トイレに行くのに通りかかったそいつらのうちの一人が
塔矢の肩にぶつかって、「邪魔だこのカマ野郎」と暴言を吐いたからだったと思う。
言われた当の本人はすみませんと至って冷静だったのだけれど、それまでずっと苛々とし
ていたおれは本当に頭に来てしまって、つい「ふざけたこと言ってんじゃねえ、てめぇ」と怒
鳴ってしまった。
そして後はもうなんだかよくわからない。
和谷達は止めに入ってぼこぼこに殴られて、越智も可哀想に殴られていた。
店員は狼狽えて「やめてください」を繰り返していて、おれは二人ばかり倒した所で一人に
羽交い締めにされて残るもう一人にめった殴りにされてしまっていた。
(あ、ヤバイ)
殴られたり蹴られたりはまあ経験の無いことでは無いので構わなかったのだけれど、相手
が酒瓶を振り上げておれの頭を殴り、その痛みで失神しそうになった時に初めて死ぬかも
しれないと思った。
塔矢に対しての暴言は許せなかったし、怒鳴りつけたことにも後悔は無い。
ただそれに同席したヤツらを巻き込んでしまったのは申し訳なかったと思ったし、こんなつ
まらないことで死んでしまうのだとしたら自分はバカだと本気で思った。
「塔―」
おまえは逃げろよと、必死に相手に蹴りを入れながら目で周りを探したけれど塔矢の姿は
どこにも無かった。
もうとっくに逃げてしまったのかと思ったら、ほっとしたのと同時に失望したような気持ちに
もなった。
そうか、あっさりとおれを置いて逃げてしまったのかと、考えていることが矛盾しているのは
よくわかったがそう思わずにはいられなかった。
(せっかくおまえのために戦ったのに)
バカだ阿呆だと思いつつ、ついふて腐れた気持ちで思った時に再び酒瓶が振り上げられた。
さっきは寸前で相手の腹に蹴りを入れられたので多少勢いが収ってあの程度で済んだけ
れど、今度はタダでは済まないだろう。
本当に死んでしまうかもとその一瞬に目を瞑った時だった。
バシャッといきなり何か冷たいものが浴びせかけられた。
「なんだ?」
おれを殴ろうとしていた相手もいきなりのことにその手を止めて、その「何か」をぶっかけた
主を捜そうとして振り返った。
そこに再びバシャッと何かがふりかけられた。
(水?)
たまりかねた店員がバケツで水でもぶっかけたのかと思った時に凛とした声が響いた。
「いい加減にしろ!」
それはあまりにも聞き覚えのある声だった。
「なんだてめぇ」
酒瓶を振り上げたまま男が睨み付けているのは誰でも無い塔矢で、手には見慣れない酒瓶
を持ち、もう片方の手には百円ライターを持っていた。
「おまえ、さっきのカマ野郎じゃねーか、なんか文句あんのかこら」
凄みのある声で怒鳴られても塔矢は眉一つ動かさず、静かな口調で言った。
「そこの彼を離して貰えないかな。そしてこれでもう喧嘩を収めて、店から出て行って貰えな
いだろうか」
逃げたのじゃ無かった。それはとても嬉しかったがとても塔矢が敵う相手では無い。
「やめろよ、塔矢、こいつらに何言っても通じないって!」
「うるさい、キミは黙っていろ!」
言いながら塔矢は持っていた酒瓶を振り上げて中の液体をおれ達にかけた。
ジャバジャバと勢いよくかけられたそれは、倒れているそいつの仲間や越智や和谷達の体
にもかかった。
もちろんおれとおれを殴っている奴等の体も更に濡らして、辺りにはちょっとした水たまりが
出来た。
「どういうつもりだ? 水なんかかけられたってなあ、痛くも痒くも無いんだよ」
苛立ったように男が言うのに塔矢は軽蔑したような眼差しを向けて、持っていた瓶を放り投
げた。
「水? これが?」
そして今度はライターを持っていた手を男に向かって突出した。
「これはポーランド産ウォッカ『スピリタス』。度数は96度でウオッカの中でも最もアルコール
度数の高いウオッカだ」
酒というよりはほとんど燃料だねと言ってにっこりと笑った。
「今ぼくの手にはライターがある。ウオッカは気化しやすいアルコールでもあるから、もしぼく
がここでライターの火を点けたらどういうことになるか…あなたにもわかりますよね?」
「はぁぁ?」
何言ってんだこのバカは? という雰囲気で男は塔矢を睨み付けた。
「そんなハッタリでおれが怖じ気づくとでも思ってんのかぁ?」
「………スピリタスは燃えますよ」
殴られて倒れていた越智が顔を上げてかすれた声で言った。
「舐めてみればわかる。相当キツイアルコールだし、これに火をつけたらぼく達はみんな火
だるまですよ」
越智の目は塔矢の手元に釘付けだった。
「正気じゃない…塔矢…ぼく達を焼き殺すつもりなんですか?」
「そんなことにはならないと思うよ、この人達が大人しく拳を収めてくれたら」
そうでなければ少し熱い思いをすることになるかもしれないけれどと言いながら、塔矢はラ
イターの着火レバーに指をかけた。
「わっ、やっ、やめろっておまえ」
そんなことをしたら火をつけた塔矢自身にも火がつくのではないかと気が付いて、おれは
慌てて止めた。
「危ないから、もういいから、とにかくやめろっ!」
「いいや、止めない。その人達がキミを離そうとしないつもりなら、ぼくは躊躇無く火をつけ
るよ」
さあどうするとはたと睨み付けられて、不貞不貞しい男達の空気が変わった。
「ちょ……マジヤバイんじゃ…」
「バカ野郎、そんなの嘘に決まって―――」
カチリと音がした。
「うわあっ」
越智が悲鳴を上げて頭を抱える。
塔矢の手元が明るくなり、見慣れた百円ライターの光がそこに現われた。
「さあ、早く彼から手を離して――」
「う――」
火をかざしたまま、塔矢がじりっと男に迫る。
「さあ、早く!」
そしてゆっくりと床に投げ捨てるしぐさをした途端、おれを羽交い締めにしていた方の男
がいち早く逃げ出した。
「やってらんねえよ、この×××イ野郎!」
それに釣られるようにして、塔矢と対峙していた男も酒瓶を投げ捨てると逃げ去ってしま
った。
「あーあ、仲間を置き去りにして逃げるなんて」
まったくろくでも無い人達だねと、塔矢はライターから指を離すとため息をついて言った。
「まあ、そんな奴等に喧嘩をふっかけるキミはもっとバカだけれど」
そして火の消えたライターを後ろにいた店員に手渡すと、塔矢はゆっくりとおれの所に
近づいて来て跪いた。
「大丈夫か進藤…」
非道く殴られていたようだけれど気分は悪く無いかと言って頬を撫でる。
「気分は悪く無いけど…」
「ん?」
「なんかもう…色々な意味で心臓が止りそう…」
その後、おれ達はみんな仲良く警察に連れて行かれ、そこでこっぴどく説教をされた。
そしてその後、皆が皆怪我人ばかりだったので近くにある病院へと搬送された。
「ぼくはもう二度と塔矢とは飲みには行きませんよ…」
左腕と足に包帯を巻いた越智はそう行って病室を出て行った。
「取りあえずおれは今後一切、あいつを怒らせるのはやめにする」
和谷はそう言って、頬にガーゼを貼った姿で帰って行った。
一番非道く殴られて、頭も酒瓶で思い切り殴られてしまったおれは翌日に検査を受ける
ことになり、ただ一人帰ることも出来ず、病室に取り残されることになった。
「みんな帰ったのか?」
おれ達の代わりに最後まで警察で事情聴取をされていた塔矢は、しばらくして病室に入
って来ておれのベッドの傍らに屈み込んだ。
「どうだ…気分は?」
「悪くない、だからおまえも帰っていいよ」
「いや、いいよ。今日はずっとキミの側に居る」
そしてベッドの縁に頬杖をつくようにしておれの顔を見つめた。
「おまえ…結構無茶やんのな」
「無茶?」
「一歩間違えてたら、おれらだけじゃなくておまえも火だるまになってたんだぞ」
「ああ…でもああでもしなければ止められないと思ったし」
あともう一度殴られていたらキミは死んでいたかもしれないしと、それくらいだったらぼくは
火だるまにでもなんでもなるよと言われて苦笑した。
「越智や、和谷達や店の人達が道連れになっても?」
「仕方無い。ぼくはキミだけが大切だから」
キミを助けるためならば、正直他はどうなってもいいんだよと言われて、こいつはなんて怖
いヤツだろうかと思った。
「…軽蔑する?」
「おっかないとは思うけど…」
頬杖をついておれを見つめる塔矢の顔はとても可愛い。
可愛くて愛しいとしかおれはどうしても思えないから。
「これからはなるべく喧嘩しないように気をつける」
「…うん」
「腹立つことがあっても我慢することにするよ」
「…そうしてくれ」
もう二度とこいつを情け容赦の無い鬼になんかしないように、おれはおれ自身のことも大
切にしようと、傾けられる頭を抱きかかえながらおれはそう誓ったのだった。
※私はアキラと飲みに行きたいとは思いますが、何があってもアキラの敵にはなりたくないと思います。
情け容赦無さそう…。そしてこの居酒屋のうるさいにーちゃん達は実際にいつだったか飲みに行った時
に隣のテーブルに居た人達がモデルです。(いや、どーでもいいことですが)仲間同士で飲みながら殴り
合いを始めるは洒落にならん雰囲気で、皆乱闘になったら逃げだす準備をしながら飲み続けました。
戦慄の飲み会です。
2008.5.21 しょうこ