嘘つき




進藤ヒカルは意地悪な人間だと思う。

人懐こくて友達もたくさん居て、時に大人達には眉を顰められるような行儀の悪さも持っているけれど
悪びれた所が無い。だから皆に好かれていて、本気で嫌われるということは無いのだった。


けれど殊、ぼくに関してだけは性格が悪いと言わざるを得ない。

どうして進藤はぼくに対してだけ、あんなに意地の悪いことを言ったりしたりするのだろうか?




「塔矢、塔矢」

揺り起こされた時、ぼくは新幹線の窓際で、窓にもたれるようにしてぐっすりと眠って居た。

「……ん? 何、もう着いた?」

地方での仕事は個人で行くこともあるが、大きな催し物の手伝いなどには数人で行く。

この時もぼくは芦原さんと進藤と他数名の棋士と共に北に向かう途中で、手合い続きだったために
途中で眠ってしまったのだった。


「いや、まだ着いて無いけどさ」

おまえすげーいびきかいて寝てるから起こした方がいいかと思ってと、進藤に言われた瞬間に、ぼく
はしゃっきりと座り直した。


「えっ、嘘っ」

自慢では無いが、今までぼくは眠っていていびきをかいたことは無い。

「かいてたよ、もうゴジラみたいなすげーいびきかいて、よだれ垂らして寝てるからさぁ…」

いくらなんでもみっとも無いと思ってと言われて、ぼくは口を押さえて真っ赤になった。

「あ……ありがとう」

そしてごめんと、言いながらも自分が犯したらしい失態に、恥ずかしくて死にそうだった。

「それからさ、前から気になってたんだけど、おまえ寝るとき薄目開けてる時があるから気をつけた
方がいいぜ」
「え?」
「からす目って言うんだっけ? 薄く白目むいて寝てるから見てるとすげー怖い」
「そ、そうなんだ…」


知らなかったとぼくは更に深く落ち込んだ。

「まあ、おれは別に気にしないけどさ、おまえに憧れてるヤツとか見たらがっかりすると思ってさ」
「本当に…申し訳ない」


そしてその後は必死で目を見開いて、一睡もしないように気を張って現地に向かったのだった。




その帰り、ぼくは行きと同じくらい、しゃっきりと背筋を伸ばして席に座っていた。

皆は仕事が終わった安堵感と疲労とでほとんどが椅子を倒して眠っていて、ぼくは羨ましくてたま
らなかったが、眠っていびきをかくぐらいだったら絶対に眠らないと心に決めていたのだ。


道のりの半分ほどまで来た時だっただろうか、やはり眠っていた芦原さんが目を覚まし、ぼくを見
てびっくりしたような声をあげた。


「何? アキラ、ずっと起きてたの?」
「はい」
「元気だなあ、でも少しでも体を休めていないと次の手合いに響いてしまうよ?」
「でも……眠ってみっとも無い姿を晒すのはどうしても嫌で…」
「みっとも無い姿?」


きょとんとする芦原さんに、ぼくは自分が眠っている時にいびきをかいているらしいことを話した。

「ええ? アキラがいびき? そんなわけないじゃない。ぼくはアキラが赤ん坊の頃から知っている
けどいつも静かに眠っているよ」
「でも進藤が…」
「進藤くんが? いつ?」
「行きの新幹線でぼくが寝ていたらいきなり起こして言ったんです」


おまえのいびきがあんまり非道いから起こしてやったんだと、言われたことを説明したら芦原さん
はいきなり大声で笑い出した。


「アキラ、それ…それってば進藤くんに騙されたんだよ」

いやあ、アキラってば素直だからすぐに信じちゃうんだねえと言われて、ぼくはすっくと立ち上がる
と数列向こうの席に座っていた進藤の元に行き、いぎたなく眠っているその頭を殴ってやった。


「痛っ!」
「進藤っ、どうしてあんな非道い嘘をついたんだ」
「あー? 嘘?」


眠いの半分、痛いの半分という顔でぼくを見つめた進藤は、頭をさすりながら、寝ぼけたような口
調で言った。


「なんだっけ? なんかおれ言った?」
「ぼくが眠っている時に、い…いびきをかいているってあれだよ」
「ああ」


進藤は瞬時にわかったらしく、にやっと笑うとぼくに言った。

「別におれ嘘なんて言って無いけど?」
「だって今芦原さんが!」
「おまえさぁ、あの優しい芦原さんが本当のこと言うわけ無いじゃん。おまえがショック受けると思
って嘘ついたんだよ」
「そんな…」
「なんだったら今みんなを起こしてまわって聞いてやろうか? ちょっ、冴木さん」


ゆさゆさと隣で眠っている冴木さんを揺さぶり始めたのでぼくは慌てて止めた。

「いや、いいよ、いい。わかったから」

そして納得いかないまでもすごすごと自分の席に戻ったのだった。


この眠っている姿がみっとも無いというのは、かなり長い間ぼくにとってはトラウマになり、以後数
年間、ぼくは仕事の移動で眠ることは無かった。


どうしても耐えきれず眠りそうになった時には、仕方なく進藤の所に行って、頭からスーツの上着
を被り、もしいびきをかいたらすぐ起こしてくれるように約束させてから眠るようになったのだった。


かなりな勇気をもって父や母、他の信頼のおける先生方や仕事で一緒になったことのある棋士達
に聞いて、やっと本当は芦原さんの言うことの方が正しく、ぼくはいびきをかいたりも薄目を空ける
ことも無く眠っているのだとぼくは真実を知ったのだった。



(なんであんな非道い嘘を)

彼とは別に仲が悪いという自覚も無いので不思議で仕方が無かったが、彼の意地悪はまだまだ他
にも続いたのだった。





「え? おまえ今度は越智と一緒の部屋に泊まんの?」

いつもほとんど同室だった進藤と、部屋割りで別れた時にはこう言われた。

「うん、越智君が夜に一局打ちたいって言うから」
「そりゃいいけどさ………いや、いいや。越智ならきっと口は固いと思うし」


思わせぶりな態度で去って行こうとするので、ぼくは思わず進藤の襟首を捕まえてしまった。

「ちょ…今のはなんだ、ぼくが越智君と同室だと何か問題があるのか?」
「いや、言ってもおまえたぶん信用しないと思うし」


前にいびきをかくとか嘘ついちゃったからなあとため息をついて苦笑されて益々ぼくは気になった。

「なんだ、何か言いたいことがあるなら今すぐ言え!」
「それが人に物を頼む時の態度かよ」
「…すみません。お願いします。何かぼくに問題があるなら教えてください」


屈辱だと思いながらも頭を下げて丁寧に『お願い』をしたら進藤はにっこりと笑って、「最初からそ
うやって素直に聞いてくればいいんだよ」と言った。


「実はさ、おまえすげえ寝相が悪くてさ…」

彼の言う所によると、ぼくは浴衣を着て寝た時には例外なく非道い寝姿になり、朝にはほとんど裸
の状態で、帯だけが辛うじて絡みついているような有様になっていると言う。


「しかも大股広げて布団からはみ出して寝てるからさぁ、いつも直すの大変なんだよな」
「そんなこと言って…」
「あ、だから言ったじゃん、信じないだろうなって。この前あんな嘘ついたから信じて貰えなくても当
たり前だけどこれは本当の本当に本当だから」


それによく考えてみたら、越智なら例えおまえがどんなに非道い寝姿で寝ていても言いふらしたり
しないだろうしなと言って進藤は去って行こうとした。


「ま、そういうことだからさ、検討するならあんまり辛口にすんなよな」

あいつも人間だから、むっとしたらついおまえの悪口の一つや二つや三つや四つくらい、言いふら
したりするかもしれないしと、ここまで言われてどうしてぼくが越智君を始め、他の誰かと同室にな
ろうと思うだろうか。


以後これまた数年間、そんなことは無いと知る時まで、ぼくはどんな時でも無理を通して進藤と同
室になるように棋院側に頼み込んだのである。



それだけでは無い。食べていた物にハエが留まった、カフェで頼んだコーヒーを半分まで飲んだ所
で、実は店員がそれにくしゃみをはきかけていたのを見た等々。


そしてそのたびに困惑するぼくに、進藤は親切顔で「気持ち悪いんだったらおれのと取り替えてや
るよ」と言って来るのでぼくは心から感謝して進藤の物と取り替えて貰ったりしていたのだった。


尊敬する棋士に飲みに誘われて喜んで行きかければ、「あの人は非道いセクハラ魔王なんだ」と
嘘をついて欠席させたり、若手のカラオケ大会に珍しく参加しようかと思えば、「みんながおまえが
音痴だって笑っていた」と言って行く勇気を挫いた。


どれもこれもそれも嘘で、真実では無かったと知った時、ぼくはもちろん怒ったし進藤に詰め寄り
もした。


でも進藤はへらへらと笑っているばかりで、ぼくがどんなに怒鳴っても殴っても罵っても、嘘をつく
のをやめようとしない。




「どうしてキミはぼくにだけそんな意地悪をするんだ!」

悔しくて怒鳴りつけた時も、進藤はにこっと笑って「おまえが好きだから」と言ったのだった。

「この……嘘つきっ!」
「嘘じゃねーって、本当の本気でおれおまえのこと大好きだよ」


へらへらとあまりにも軽い口調で言われたので、これもまたいつもの嘘の一つだと思い、ほとん
ど気にも留めなかったのだけれど、ある時芦原さんに愚痴をこぼしてぼくははっとしたのだった。


「ふうん、でもそれって本当にアキラのこと好きだからなんじゃないの?」
「ええっ? でもいつも非道い嘘ばっかりつくんですよ?」


相手が進藤だということは伏せて、芦原さんが知らないだろう「いびき事件」以外の話を切々と訴
えたのだが、聞き終わった所で芦原さんは笑いながら言ったのだった。


「うん、でもそれってまるで小さい子が好きな子に意地悪するってヤツみたいだよねぇ」
「そんな…そんなことは無いと思いますけど」
「でもぼくはそうだと思うけどなあ。だって相手はアキラのことが『好きだから意地悪する』って言った
んでしょう?」


それは、それだけは本当だったんじゃないかなと、アキラの気を引きたかっただけだと思うよとおか
しそうに笑った。


「まあ…アキラには通じなかったみたいだけど」

そんな子どもっぽいやり方じゃあ仕方ないよねえと言われて、でもぼくは別のことで頭の中が一杯
になってしまった。


(進藤がぼくを好き?)

好きだからあんなにたくさんの意地悪をし続けて来たのかと、そしてそれは他人に言われ、指摘さ
れたことで妙なほどすっきりと腑に落ちてしまったのだった。


(そうか……)

そうなんだ―――。

いびきをかいていると言ったのは自分の隣で寝させたいためで、寝姿が醜いと脅かしたのは、いつ
でも同室になりたいため。


尊敬する棋士の陰口をぼくの耳に吹き込んだのは嫉妬からで、カラオケに行かせまいとしたのは、
ぼくが他の皆と親しくなるのを防ぐためだとしたら―。


(だとしたら全部わかる)

食べかけの物にハエが留まっていると言ったのも、コーヒーを嘘をついて取り替えさせたのも、あれ
はぼくが口をつけたものを手に入れたかっただけなのだ。


(間接キスをしたかった―――から?)

そう考えた途端、カッと燃えるように頬が熱くなり、芦原さんには具合が悪いのでは無いかと心配さ
れてしまったのだけれど、その時以来ぼくは進藤がぼくにどんな意地悪なことを言ったりしたりして
も全く気にならなくなってしまった。


むしろ嬉しいというか、恥ずかしいような、照れ臭いようなそんな気持ちに変わったのだった。
そしてぼくの態度が変わったのと同時に進藤もまた変わった。



「おまえ――この頃おれにぎゃんぎゃん噛みついて来ねーのな」
「そうかな、そうでも無いつもりだけど」
「そういえばおまえ息臭いもんな。昼にニンニクたっぷり入ったラーメンでも食ったんだろう」


周りに居るだけでぷんぷん匂うから、あんまり人に話しかけない方がいいぜと言う彼に、ぼくはにっ
こりと微笑んで言い返した。


「うんそうするよ。昼間緒方さんに誘われて焼き肉を食べて来たんだ」

その時にニンニクも随分食べたから匂うと思うからねと言ったら、進藤は目を見開いてそれから口
を尖らせた。


「なんだよ、マジで食ってたのかよ」
「その後二人で休憩もしたよ」
「休憩? どこで!!」


ついさっきまでのからかうような様子が消えて、真剣に食ってかかってくるのに笑みで返す。

「スタバでキャラメルマキアートを飲んで来た。キミ、この間美味しいって言っていただろう」
「でもあそこの店員しょっちゅう咳き込んでるんだよな」
「うん、ぼくのコーヒーも蓋を閉める前に咳き込まれてしまってね、緒方さんが取り替えてくれるって
言ったんだけど」
「取り替えたん?」
「いや…………」


我慢して飲んだよ、さすがに大先輩である緒方さんにそんなコーヒーは飲ませられないからねと言っ
たぼくの言葉に進藤は心からほっとした顔をした。


「そうだろ、だからさ、そーゆー所はおれと行けばいいんだよ。おれが…いつでも取り替えて飲んで
やるから」
「うん、そうするよ。ハエが留まったものも、店員が咳き込んだものもぼくは食べられないから」


キミに――キミにだけ取り替えて貰うことにすると言ったら、進藤は至極満足そうな顔で頷いて、それ
からおずおずとぼくの手に触れた。


「あのさ―」
「なに?」
「ちょっとだけ手ぇ、握ってもいい?」


じっと顔を見つめると進藤は茹でたように真っ赤な顔でぼくを見ている。

長い長い時間、焦らすように返事を躊躇った後で、ぼくはにっこりと微笑んでゆっくりと言った。

「いいよ、息が少しニンニク臭いかもしれないけれど」
「そんなの、気にしない!」


って言うより全然臭くなんか無い。むしろすごく甘いいい匂いがすると言って、進藤は真っ赤な顔の
まま、幸せそうにぼくの手を握ったのだった。




※芦原さんの言った通り、子どものイジワルです。アキラはきっと素直だからなんでも信じちゃうんだろうなあ。
でもこの後はきっとヒカルはアキラに翻弄されるようになると思います(笑)  2008.6.29 しょうこ