冷たい夜



一度だけ、進藤では無い人と寝たことがある。

それはまだ彼と気持ちが通うこと無く、これから一生叶うことの無い恋を抱えて生きていくのだと
諦めていた頃、あまりの気持ちの辛さに誘われた相手と逃げるようにそのまま寝てしまったのだ
った。


それは本当に一夜限りで、相手もそういう人だったために後々引きずることは無かったのだけれ
ど、初めてを好きでは無い相手に許したのだということはずっと心の中に引っかかってた。


こだわりを持つのはばからしいことなのかもしれないけれど、ぼくは進藤しか好きになるつもりは
無かったし、だから出来ることならば初めては彼としたかった。


彼にしか許したくは無いと思っていたのだ。

でもその頃はまさか両思いになるなどと思いもしなかったし、体の関係にまで堕ちるとも思ってい
なかった。


それが数年後、思いがけず両思いであることがわかり、彼はぼくを抱きたいと言ったのだった。


「おまえが嫌だったらしないけど、でもおれはしたい」

おまえの全部が欲しいのだと言われて、痺れるように嬉しかったけれど、言わないで抱かれるの
も嫌だった。


だからぼくは告白した。

ただ一度、行きずりの男と寝たことがあると、でも心の底では許されるものとばかり思っていた。


だってぼくは彼がぼく以外の人と寝たことがあることを知っていた。だから進藤がぼくのそれを問題
にするとは思わなかったのだ。


けれど、進藤はぼくの話を聞いて非道く驚いた顔をして、それからぼくの肌に置いていた指を引い
た。


「――進藤」

彼の顔に浮かんだ表情を見て、許されなかったのだと悟った。

「――進藤っ」

彼の中を様々な感情が駆けめぐるのがわかる。理解しようと、理性的であろうとしているのが端から
見ていてよくわかった。


でも、感情が許せなかったらしい。

「ごめん―なんかおれ―――ダメ」

どうしても、どうしてもダメだと言って、進藤はぼくから離れると身支度をして部屋から出て行ってしま
った。


「進藤っ!」


残されて一人、暗い部屋の中で呆然とする。

なぜぼくだけが責められなければならないのかと、激しい怒りがこみ上げて、けれど同時に自分の愚
かさの結果なのだとも思った。


なぜなら、少なくとも進藤は行きずりの相手と関係を持ったわけでは無かったからだ。


本心はどうであったか知らないけれど、きちんと付き合いを持った相手を恋人として愛した。

それはやはり同じようでいて、ぼくのしたそれとは大きく違うのだった。


「――進藤」

悲しい。

一人きりの部屋はたまらなく悲しい。

やっと気持ちを通わせて、やっと休みを合わせて、初めて結ばれようとした時にこんなことで壊れてしまう
なんて、それは耐え難い程辛かった。




「ぼくが…馬鹿だったんだろうか?」

報われない想いに耐えかねて、行きずりの相手と寝たことはそんなにも罪だろうか?

キミはただ一度の行為も許すことは出来ないのだろうか?


泣きながら起きあがり、素肌の上にコートだけ羽織った。

鍵を握り裸足のまま靴を履き、彼の後を追いかけようと外に出る。


まだ寒い夜の空気は素肌に刺さり、鳥肌が立った。でも温もりに包まれるのは許されないような気持ちがし
て、どうしても服を着ることは出来なかったのだ。




あても無く歩いていたら、少しして離れた所にある公園のベンチで彼の姿を見つけることが出来た。

「進藤」

前に立ち、声をかけると彼はゆっくりと顔を上げた。

「ごめん、キミを傷つけて」
「違う、おれが心が狭いから――」


葛藤している。

ぼくを許したくて、でも許せなくて苦しんでいるのだと思ったら身を引き裂かれるような気持ちがした。

「ごめん、本当に。キミが――ぼくを好きになってくれるなんて思わなかったから。だから辛くて他の人と寝て
しまった。でもその時も今もぼくが好きなのはキミだけだよ」


本当にごめんねと、言ってぼくはコートの前を開けて見せた。

「塔矢――なに、おまえ――?」
「キミがもし、ぼくを許してくれるなら追いかけて来て」


言いながら再びボタンを閉める。

「許せないならこのまま、絶対に追いかけては来ないで欲しい」
「って……何するつもりだよおまえ」
「さあ……特別に何も考えてはいないけど、誰かに求められたらその人にくれてしまおうかと思う」



キミと結ばれることが無いならこの体も心ももうどうでもいいからと、それはぼくの最後の賭けだった。

「おま……なに無茶苦茶なこと……」
「ごめん、ぼくもこれで結構余裕が無いんだよ。キミを得られるためだっらもう形振り構わない」


それで更にキミはぼくから引いてしまうかもしれないけれどと、言って膝に置かれた手を一度だけぎゅ
っと握った。


「キミが好きだよ。大好きだよ。昔からキミしか好きじゃなかった。だからキミに好きだと言われて嬉しかった
し、だから嘘もつきたくなかった」


それで傷つけてしまったけれど、嘘をついたままキミに抱かれるのも嫌だったのだと言ったら進藤は泣きそう
に顔を歪めた。


「塔矢………」
「こんなこと……言う資格無いけど」


出来るなら追いかけて来て欲しいと、言ってぼくは彼に背を向けた。



「おい、待てよ塔―――――――」

呼ぶ声に振り返らずにぼくは走った。

コートの裾が翻り、素足が晒されて身が震える。

果たして彼は追いかけて来るのか来ないのか、そのことだけが心を占めて他にはもう何も考えられなかっ
た。



「待てってば、塔矢っ」

遠く一度だけ聞こえた後、再び進藤の声が聞こえることは無かった。

やはりだめだったのかと、どうしても彼はぼくを許すことは出来なかったのかと、走りながら嗚咽がこみあげ
てきてぼくは止まった。


「進藤――進藤―――」

溢れてくる涙に顔を手で覆い、座り込んだ時に暖かい腕がぼくを乱暴に抱きしめた。

「待てって――言ったじゃんかっ」

おかげで全力疾走してしまったと息を切らせた進藤は、怒ったような声でぼくに言った。

「愛してるよ、愛してるっ、畜生っ!」

夜の町に響き渡るような大声はぼくの胸に刺さり、ぼくは泣きながら振り返ると、彼を強く抱き返したのだっ
た。




※自分はいいけど、おまえはダメの身勝手なヒカルの話というと見も蓋も無いですが。アキラは悪く無いと思うし、自分を責める
必要も無い。一度くらい許しやがれと、側にヒカルが居たら言ってやりたいくらいですが、恋人同士だとこういう狭量なこともある
だろうと。 そういえば全く関係無いですが江國香織の本で「つめたい夜に」ってのがありましたね。2006.3.10 しょうこ