境界
「温かいのがいい?」
そう聞かれて、アイスティーと頼みかけたのをカフェラテのトールと言い直した。
「食べもんは? パニーニとかなんか買ってくる?」
「いや、いいよ。お腹は全然空いてない」
それでもまだサラダはどうだ、ゼリーでも食べるかとしつこく聞いてくるので、軽く睨んで、
飲み物だけでいいと言ったらそれで良いのだと追払った。
(なんでそんなに気を遣うかな)
終わった後の進藤はいつも通常よりも非道く念入りに優しくなる。
元々がぼくに対してはマメなのが壊れ物を扱うように慎重になり、一々機嫌を伺ってくる。
それがぼくは嬉しくもあり、鬱陶しいと思うこともある。
「大体、男同士なんだから、そんなにべたべたに甘やかさなくてもいいんだ」
体は確かに疲れ果てていて、実を言えば手を動かすのだって面倒だ。だから代わりにオーダ
ーしてきてくれるのは非道く有難いのだが、でも、それを言えば何も食べなくたって本当はい
い。
それを食べなければ持たないからと、無理矢理進藤がぼくをカフェに引きずり込んだのだった。
「おまたせ、まだ熱いから少し冷ましてから飲めよ」
トンと目の前に置かれたカップに大袈裟にため息をついて見せる。
「進藤、キミは忘れているのかもしれないけれど、ぼくもいい年をした大人だからね、そんな幼児
を相手にするような気遣いはしなくていい」
「まあ確かに……幼児じゃあ無いよな」
あんなエロ色っぽい幼児はいないと、こそっと耳元で囁くようにしてから身をかわすようにして座っ
たので、殴りそこねてしまった。
「一つ、人前で恥ずかしいことを言った時には別れる」
「別れるじゃないだろ、口きかないだったろ」
「二つ、ぼくの言うことに訂正を入れたら別れる」
「だから、どうしてすぐに『別れる』になるんだよ、非道いぞおまえ」
さっきはあんなに可愛かったのにさあと、懲りずに言うので今度は躊躇わず拳で頭を殴ってやっ
た。
「いてー………」
「当然の報いだろう」
言ってカップに口をつけると、進藤は拗ねたような顔をして、でも文句は言わなかった。
「…また、随分買ってきたんだな」
「んー、だってまあ、夕食代わりでもあるし」
トレイの上には飲み物の他にピタパンのサンドイッチとフォカッチャサンド、サラダにスープに
デザートまで並んでいた。
「…こんなに食べる気力が無い」
「いいよ、おまえが食べられない分はおれが食べるから」
言って進藤はもうフォカッチャサンドにかぶりついている。ローストビーフとレタスを挟んだその
サンドイッチは結構なボリュームがあったけれど、みるみるうちに進藤は食べきってしまい、
すぐさまサラダにとりかかった。
「おまえも食えよ」
こんなにがつがつ食べながら汚い印象にならないのは、きっとご両親の躾が良かったんだろう
なと思いながら、ぼくも仕方無くピタパンを手に取ると食べ始めた。
「スープもちゃんと飲め」
「言われなくても飲むよ」
睨み付けても怯みもしない。
「サラダも半分食え」
「キミがデザートを全部食べてくれるならサラダも食べる」
「じゃあ、それでいいよ。とにかく食べられるもん食って」
夜の九時を回った店の中はあまり客が居なくて、ほとんどぼくたちの貸し切りのようになってい
る。
「……明日さぁ、おまえ仕事あるん?」
「ぼくは……そうだな。午後から指導碁の約束が入っていたけれど」
「そっか午後か。じゃあ大丈夫だな」
その大丈夫が何を指すのかわからなくて少しだけ不安になった。この男、まさかまだするつも
りじゃないだろうな……。
冗談じゃないと言いかけたのを表情で読んだらしい、進藤は苦笑したように笑ってぼくの額を
指で突いた。
「ちーがーうって! いくらおれだってそこまでケダモノじゃないって!」
「…人前で恥ずかしいことを言った時は…」
「あー、もう勘弁しろよぅ!」
おれはただおまえをゆっくり休ませたかっただけなんだってと言われて自分の思い違いに顔
が赤く染まった。
「ごめん―――」
「いいよ、もう。どーせおれは理性の無い本能のみのケダモノですよぅ」
「ごめん、本当に。いくらなんでも失礼だった」
「…わかればいーんだよ、わかれば」
にっと笑ってデザートに手をつける。
「ここのカシスとヨーグルトのムースって美味いよな」
「知らない、食べたことないから」
「じゃあ一口」
にこにことスプーンで掬ってぼくの口に運ぶ。甘酸っぱいムースを舌の上で味わいながら、こ
の切り替えの早さはまるで子どもだと苦笑し、それからふいうちのように愛しさがこみ上げた。
ついさっき、ぼくたちはホテルで抱き合っていた。
それも普通のホテルでは無く、所謂そういうホテルで切羽詰まったように互いを貪り合ってい
たのだ。
互いの部屋に行くのももどかしくて、薄汚いホテルにもつれるように入ったのはまだ夕方の五
時だった。
まだ辺りは充分に明るく、人に見られる可能性も高いというのに信じられない暴走っぷりだと
自分でも思う。
(でも…止められなかった)
初めて結ばれた頃よりも、むしろ今の方が会える時間が少ない分、貪欲になっているような
気がする。
ベッドの上で形振り構わず、自ら誘い入れて深くに沈めた。
声も息も枯れる程叫んでいたのは本当に、ほんのつい数十分程前だと言うのに今はこうして
カフェに居る。
汗まみれで抱き合ったことも、涎を滴らせながら舌を絡め合いキスをしたことも何もかも嘘の
ように、夜の町並みを眺めながら二人で温かい飲み物を飲んでいる。
「なんだか……変な感じだな」
結局、ピタパンは半分しか食べられず、残りを皿ごと進藤の方に押しやってつぶやく。
「なにが?」
「さあ……なんだろうね」
袖口から覗く、手首の内側には進藤がつけたキスマークがある。
他にももちろん在る、見えない所にびっしりとつけられた赤い印は、狂ったような情事の名
残で、欲望の残滓だとぼんやりと思った。
「なんだよ、そういうの気分悪いぞ。言いたいことあるんだったら言えよ」
「いや……さっきまでのキミと別人みたいだなあって思っただけだよ」
「なにが?」
「さっき、ベッドの上でぼくが泣いても頼んでも止めてくれなかったキミと―」
今のキミとは別人だよねと言ったら進藤は真っ赤になって、それから鬼の首を取ったよう
に言った。
「ひとーつ! 人前で恥ずかしいことを言ったら」
「言ったら?」
「言ったら………」
促すと進藤は苦しそうな顔になり、百面相のように顔を歪めた後、悔しそうに言った。
「汚いぞ!おまえ」
例えこんな戯れ言でも、彼はぼくと『別れる』とは言えないらしい。
「何が? 言いたいことはちゃんと言葉で言ってくれないとわからないよ」
「あーもう」
なんでおれはこんな悪魔みたいに意地悪でサディストなカワイコちゃんが好きで好きで
たまらないんでしょーかと、呻くように言う彼に可笑しくなって笑ってしまった。
「そんなに悔しいのなら、嫌いになってくれてもかまわないよ」
「…おまえ、それマジで言ってんの?」
「本気だよ、腹が立つのだったらぼくのことを嫌って、捨ててくれてもかまわない」
でもぼくはキミのことを絶対に一生好きだけれどねと、言ったら何か言いかけていたら
しい進藤はそのままテーブルの上に突っ伏してしまった。
「…進藤?」
「いい、もうおまえ何も喋るな。どーせ口じゃ叶わないんだから」
「降参?」
「いや、次に体できっちり払ってもらう」
言ってぎゅっと手首を掴む。彼の指はぼくの袖の下の赤い痕をそっとなぞった。
「言わないの? 『一つ』…って」
「いいよもう。どうせ結局ぼくたちは似たもの同士みたいだから」
「似たもの…?」
「うん。ぼくたちは二人とも押さえのきかないケダモノだ」
触れられた所から鳥肌のように泡立つものがある。
それはそのまま触れている進藤にも伝わったらしく、彼の目の下が刷いたように赤く
染まった。
「そうだな――おれたちはケダモノだ」
覚えたばかりのサルみたいにやめたくてもやめることが全然出来ないと、進藤は苦
笑のように笑ってぼくの手を離した。
「…で、何? 結局おまえピタパンは残すの?」
「だからキミの前に置いた」
さっさと綺麗に処理してくれと、言ったら今度は本物の笑みになり、なんだよおれ残飯
処理機かよと進藤は言った。
「キミが勝手に買ってきたんだから責任持って全部食べろ」
「はいはいはいはい」
――あっという間に消え失せる、淫靡な空気。
ぼくたちはこんなふうに、ごく当たり前のようにセックスと日常の間を行き来する。
ねっとりと抱き合った後、温かく落ち着いた空気の中で、セックスという言葉も知らない
かのように無邪気に軽口を叩き合えもする。
それがとても不思議だった。
生々しさと、日常と、激しさと、安らぎ。
明日も、明後日も、明明後日も。
ぼくたちはこれからも、相反する物の中をごく当たり前のことのように行き来しながら
日々を過ごすんだろう。
それがたぶん、愛し合うということなんだろうと思いながら。
※非日常が日常になっていくということで。2006.4.17 しょうこ