神様
ぼくと彼は飛行機で、中国に行く途中だった。
日中親善囲碁大会に出場するためで、ぼくたち以外にも数人が選手として乗り込んでいた。
日本から上海までは約三時間。ぼく自身は個人的にも何度か行き来しているし気分的には
新幹線で関西に出向くのと大差は無かった。
隣に座っている進藤と、しばらくは他愛無いことを話し、夕べ遅かったせいで少しうたた寝を
しかかった時にいきなりそれは来た。
がつんと、足下から響くようなそんな鈍い衝撃は今まで感じたことが無くて、それと共に大きく
揺れだした機体に寝ぼけていた頭が一瞬で覚醒した。
「揺れるな」
進藤が少しだけ不安げな顔でぼくを見る。元々あまり飛行機が好きでは無い彼はきっと怖い
のだろうと思う。
「乱気流に入ったのかもしれないね」
そう言いつつも、どんどん有り得ない揺れ方をしていく機体にそうではないとぼくはぼんやりと
思っていた。
こんなにも揺れているのにアナウンスが無い。
一度何か言いかけたようなアナウンスはあったものの途中で途切れそのままうんともすんとも
言わなくなった。
客室添乗員は落ち着いてくださいと、シートベルトの着用を叫びながら歩いているけれど、事態
の説明に関しては皆無だった。
(きっとわからないんだ)
彼女たちにも何が起っているのかわからない。今まで何度も乗り込んで来たけれど、こんなこと
は初めてで、足下から得体の知れないものが這い上がってくるようなそんな不気味な気持ちだっ
た。
落ちるかもしれない。
唐突にぽつりと思い、思った時に進藤がぼくの手を握った。
「塔矢」
彼の目を見て、彼もまたぼくと同じことを思っているのがわかった。
まだぼくたちは二十歳を少し過ぎたばかりなのに、こんな所で無為に死ぬのかと、でも不思議とそ
れほど怖いという感覚は無かった。
(一緒で良かった)
それは彼がぼくの手の届く所に居るという、ただそれだけのことから発生していた。
もし死ぬのだとしてもぼくは一人で死ぬのでは無い。彼と一緒なのだと思ったら非道くほっとしたよ
うな気持ちになったのだ。
これがもし、どちらかが乗り込んでという状況だったらと考えたらその方が余程恐ろしい。
ぼくだけが死ぬのならともかく、彼だけが死に一人取り残されるなんて考えただけで死ぬよりも怖
かった。
「塔矢、大丈夫?」
黙り込んでいるのを恐怖によるものだと思ったのか、進藤が肩に腕をまわして抱き寄せるようにし
てきた。
「あ…いや」
大丈夫と言いたくて、丁度大きく機体が下降したので言うことが出来なかった。
「大丈夫だから、きっと」
少しして、幾分揺れが治ってから進藤が言った。
「心配しなくても大丈夫だよ」
自分の方が余程恐怖を感じているはずなのに、彼はぼくを励まして恐怖を和らげてくれようとして
いる。
そのことがたまらなく切なかった。
「でもなんか、ちょっとだけ思うな」
「なに?」
「おまえがこの飛行機に乗っていなければ良かった」
乗ってるのがおれだけだったら良かったのにと言われて胸がしめつけられるような気持ちになっ
た。
「進藤……」
席のずっと後ろの方で鈍い爆発音のようなものがした。
座席の上から酸素マスクが下りてきて、でもそれを手に取ることは出来なかった。
その瞬間に飛行機はほとんど垂直のように落ちて行ったから。
「塔矢、塔矢っ」
「進藤っ」
それでも彼は必死でぼくの体を抱えていた。
「――――けて」
永遠かと思える一瞬、進藤の声が微かに聞こえた。
「助けて、お願いだから」
無理も無い、神にも祈りたくなるだろうと思った時にその後の言葉が聞こえた。
「お願い。誰でもいいから、どうかこいつだけは」
こいつの命だけは助けてと、そう耳が聞いた時に涙が溢れた。
ぼくは
こんな状況でも
彼と共に死ねるということで安心しきっていたというのに
彼は自分の命よりもぼくを大切に思っているのだと
それが何よりも何よりも切なかった。
「進藤――」
もし神様でもなんでもいい、もしも、もしも本当に居るのだとしたらどうかぼくでは無く、彼の命を
助けてくださいと、そう願った時に目が覚めた。
はあと息は荒く、胸は早鐘のように打っていた。
全身びっしょり汗をかき、しばらくは目に映る天井が見えなかった。
それくらい夢の衝撃が強かったのだ。
「―――あ」
悪夢を見たのだと、そう納得するのに時間がかかり、ようやく自分が落ちている機体では無くて
布団の上に居るのだと悟って横を向いた。
そこには安らかな寝息をたてて進藤が眠っていた。
「…進藤」
夢だったのだ、夢だったのだ。よかったと、体中の力が抜けて、ぼくはしばらく身動きも出来なか
った。
微かに時を刻む時計の音に、天井の板目を数えてやっと正気に戻る。
「よかった……夢で」
落ちて行く感覚はあまりにも生々しかった。生々しすぎて、今目覚めたこちらの方が夢なのでは
無いかと思ってしまうくらいだった。
「……本当に……良かった」
本当に叫んでいたのでは無いかと思うくらい喉はひりつき乾いていた。体は熱くて、でも汗で冷え
始めていて気持ちが悪い。
(水を飲んでこよう)
ついでに着替えてきた方がいいかもしれない。
そう思い、起きあがりかけたぼくは右手が引っ張られるのを感じた。見ればぼくの右手はしっかり
と進藤の左手に握り取られていたのだった。
「進藤…」
瞬間、再び生々しく夢が蘇った。
ぼくの肩を抱きながら、落ちて行く飛行機の中で進藤は空いた手でしっかりとぼくの手をも握ってい
た。指をからめ痛い程強く握りしめて、ぼくのために祈っていた。
思い出すだけで切なくて辛い。
あの指はきっと墜落したその後も離されることは無かったのでは無いかと思う。
バラバラに体が千切れても、焔に焼かれてもそれでも尚、きつく握られていたようなそんな気がし
た。
「ありがとう…」
夢の中の彼を思い、そう呟く。
どんなにか、たぶん怖かっただろうに、それでも彼はぼくの身だけを案じていたから。
「ありがとう、進藤……」
あんな死の瞬間に、自分では無くぼくのために彼は神に祈っていたから。
「……愛してる」
結ばれた指を解こうとして無意識の彼に緩く抵抗されてやめる。
立つことも出来ず、布団の上に座り込んで、寝顔を見ていたら涙がこぼれた。
きっともし、本当にあんなことがあったとしたら、彼は夢の中の彼と全く同じ行動をとるのだろうと、
そう――思ったから。
最後の最後の最後まで、ぼくを愛して愛し抜くのだろうと思ったら、切なくて苦しくてぼくは涙が止
まらずに、泣けて泣けて仕方が無かった。
※タイタニックの生存者の女性が亡くなったというニュースを見ていてなんとなく書きたくなって書きました。
ヒカルは相手だけでもなんとか助けたいとそう思うタイプ。アキラは取りあえず一緒に死ねるならまあいいかというタイプかなと思いつつ。
ヒカルが神様に祈っている所、本当はあれ、佐為に祈ると思うんですが、あくまでアキラの見ている夢なので佐為の名前は出て来ない
んでした。2006.5.9 しょうこ