シアワセのカタチ
妊娠して何が良かったかというのは実は良くわからない。
進藤の子どもを身ごもったことはやはり嬉しいし、人の親になるということも不安はあれど
やはりとても嬉しいと思う。
父も母も義父と義母も喜んでくれたし、何よりもぼくたちが愛し合った証を残せるというのが
一番嬉しいことかもしれない。
ただ生活は激変したし、悪阻は収まったものの今でもあまり気分は良くないし、産んだらすぐ
に棋戦に復帰というわけにもいかないはずで、そういうことを考えると煩わしい気持ちにもな
る。
何よりこのせり出してきた腹が鬱陶しい。
最初、悪阻が非道かったせいでほとんど太ることが無く、逆に体重が減ってしまったぼくは、安
定期に入ってからも目立って体重が増えることは無く、なので手足や他の部分はそのままなの
にぽっこりと中年太りのように腹だけが出てきてしまったのだ。
「わー♪ なんかそれっぽくなってきたよな♪」
進藤は気楽なもので、少しずつ出てきた腹を夜に昼に見たがって、見せてやるとそっと撫でては
感じ入ったように頬ずりをしたりする。
「こん中におれらの子どもがいるなんて、なんかすげー不思議じゃねえ?」
どっちに似てるかなと、最初は「キミじゃないか?」などとまともに付き合っていたぼくもそれが毎日
になってくると少々鬱陶しくなってきた。
「どっちでも別に健康に生まれてくれればそれでいいよ」
「そうだな。健康が一番だよな!」
でもきっとおまえに似た美人だと、まだ性別すらもわかっていないのだから「美人」はおかしいだろう
と言っても進藤はまるで気にしない。
「いいじゃん、男でも女でも美人は美人。だっておまえ美人だもん」
だから生まれて来る子どもも絶対美人だと、そこまで言われるとプレッシャーになるのだとよっぽど言
ってやりたくなったが辛うじて理性で止めた。
「それよりも何よりも、早く産んで身軽になりたい」
ため息をつきつつ言うと進藤は、すりすりと頬をつけていた腹から顔を上げてぼくを見た。
「なんで? やっぱり体キツい?」
「それはね…中に何も入っていないのと今では動きやすさも全然違うし」
何より足の爪を切るなんて簡単なことすら思うように出来ないのが辛いと言ったら進藤はいきなり立ち
上がって爪切りを取りに行ってしまったのだった。
「ほら、足貸して」
「いいよ」
自分の口で言ったことではあるけれど、そんなつもりでは無かったのでぼくは焦った。
「いいから貸せって。自分じゃ切れないんだろ。まったくなんでもっと早く言わないかな」
「だから、いいってば。がんばれば届かないことも無いし後で自分でやるから」
「って、それ無理して体折り曲げて、お腹を押しつぶしてやっと届くんだろ」
そんなのダメに決まってんだろと言って、進藤は有無を言わさずぼくの足を掴むと、文句を言う隙を与えず
足の爪を切り始めたのだった。
「大丈夫? 痛く無い?」
「…だ、大丈夫」
パチリ、パチリと爪を切る音が部屋の中に響く。
「結構伸びちゃってたんだな。おれ気がつかなくてごめんな」
「別にキミが謝ることじゃない」
「でもおれが切るべきだもん」
大事な大事なおまえの爪をおれじゃなくて他に誰が切るんだよと言われて、嬉しいを通り越して気恥ずかしく
なった。
「嫌じゃないのか?」
「なにが?」
「足の爪なんて汚いじゃないか」
「汚くなんか無いよ」
「でも…」
「おまえの爪、丸くて可愛いよな」
本人が可愛いと爪まで可愛いんだなあと感心したように言われて顔が赤く染まった。
「別に可愛くなんか無いよ」
「可愛いって」
「可愛くない」
バカなことを言い争いながら進藤の手はぼくの足の爪を器用に丁寧に切って行く。
「あ、そうそう、今日銀座まで行ったからおまえの好きな水ようかん買ってきたからな」
「曙の?」
「うん。あれだったらもしまたちょっと気分が悪くなったりしても平気だろうと思って」
「…ありがとう」
「帰ってきてすぐ冷蔵庫に入れたからきっと良い感じに冷えてるよ」
おまえ風呂から出た所だし、爪切り終わったら一緒に食べようなと言われて胸の奥がくすぐられる程嬉しい
気分になった。
「今日は少し冷えるから、飲み物は麦茶じゃなくて煎茶がいいんだけど…」
「それも買ってあるよ。じゃあ煎茶をいれてそれで食おう」
「うん」
パチリ、パチリと小さい音を響かせながら進藤はぼくの爪を切る。
少し丸まった背中を見つめながら、良いこともあったなとぼんやりと思った。
(進藤が優しい)
元々ぼくに対しては寛容な彼が、妊娠してから更に鬱陶しいくらいに優しくなった。
今まで以上に家事はやってくれるし、手足が痺れると言えば温まるまでさすってくれる。
今だって爪を切ってくれているし、冷蔵庫にはぼくの好物を買ってくれている。
「満点だ…」
「え?」
「なんでもない」
言えばきっと調子に乗るから絶対言ってなんかやらないけれど、夫としてこれ以上無い程進藤は完璧だっ
た。
(しかも、こんな体になってもずっとぼくのことを綺麗だと言ってくれるし)
お世辞にも見目良いと言えないこの体を美人だと言い張る人間がこの世に他に居るだろうか?
妊娠中はパートナーが冷たくなることもあると聞いたけれど、うちはそんなことは無かったなと幸せな気持
ちでそう思った。
「進藤」
「なに?」
「キミを愛しているよ」
「なんだよいきなり」
爪切りを持ったまま真っ赤になる彼に愛しさが募る。
まだ不安はたくさんあるし、不快なことや面倒なこともたくさんある。
でもこんなにもぼくを愛してくれる、彼の愛情が更に強く感じられるからそれだけでもう充分に妊娠して良か
ったと、切った爪に丁寧に鑢をかけてくれる彼を見つめながら、ぼくは安らいだ気持ちでそう思ったのだった。
※安定期の話?になるでしょうか。食べ悪阻も書けたら書きたいな。こんなダンナいないよとか、色々思う所もありましょうが、
進藤ヒカルはこういう人ということで! ちなみに髪も洗えば、洗いにくくなった体の胸から下も毎日ヒカルが洗っています。
(だったら爪も早く気がつけ!) 2006.9.8 しょうこ