ETERNITY




腹が出てきた。

出るのは当たり前だし、むしろ出なければ不自然極まりないのだけれど、他はほとんど変らないのに
ぽっこりと腹だけがせり出してくると、まるで中年太りのようで密かに不快を覚えなくもない。



「あー、塔矢ちょうど良かった。この前進藤に頼まれたもん持ってきたから」

棋院の一階で大声で呼び止められたぼくが振り返ると、地下から上がって来た所らしい倉田さんが、汗を
ふきふきぼくの方に歩いてくる所だった。


「あ、倉田さんご無沙汰しています」
「そういうかたっ苦しい挨拶はいいからさぁ、で、どーなの。順調なの?」
「おかげさまでなんとか」
「そうか、それなら良かった。何しろ塔矢と進藤の子どもだもんなぁ、普通に生まれてくるとは思えないから」


どちらもどちら、個性の強い者同士の子どもなので一筋縄ではいかないような子どもになるだろうと、倉田
さんはあまり嬉しくない予言をしてくれた。



「で、男? 女?」
「今行っている所の先生が生まれるまで教えないという方針なので聞いていません」
「へー、なんならおれが予想たててやろうか?」
「いえ、遠慮しておきます。生まれた後の楽しみにとっておきたいので」
「そうか、でも気が変ったらいつでも言ってくれよな。この倉田様の勝負勘でイッパツでおまえらの子どもの
性別当ててやるから」



ありがとうございますと苦笑まじりの笑いを返すと、倉田さんは「生まれたらすぐに連絡よこせよ」とぼくに
紙袋を押しつけるように渡すとまた汗を拭き拭き出て行ってしまったのだった。




倉田さんにもらったのは、倉田さんのお古のスーツのズボンだった。

妊娠の月齢が進み、体型が変ってくるのに従って今までの服はきつくて着られなくなってきていたからだ。

もちろん妊夫用のマタニティというものも存在はする。けれどどうしてもそれは女性用との境があまり無い、
ジャンパースカートのようなものになってしまうので、なるべくならそれは着たく無かったのだ。


(ジャンパースカートの棋士なんて…)

ジャンパースカートで対局に赴く棋士なんてそれだけで笑える。

そうでなくても、妊娠中対局に向かう棋士というのは囲碁界では希有な存在で、しかも男というのは日本棋院
の歴史始まって以来のことらしい。


基本的には相手に不快感を与えない格好であれば服装はなんでもかまわないはずだが、名人戦や棋聖戦な
どタイトルをかけた戦いにジャンパースカートで挑んだらそれだけで相手の闘志を著しく削いでしまうだろう。


そんなことで盤外戦を仕掛けていると思われても悔しいし、何より自分が情けない。

(まあ、お下がりをもらえたからこれでしばらくはしのげる)

オーダーメイドで作っても良かったのだが、一時的にしか着ないものだから勿体無いと、お古をもらうことを思
いついたのは進藤だった。


「ほら、倉田さんならそういうのたくさん持ってそうだし…」
「でも嫌がられないかな…」
「なんで?」
「自分の着ていた服を妊夫に着られるっていうのはなんとなく嫌なものじゃないのかな」
「倉田さんに限ってそんな心配無いって」


実際、話をもちかけたら倉田さんは快諾でむしろあまり履かずに箪笥のこやしになっていたズボンが役に立
つならと喜んでくれたのだった。


「なにしろさぁ、作っても作ってもすぐにサイズが合わなくなっちゃうんだな、これが」
「倉田さん…それ、緩くなる方ならいいですけどキツくなる方だったら健康に悪いですよ」
「なーに、大丈夫大丈夫、まだ後十キロは軽くイケるね」


十キロはどうかわからないが、とにかく現在進行形でサイズアップ中の倉田さんは思っていたよりもたくさん
ぼくにお古をくれたようだった。


「こんなにくれてしまって良かったんだろうか」

紙袋の中を探ってみたら少なくとも五本はズボンが入っていた。それだけでなく、真新しい倉田さんサイズの
下着まで入っていたので笑ってしまった。


(わざわざ買ってくれたのか)

年長者の中には男で妊娠ということを快く思っていない人もいるようだけれど、倉田さんは最初からなんの
こだわりも無いらしく、素直に祝福してくれたのでぼくとしてはとても嬉しかったのだった。


「…でも、同じサイズか…」

倉田さんは良い人で、尊敬する棋士の一人でもあったけれど、ウエストサイズが同じになってしまったと思う
と、それはやはりちょっとショックだった。






「あ、おかえり♪」
「ただいま」


家に帰ると進藤はもう先に帰っていて、有難いことに夕食の仕度をあらかた済ませてしまっていてくれた。

「どーだった? 今日は」
「うん、まあ……少し読み違えがあったりしたけど、でもなんとか勝てたよ」
「なんとかじゃないだろ。正直に言え」
「正直に言っているよ。『楽勝でした』なんて、九段相手に言えるわけが無い」


それでも楽勝だったんだろうと笑いながら進藤は、ぼくの着ていた服の上着をハンガーにかけるとそれから
思い出したように言った。


「そういえば、もらえた?」
「うん。たくさんもらった。その紙袋の中に入っているよ」
「そうか、よかったな」


中を覗いて確かめてから、進藤はよかったよかったと、嬉しそうに言った。

「もうこれで無理矢理キツいの履かないでいいんだもんな」
「そうだね。もうそれも限界だったから助かるよ」


腹が出始めてから対局に赴く時はなるべく緩いズボンを履くようにしていた。

それがキツくなってきてからは生活アイデアグッズのウエストを延長出来るパーツでなんとか無理矢理履いて
いたけれど、チャックは閉められず開いたままなのを上着で隠す形になってしまうので履き心地が悪かったの
だ。


しかもそれもそろそろ限界に近づいていたので、そんなことをしなくてもゆったりと履ける倉田さんのズボンは
たまらなくぼくには有難いものだった。


「もうすぐ名人戦も始まるしね」
「マタニティで行ったらじーさん共うるさそうだしな」


対局相手である緒方さんは気にしないだろうと思うけれど、後援会の人々や囲碁界の重鎮たちは黙っては
いまい。


「ぼくのことで後に続く人たちが打ち難い環境を作ってもいやだし」

男女共に妊娠する可能性のある現在、けれど棋士で妊娠した男はぼくが初めてで、なのでぼく自身のとまど
いはもちろんあるけれど、それを受け入れなければならない日本棋院もかなり戸惑っているのが現状だった。


「まあ、あんま色々考え無いで打って来いよ」
「うん」
「倉田さんのズボンだったら色々御利益ありそうだしな」


とんでもない、ちゃんと実力で勝ちをもぎとってくるよと、そう言ったら進藤は笑ってぼくにキスをしてくれたのだ
った。






「しかし―なんだな。こうして向き合っていると時の流れというものを感じるな」

碁盤を前に向かい合った時、緒方さんにしみじみと言われて苦笑した。

「あの小さかったアキラくんが進藤に孕まされて妊夫だなんてな」
「プライベートなことは放っておいてください」
「しかも、倉田のお下がりを履いているなんて前代未聞だな」
「いいんです。ぼくがお願いして頂いたんですよ!」


すわ盤外戦かと、周りに居た人々は色めきだったけれど、でもこれはぼくと緒方さんにとっては通常会話のよう
なものだった。


元々父の弟子で家に出入りしていた緒方さんはぼくを生まれる前から知っていて、ぼくにとっては年の離れた兄
のような存在だった。緒方さんもまたぼくを弟のように思ってくれているらしく、なので自然と会話は遠慮の無いも
のになってしまうのだ。


「まあ、おれには妊夫の気持ちはわからんけれどな」

でももし途中で体調が悪くなったら我慢しないですぐに言えと言われて笑ってしまった。

「緒方さん、それこれから打つ相手に言う言葉じゃないですよ」
「そうか? でもそれとこれとは関係ないからな」


万全な体調で打ってもらわないと、おれもつまらないからだとそう言って笑った。

「子どもと二人分、持てる力の全部でおれに向かって来い」
「…まだ生まれてもいない子どもに頼る気なんてありませんよ。ぼく一人で充分です」
「言うじゃないか」


そしてぼくと緒方さんは改めて頭を下げると「お願いします」と言ったのだった。





長い、長い、長い戦いの後、ぼくは緒方さんに勝った。

一目半の勝ちだった。

「…負けました」

最後、ヨセに入ってからずっと苦しそうな顔をしていた緒方さんは、大きくため息をつくと手に持っていた石を碁笥
に戻し、それから悔しそうにぼそりと言ったのだった。


「強くなったな」

おれの負けだと。

その瞬間、肩の力がふっと抜けた。

「やりましたね、塔矢七段」
「でも、まだ七番勝負の第六局ですから」


すかさずインタビューにやって来た古瀬村さんにぼくは苦笑しつつ答えた。

「まだ後一戦残ってます。そんなに簡単に緒方さんから名人の座を奪えるとは思っていないですよ」
「嘘をつけ、内心負けるつもりなど無いくせに」


こいつは昔からこういう食えないガキだったのだと、さすがに悔しかったのだろう緒方さんは渋い顔で言った。

「これで三勝三敗ですね。いやあ、次の七局目が楽しみですよ」
「次はこうはいかないぞ」
「ぼくこそ、今のが全てだとは思わないでください」


一瞬キツくにらみ合い、でもそれはすぐに解けた。

「まあ、かまわんさ。もし万一負けるようなことがあれば、おまえの代わりに進藤を苛めるだけだ」
「また…なんでそんなことを言うんですか」
「妊夫には手出し出来ないからな。その分精々、あの幸せ者に痛い目を見せて憂さ晴らしをしてやるさ」


その後は改めてじっくりと今日の分の検討になり、それから夕食になった。


老舗旅館ということで美味い料理がずらりと並び、今の所勝ちがどちらともはっきりとしていないこともあって、
なんとなく宴会の趣になった。


ぼくたちだけで無く立会人や記録係、記者の人や純粋に見学に来た棋士もいるので、それらが一同に会する
と結構な人数になってしまう。


中には顔を知らない人も居て、プロになったばかりの棋士か、それとも勉強熱心な院生が手伝いがてら見学に
来たのかなと思った。


珍しく若い女性も何人か居て、ぼくはいつしか彼女たちに囲まれて質問攻めに遭うはめになった。


「それじゃ、恋愛結婚なんですか?」
「まあ、そうですね。そんなものです」
「男同士って、家事の分担とか難しく無いんですか?」
「いや、うちは進藤が見た目よりずっとマメなので…」


そういう苦労やもめ事は無かったと言ったら羨ましいと声高に言われた。

「お腹、随分大きいですけど何ヶ月なんですか?」
「今、八ヶ月で再来週にはもう九ヶ月になります」
「産むのって自然分娩なんですか?」
「いえ、帝王切開で。まだ日にちは決まっていませんが」


医師と相談して、名人戦の片が付いたら産む予定だと言うと感心したような声をあげられてしまった。

「そんな大きなお腹でギリギリまで仕事をされるなんてすごいですねぇ」

この時、一瞬微妙に間が開いたような気がしたのだがぼくはさして気にもとめずに答えた。

「そうですか? でも打てるうちは少しでも多く打ちたいですから」
「すごいですね、塔矢プロって棋士の鑑だと思います」


そしてその後はごく普通に棋戦の話などに戻り、料理を堪能しつつぼくは結構楽しい時間を過ごした。



宴会後もなんだかんだと引き止められて、ぼくはずっと緒方さんと数人の記者の人たちと一緒にバーで飲む
はめになった。


もちろん、飲むと言ってもぼくはジュースで人が美味しそうにグラスを傾けているのを指をくわえて見ているだ
けだったのだが。


「さっきは随分モテていたみたいじゃないか」

さんざ酔いがまわった頃、緒方さんは先程の宴会のことを持ち出して来て言った。

「結婚していても、妊娠していても人気が衰えないって言うのは羨ましいことだな」
「いえ、珍しかっただけですよ」


それが当たり前になりつつある昨今でも、男で妊娠・出産までする者は女性に比べると圧倒的に少ないので、
間近でそれを見て興味津々だったのだろう。


「服や下着のことまで聞かれてしまいました」
「…まあ、有名税だと思って我慢しておけ」


さすがに少し引きましたと言ったら緒方さんは鷹揚に笑って言った。

「もしおれや、あの桑原のジジイが妊娠したとしても、誰もそんなふうに聞いては来ないと思うからな」

最もおれもあのジジイも産むよりも産ませる方が好きだがと、こんな余計なことまで言うからよくない噂がたつの
だと思う。


「そういえば、進藤は今日はどうしてるんだ?」
「進藤は今日、井上先生のお手伝いで目黒に行っているはずです」
「目黒?」
「新しく碁会所を開かれて、今日がその初日だったものですから」


井上九段は父の古くからの知り合いで、本当は今日の手伝いもぼくが行くはずだったのだが、名人戦が入ってし
まったので代わりに進藤に行ってもらったのだ。


「井上さんはあの辺りは詳しいからな。今日は進藤は家に帰って来ないかもしれないな」

とろりとした目でグラスを空けた後、緒方さんは人の悪い笑いを浮かべて言った。

「今頃どこぞの女としけこんでいるかもしれないぞ」
「進藤はそんなことしませんよ」


暗に浮気をほのめかす緒方さんにぼくはぴしゃりと言ってやった。

「夜、寝る前に電話をかけると言ってあるんです。だからちゃんと帰ってますよ」
「ほう、随分飼い慣らしてあるもんだ」
「飼い慣らしてなんか!」
「でもな、持ち帰りしてくる場合もあるからな、家に居たからと言って安心していると痛い目に遭うかもしれないぞ」


おまえはあいつを信用しているようだが、あいつもしっかり男だからなと言われて、わざと言っているのだとわかって
いても嫌な気持ちになった。



「いくら負けたからってこういうことで意趣返しをするのは失礼です」
「なんだと? おれがおまえに負けたから意地悪くこんなことを言っているんだとでも言うのか?」
「そうなんでしょう。緒方さんは酔うといつも絡んで来ますけど、どうか人の家庭に波風たてるようなことだけはしない
でください」


仕返しは盤上でと、思っていたよりもキツい言い方になってしまったのでしまったと思った。

「なんだ? 三勝したくらいで随分言うじゃないか」

おまえ一体何様だと思っているんだと、普段の緒方さんだったらぼくの物言いを聞き流しただろうけれど、今日は酔い
が深すぎた。


はっきりと明らかに機嫌の悪い顔になったので一緒に飲んでいた記者の人たちが目に見えてさっと青くなった。

「ま、まあ。緒方先生。塔矢七段も落ち着いてください」
「そ、そうですよ。せっかくの名勝負の後なんですから気持ちよく皆で飲みましょうよ」


取りなすようにグラスに注いだビールを緒方さんは一気に飲み干すとぼくを真正面から見た。

「何が名勝負だ! いいかアキラ、おまえはちょっとばかり勝ちが続いているからっていい気になっているようだが、
おまえくらいの棋士はいくらでもいるんだ。それをたかが七段くらいで結婚だ妊娠だと浮かれやがって。名人の座
も簡単に獲れるつもりで居るんだろうがそこまで世の中甘くは無い」


そのことをおれがよくわからせてやると、言われてぼくの頬も紅潮した。

「ぼくは別に――」
「大体そんな腹で対局に出てくること自体がおれを舐めているんだ。そんな碁盤につっかえそうな腹で目の前に座
られて本気の勝負が出来るか!」


みんな口には出して言わないだろうが、見苦しいと思っているのだと、妊夫は大人しく子どもが生まれるまで家に閉
じこもっていろと言われてぼくは顔から血の気が引くのがわかった。


「緒方さん…非道い…」

他の誰に何を言われてもぼくはそれほど気にしなかった。元々中傷の類には慣れっこになっていたし、そういう輩に
は実力で示せばいいと思っていたからだ。


色ボケだのなんだのと、腹がせり出してくるに従って陰口を叩かれることも増えていったが、負け犬の遠吠えだと聞き
流すようにしていた。


でも、解ってくれている人はちゃんと解ってくれているとぼくは思っていた。

父や桑原先生や篠田先生。白川先生に芹沢先生に芦原さんに、幼い頃からずっと身近に居た緒方さんはぼくのことを
ちゃんと理解してくれて受け入れてくれているものだと思っていた。


けれどそれはどうやら違っていたらしい。

「とっ、塔矢七段、緒方先生は酔ってますから!」
「本心じゃないのは塔矢七段が誰よりもご存知でしょう?」
「なんだ? おれは嘘なんか言っていない。本心で言ってるんだ!」


そんなみっともない姿を晒すくらいなら家に閉じこもっていろと、目の毒だとまで言われてぼくはもう我慢が出来なかっ
た。


「失礼します…」

本当は目の前の膳をひっくり返して行きたかった所だが、かろうじて理性でそれを留めた。

「あ、とっ、塔矢七段!」
「まっ、待ってくださいっ」


記者達はおろおろと慌ててぼくを引き止めようとしたけれどぼくはかなぐり捨てるようにしてその場を去った。

「逃げるのか、アキラっ!」

緒方さんの声も追いかけて来たがもう振り返らない。だって少しでも早く逃げ出さなければ泣いてしまいそうだったから
だ。






「悪阻…ずっと気持ち悪くて、名人戦の予選もキツかった……」

部屋に戻ったぼくは、泣きながら妊娠してからのことを振り返っていた。

「六ヶ月を過ぎてもまだ気持ち悪くて…七ヶ月の時には貧血になって鉄剤を飲んで」

飲みながら名人戦に赴いたのだと思った時にどっと涙が溢れた。

「悪阻が収まっても電車に乗るのは辛くて…指導碁の時も何回も吐いて…」


他の棋戦もこなしながらそれでも途中、出血があって一週間ほど入院したりもした。

あの時はさすがの進藤も棋戦を降りろと言ったのだけれど聞かなかった。

「大丈夫、決して無理はしないから」

ギリギリまで打たせてくれと頼んだのは、自分のプライドのためだけでなく、生まれてくる子どものためでもあった。

まだまだ頼りない親だけれど、囲碁への想いは本物だと、棋士として誇りを持って打っているのだと、いつか生まれて来た
時にそれを話してやりたいと思ったのだ。


だから苦しくても頑張って来たのに、それはただの自己満足だったのかと、他人から見たら滑稽なだけであったのかとそう
思ったら悔しくて涙が止らなくなってしまった。


「みんな…そう思ってたんだろうか」

みっともないと、大きくなった腹でそれでも打ち続ける自分を親しい人々すらも笑っていたのだろうかと思ったら情けなくなっ
た。


「なんのためにぼくはこんな……」

生まれてくる子どもに最初に送る贈り物は名人の座だと、そう勝手に決めていた。

おまえがお腹に居たから勝てたんだよと、そう言ってやりたいと思っていたのに…。

「バカみたいだ……」

本当に自分はバカみたいだと思った。

「進藤…」

キミもこんなぼくをバカだと思って見ていたんだろうかとそう思ったら悲しくてたまらなくなって、ぼくは敷いてあった布団に
潜り込んだまま止むことを知らず泣き続けたのだった。






目が覚めたのは明け方に近い時間だった。

(泣きすぎて頭がぐらぐらする)

まるで子どものように泣き疲れて眠ってしまったぼくは、暗い部屋の中でゆっくりと辺りを見回した。

一人で泊まるには贅沢な二間続きの日本間は、しんと静まりかえっていて廊下からも何も音は聞こえなかった。

「……四時」

一体自分は何時間泣いていたのだろうかと思ったら、どっと疲れた気分になった。

「進藤からの着信がある……」

時間を見るために手に取った携帯電話には電話の着信が二件と、それからメールが一件届いていた。

どうやら進藤が電話して繋がらないのでメールを寄越したらしい。

『お疲れ様、ネットで見てたんで勝ったのはわかってる。あんまりハメ外さないで早めに寝ろよな。明日また電話する
から』


愛してると結んであるメールを見ていたら、また涙が溢れそうになってきて、こんな時間だと言うのにすぐに進藤に電話
をかけたくなってしまった。


かけて今のこの気持ちを涙と共ににぶつけてしまいそうになった。


『ぼくはバカだと思うか?』
『こんな姿で尚、打ち続けているのはみっともないことだと思うか?』
『ぼくはこんな姿を晒さずに大人しく家に居るべきだろうか?』



さすがに電話するのは躊躇われて、せめてメールにしようと半分程打ちかけた所で正気に返った。

「こんなメールを送ったら、きっと進藤が心配する」

何事があったのかと、何をも捨ててもきっとぼくの元へ来ようとするだろうと思ったら、自然に指が止った。

「進藤まで嫌な気分にさせることはないよね」

彼もまた彼でやらなければならないことが毎日のようにあるのだ。

「お風呂にでも入って…気分を変えよう……」

結局宴会の前も後も風呂に入らずに寝てしまった。こんな時間にと思わないでもないけれど、この旅館の風呂は二十四
時間開いていることを思いだし、ぼくはタオルを掴むと一人部屋を出たのだった。


当たり前と言えば当たり前だが、こんな時間に風呂に入っている者は他に一人もいなかった。

しんと静まりかえった脱衣所も広い大浴場も明かりはついているものの、静かすぎて気味が悪いくらいだった。

(そういえば夜中の風呂は危ないって聞いたっけ)

主に女性に対してのことだが、二十四時間開いていると言っても真夜中の風呂は人の目が届きにくい。ぼくは男なので
その心配は無いにしても、窃盗などの犯罪に巻き込まれる危険もあるのだ。


気分転換のために来たものの、なんとなくゆっくりする気分にはなれなくて、ぼくは手早く髪と体を洗うと湯船に浸かった。

ある程度体が温まったらさっさと出て部屋に戻ろうと思った時に、がらりといきなり脱衣所の戸が開き、数人の若い男の
声が漏れ聞こえてきた。


(よかった、人が来た)

少々早い気がしたものの、朝風呂を楽しむ宿泊客がやって来たのだとぼくは思ったのだ。

ところがいつまでたっても誰も浴場に入って来ない。

人の気配は相変わらずしているのに、入って来ないのが段々と不気味になってきて、ぼくはそっと湯船から上がるとなる
べく姿が戸に映らないように横の方から戸に近づいて行った。すると―。


「誰が最初にヤる?」
「おれ妊婦犯すのって初めてだ」


聞こえてきた話し声にぼくは心底驚いた。

「誰か来たりしないかな」
「大丈夫だろう? じゃんけんで負けたヤツ一人見張りに立って、それで後は順番にヤれば」
「中出ししても妊婦なら妊娠しないもんな」
「こんな時間に一人で風呂に入りにくるなんてバカな女だ」


くすくすと広がる笑い声を聞きながら、ぼくは青くなった。そういえばここの風呂は男風呂と女風呂を二十四時間ごとに入れ
替えていると案内された時に説明を受けたのだ。


ぼくは何も考えず、最初に説明を受けた方の大浴場に入ったのだが、それはぼくが寝ている間にひっそりと『女湯』に変って
いたのだった。


そして彼らは廊下を歩いていくぼくの姿を見、『女湯』に入るのを確認して、女性だと勘違いしたのだろう。

(どうしよう)

逃げる場所は脱衣所しか無い。けれどそこには誰ともわからない男たちが居る。

ぼくも男だと知らせれば事なきを得るのかもしれないが、期待を裏切られた彼らがどういう反応に出るのかもわからず、ぼくは
恐ろしくてたまらなかった。


「おい、なんか中静かじゃね?」
「気づかれたんじゃねーの」


もうさっさとヤっちまおうぜと、戸に男の影が映った途端ぼくは夢中で引き手を押さえていた。

「わ、なんだこいつ、やっぱバレてるぜ」
「いいから無理矢理開けちまえ」


渾身の力を込めてぼくは必死で戸を押さえた。けれど向こうは人数が違う。ぐっとかかる力が強くなってきて、とうとう耐えきれず
にぼくの指が戸から離れた。


バーンと戸が叩きつけられた音が大きく響き、気がつけば目の前には三人の男が立っていた。

「かっわいこちゃん♪こんばんは♪」

ひゅと口笛を吹いた男を見た瞬間、体の方が反応してぼくはくるりと踵を返すと逃げだそうとした。

けれど寸での所で腕を掴まれ、ぼくはその場に転んでしまった。

足の下のタイルが濡れていたのも悪かったのかもしれない。思い切り、何の用心もしないで転んだぼくは思い切り腹を打って
しまった。


「―――――――あっ」

滑った瞬間、腹を庇わなければと思ったのに、腕を掴まれていたためにそれが出来なかった。

冷たい感触を肌で感じたその瞬間に信じられない激痛が腹から脳天に突き抜けるように起こった。

「あっ―――ああっ」

倒れたままうめき声を上げているぼくに、男達は呆気にとられたようだった。

「なに?どうしたのこいつ」
「って、なんだよこいつ男じゃん」
「男でもいいじゃん、ヤッちゃう?」
「バカ、よく見ろよ」


すっかり毒気が抜かれたように立ちすくむ男たちは次にマズイことになったと悟ったらしかった。

「ちょ…なんかコレ、ヤバイんとちゃうん?」
「いっ………痛いっ……苦し…………」


もがきながらなんとか身を起こそうとした時に、何か生温かいものが足の間から伝い落ちる感触があった。

「あっ……痛い…誰か……」


出血していた。

太股から脹脛にかけて赤い血の筋が幾筋も出来あがっていて、生暖かい血が肌を滑り落ちていた。

「助け…誰か…」

今、転んだ衝撃で赤ん坊に何かあったのだとそう思った時に、ぼくは襲われると思った時以上の恐怖を感じた。


「う………わぁっ」

思いがけない展開に男達は全員身を翻すと浴場から大慌てで逃げ出して行った。

「待っ…て、誰か人を……」

人を呼んでくれと、言うぼくを置いて皆いなくなってしまった。一人残されたぼくは痛みに気を失いそうになりながら、
なんとか立ち上がろうとして、でも出来なかった。


「助けて…誰か」

ずるずると脱衣所の床を這い、なんとか自分の脱衣カゴに手をかけることが出来た。

着替えることは出来なかったけれど、さっき部屋を出る時にタオルと一緒に携帯を持ってきていたことを思い出した
のだ。


進藤からのメールが嬉しくて離し難く、バカだと思いつつ持ってきてしまったのだけれど、今心の底から持ってきて良
かったとそう思った。


「進藤…」

起きることが出来ないので、伸ばした手でカゴに指をかけてひっくり返す。脱いだ浴衣と一緒に携帯が落ちてきて額に
当たったけれど痛いよりも何より、手に入ったということが嬉しかった。


震える手で番号を呼び出し、コールが響くのをじっと聞く。

『……………はい、なに?』

眠そうな声がやっと出た時にぼくは泣きながら叫んでしまった。

「進藤っ!ぼくたちの子どもがっ、ぼくたちの子どもがっ!!」

そしてどうやらぼくはそのまま気絶してしまったらしい。次に気がついた時には病院のベッドに居て、何故か進藤がすぐ
傍らに座っていた。


「あ……起きた?」

うとうとと眠っていたらしい進藤は、ぼくが身じろぎをして軋んだベッドの音で目を開き、ぼくを見て泣き笑いのような表情
を浮かべた。


「なんで……キミが居るんだ?」

だって今ぼくは静岡に居て、進藤は東京に居るはずで、しかも今はまだ電車も動いていないだろう明け方なのに……。

「おまえ、丸1日眠ってたんだって!」

きょとんと見つめるぼくに進藤が絞り出すような声で言った。

「おれに電話くれてからずっと……ずっと気ぃ失ってて……でも、目ぇ開けてくれてよかった」と言われた時にぼくは大切
なことを思い出した。


「進藤……子どもは?」

聞くのがぼくは死ぬ程恐ろしかった。

ぼくは生きている。でも子どもは?

心臓が痛くなるような数秒の後、進藤はにこっと笑うとぼくに言った。

「大丈夫。…大丈夫だった」

元気だよと、言われて目に涙が溢れた。

「よかっ………」
「でもおまえこのまま入院だって」


取りあえず状態が落ち着くまで入院で、もしかしたら生まれるまでこのままかもしれないと言われ、でもそれは仕方無い
と思った。


足を伝って落ちていった赤い血の色をまだしっかりと覚えているからだ。

あのまま、授かった命が失われるのかと思った。

それは自分の命が失われる以上に恐ろしい感覚だった。

「……名人戦の七局目は棄権だね」

何事も無ければ、第七局は一ヶ月後にあるはずだった。しかしこんな状態ではその時に果たして打てるかどうかわから
ない。


「あー、うん。そうなるかな?」

でもわかんないと進藤が妙に歯切れの悪い言葉で言った。

「なに?」
「いや……おまえ緒方先生と何かあったん?」
「え?」
「緒方先生、おまえが棄権するなら自分も棄権するって言ってる」


不戦勝で名人位を保持してもなんの意味も無いと、それくらいだったら返上すると言っているのだと言う。

「そういうの、出来るのかどうかわからないけど、一ヶ月後に出来ないなら子どもが生まれてから改めて第七局を行うように
棋院に掛け合うって言ってたよ」


おれももちろんお願いに行くけどと、言われてぼくはなんと言っていいのかわからなくなってしまった。

「ごめんって言ってたぞ。おまえにごめんって。あれはそういう意味じゃなかったんだって…どういう意味?」
「なんでも無いんだ。宴会の席でちょっとあって」
「ふうん」
「まあ、とにかく、後でまた緒方先生来るって言ってたからそん時に直接話せよ」
「…うん」


それからついでにお礼も言ってと言われてぼくは、ぼくを風呂場に探しに行ってくれたのが緒方さんだったと初めて知った。

進藤はぼくからの電話を受けてすぐに旅館に電話して、けれど中々人が出ないのに焦れて緒方さんの携帯にかけたのだと
言う。


「四百万回くらいかけたかな」

それで酔いつぶれて寝ている緒方さんを叩き起こし、ぼくを探しに行ってもらってから今度は芦原さんを起こして車で送って
もらったのだと言う。


「おまえからの電話聞いた時、心臓が止るかと思った」

そして緒方さんからの連絡で風呂場で倒れていたというのを聞いて目の前が真っ暗になったと言う。

「もうダメだ、おまえきっと死んじゃうって…」

脱衣所で気絶していた。出血しているようだと言われて、進藤はぼくも子どもも死んでしまうとそう思ったらしい。

「そしたらおれ、もう生きていけないって」

だけど生きていてくれたから良かったと、ぎゅっと手を握りしめて言われて胸が熱くなった。

「ごめん…キミからもらった大切な命なのに」
「違うだろ。おれがおまえからもらった大事な命だ」


これからずっと二人で育てて行くんだと、言われて自分では泣いている自覚も無く泣いてしまった。

「愛してるよ、キミを―」

何を改めてと言われそうだけれど、どうしても言わずにはいられなくてぼくは泣きながら繰り返した。

愛してる。

愛してる。

キミのことが大好きだ――。





結局ぼくはそのままその地の病院に二週間入院して、それからやっと東京に戻った。

心配だったお腹の子どもは有難いことに無事で、しばらくお腹の張りや出血が続いたものの早産することは無かっ
た。


その危険が無いと、東京に戻って良いと言われた時ぼくはどれだけ嬉しかっただろうか。

「でも…一時は危なかったんだろう?」

退院して帰る車の中でぼくは進藤に言った。

「んー?…………まあ、ちょっとだけ」

ちょっとだけ危ないかもしれないって医者には言われたと、進藤はさらりとした口調で言ったけれど、ぼくは見舞いに
来てくれた母に、子どもだけで無くぼくも危なかったかもしれないのだと聞かされていた。


「まあ、もしあれでおまえに何かあったらおまえをあんな目に遭わせたヤツらは生かしてはおかなかったけど」

ぼくを風呂場で襲った彼らはあれからすぐに捕まった。やはり同じように別の温泉宿で女性を襲おうとして現行犯で捕
まったのだ。


聞けば彼らは地元でも評判のワルで、今までにも色々と事件を起こしていたらしい。

ぼくのことに関しては女だと思っていたので男でがっかりしたと、損をしたような気持ちしか抱いていなかったようだが、
進藤は本気で怒ってしまい、近く民事裁判に持ち込む予定なのだという。


「別に金が欲しいわけじゃないけど、おまえを傷つけたことは絶対に後悔させてやる」
「…止めないけど、頼むからほどほどにしてくれ」


逆に逆恨みされてキミが傷つけられたらぼくが困ると言ったら彼は不遜な笑いを浮かべた。

「傷つけるなんて出来ないさ」

なにしろ加賀&三谷仕込みなんだからと、それ以上突っ込んで尋ねると知らなくていいようなことがぼろぼろと出て来
そうだったのでぼくは黙った。


「あ、そうだ。もし寄れるなら家に戻る前に棋院に寄ってくれないか?」
「今から? でもおまえ疲れて無い?」
「疲れているのはキミだろう、免許取り立てで静岡まで往復したんだから」
「そーでも無い。ほとんど走ったの高速だったし」


飛び出してくるチャリもふらふら出てくるバーサンもいなかったので楽だったと言われて、これにもまたぼくは深くコメント
をするのをやめた。


そもそもこの免許も彼はぼくに内緒で密かに教習所に通っていたのだ。

指導碁だと偽って教習所通いをしていた進藤は、今回のぼくの退院に間に合わせるためにかなり無理をしたらしい。

「…キミには本当にいつも驚かされてばかりだ」
「だって、子どもが生まれたら必要になると思ったし、それに実際今役に立ってるじゃん」


でも本当はもっと早く取れていたら、あの時もすぐに駆けつけられたのにと、ぼくが襲われた日のことを思い出したのだ
ろう、進藤は顔をしかめた。


「いいよ、そんな動揺している時に車でなんか来られたら」

事故でも起こされたらその方がぼくは怖い。

「で、棋院は何の用事で行くの? 明日じゃダメなん?」
「明日でもいいけど、一応安静にと言われているし、一度家に戻ってしまったら市ヶ谷まで行くのは大変だから」


今のうちに挨拶をしておきたいのだと言ったら進藤は頷いた。

「そうだな。名人戦のこともあるし、他の棋戦のこともあるしな」

結局名人戦第七局はぼくが出産を終えてから行うことになったのだ。

実際は出産前でも出来ないことは無いのだが、そうでなくても弱っているぼくの体に勝敗をかけた戦いは耐えられない
だろうと、そういうことになったのだった。


それはもちろん進藤や何より現名人の緒方さんが棋院に掛け合ってくれたことによる。

今までそんな例は無かったはずだがこれをきっかけに棋士の出産や育児ももっと考えられるようになればいいなとぼく
は思った。


男女の性に関わらず、これからもぼくのようにギリギリまで打ちたいという棋士もきっと出てくるはずだからだ。

今までは前例が無かったので、諦めて丸一年棋戦から外れることになり、中にはそのまま戻って来なかった者も居ると
いう。けれど、制度が整えばそういうようなことも無くなり、皆安心して家庭を持ち、打ち続けることが出来るだろう。



「今日は確か緒方さん居るって言ってたと思うよ」
「そう、だったら丁度良かった。改めてちゃんとお礼を言いたいと思っていたし」
「いいけど、お腹痛くなったら我慢しないですぐに言えよな」
「わかってるよ」


心配性だなあと言いかけて、でも無理も無いと思う。

もしこれが逆にぼくが彼の立場だったら、きっと暢気に棋院などに立ち寄らせたりはせず、まっすぐに家に連れ帰り、
そのまま何と文句を言われようと部屋に寝せて子どもが生まれるまでは外に出したりしないだろうと思う。


実際進藤だってそういう気持ちで居るはずだが、でもそれをしないでいてくれるのは、ひたすらぼくを思ってのことなの
だと思ったら自分がどれだけ深く愛されているのかが痛いほどわかった。


(大事にしなければ)

自分の体は自分だけのものでは無い。それを今更ながらにぼくは強く感じたのだった。




棋院には緒方さんだけで無く芦原さんや倉田さんも居た。

「アキラ、おかえり〜心配したんだよ」

最初に事務室に行き挨拶をしていると、噂を聞いたらしい芦原さんがやって来て、そこにすぐに緒方さんと倉田さんも
加わった。


「すみません、お見舞いにも何度も来ていただいて」
「いいんだよ、そんなの。それより体調はもういいの?」
「はい。おかげさまで」


少しだけ貧血気味であるものの、それ以外はもう何も心配することは無いようですと、言うと芦原さんは目尻に涙を浮か
べながら言った。


「うん、良かったよ。もしアキラに万一のことがあったらと思ったらぼくは―」
「嫌だなあ、芦原さん。そんな縁起悪いこと言わないでくださいよ」


今にも泣き出さんばかりの芦原さんに側に居た進藤が苦笑したように言った。

「緒方先生も、あン時はありがとうございました」
「いや――でも、間に合って良かった」


もしあのまま誰も気がつかず、朝まで倒れていたらぼくもお腹の子もどうなっていたかわからない。それを思うと本当に
探しに来てくれて良かったと思わずにはいられなかった。


「緒方さん…本当にありがとうございます」
「いや、別に礼を言われるようなことはおれは何もしていない」


だからそうやって頭を下げるなと言われて、でも下げずにはいられなかった。

「随分生意気なことを言ったぼくを探しに来てくださって感謝しています」
「そうしおらしくされると調子が狂うな。出産が近いと気か立つものかと思っていたが、おまえは随分丸くなったな」
「緒方さんそれ、セクハラですよ」


すかさず芦原さんに言われて緒方さんは苦笑を浮かべた。

「まあ、万全なおまえとで無ければ勝っても意味が無いからな。無事に子どもを産んで早く棋戦に戻って来い」
「――はい」
「そうそう。おれの勝負勘では名人戦位は―」


倉田さんの言葉に勘弁してくれと緒方さんが言ってその場は明るい笑いに包まれた。




ひとしきり話をし、産休のことについても事務の人達と相談をしてそれからぼくは進藤に連れられて一階に降り
た。


「じゃあおれ、車、前まで回してくるから!」

玄関前が一杯だったので、近くの時間決め駐車場に停めた車を進藤が取りに行っている間、ぼくは緒方さん達
とロビーの椅子に座って別れ際の雑談をしていた。


「そういえば、おれがやったズボンちゃんと履いてくれてるんだな」
「はい。とても重宝しています。ありがとうございます」
「なにしろこの倉田様のお下がりだからな、御利益できっと安産になるぞ」


いえ、ぼくは帝王切開で産みますからと、他愛無いと言えばあまりに他愛無い話をして時間を潰しているとふいに
女性の話し声が聞こえた。


どうやらエレベーターで、手合いの終わった棋士達が降りてきたらしい。すぐに歩いて来るものと思ったけれどどう
やらまだ降りて来ない友人を待ってでも居るらくし、その場に止まっているようだった。



「ねえ、そういえば今日、塔矢七段が来てるらしいよ」

いきなり自分の声が出てきたことにぼくは驚いた。

「ああ、あの人もう大丈夫なの?」
「さあ、知らないけど、緑翠荘じゃ男に襲われたんでしょう?」


くすくすと含むように笑い声が響き、緒方さんや芦原さんの顔が微妙に顰められた。

「ヤられちゃったの?」
「まさかぁ、塔矢七段、妊夫だよ?」


あんなみっとも無いお腹してたら勃つものも勃たないよねえと、遠慮無い会話にぼくは顔から血の気が引くのを感
じた。


「あの人もほんと、男で妊娠ってだけでなんなのに、よくもまああんな格好で人前に出られるよね」
「そうそう。だって今、あの人倉田九段のお下がり着てるんだよ」
「私だったらとっとと産休使って、手合いになんか出て来ないなぁ」
「そうだよね、私前はファンだったけど今はもう幻滅」


なまじ顔が綺麗だから余計みっともないと、わっと大きく笑い声が上がった所で見かねて芦原さんが立ち上がっ
た。


「ちょっとぼく…注意してきます」
「いや、おれが言ってくる」


緒方さんも立ち上がった時だった。ドアが開き入り口から進藤が入って来た。

人の出入りは珍しいことではないので彼女達は振り向きもせず、そのまま大きな声でぼくの大きくなったお腹のことで
笑いあっていた。


「進―」

進藤は椅子に座っているぼくたちにもすぐに気がついたけれど、足を止めずまっすぐに彼女達の方に向かった。

殴りでもしたら大変だと、ぼくも慌てて立ち上がった時、はっきりとした声が辺りに響いた。

「確かにあいつ、腹が出てるけど、でもすごく綺麗だよ」

ぎょっしたように彼女達が振り向き、進藤を認め、更に僕たちの姿も認めて顔色を変えた。

「おまえらがどんな基準で物を判断してるのかしんないけど、でもあいつは昔からずっと綺麗だし、子どもが出来て腹が
大きくなった今も変らずに綺麗だよ。いや、今のがもっと綺麗かもしんない」


ずっと悪阻で苦しんで、でも苦しくても堪えて打って来た。その姿を自分は何より美しいと思うと怒鳴るわけではなく、ただ
淡々と静かに言うのだけれどそれは怒鳴るよりも効果があった。


「…進藤」
「楽することなんか簡単なんだ。でもあいつはそれをしない。みっともないって言われても笑われても負けないで打って来
たんだ。おれはあいつを棋士として心から尊敬してるよ」


だからこれ以上侮辱するようだったらおれはお前達を許さないけどと言われて彼女らは一斉に俯いた。

「…言うじゃないか進藤も」
「まったくねえ、ぼくたち出る間がありませんでしたね」


緒方さんと芦原さんが顔を見合わせる中、ぼくは堪えようと思っても涙が溢れて仕方無かった。

あんなふうに進藤がぼくのことを思っていてくれたなんて知らなかったからだ。

こんな姿になったぼくのことを綺麗だと言ってくれるなんて思いもしなかった。

「進藤…」
「大体さぁ、おまえら――」
「進藤っ!」


走ってはダメだ、転んだら大変だと頭でわかっていてもぼくは走らずには居られなかった。

「わっ、アキラダメだよ!」

芦原さんが叫ぶその声を聞きながらぼくは進藤の背中に抱きついていた。

「ありがとう。進藤、ありがとう」

振り返って進藤は驚いたような顔でぼくを見たけれど、すぐに改めて腕の中にぼくを抱き込んだ。そして彼女達を見据えて
言った。


「な? 滅茶滅茶綺麗だろ?」

そしてそのままぼくの体をそっと愛しそうに優しく抱きしめた。

「だからもう二度と絶対、こいつ侮辱するようなこと言うなよな」
「はっ…はいっ、すみませんっ」


深々と頭を下げる彼女達は、宴会の席でぼくを囲み質問攻めにしたあの彼女達だった。

「言うんだったら、せめてこいつのやっていることの百分の一でも出来るようになってから言って」
「すみません、もう二度と失礼なことは言いませんっ」
「そうだよ。すごく失礼だよ」


のんびりとした声がして、一人だけまだ座っていた倉田さんが立ち上がるとぼくたちの前にやって来た。

「塔矢、おれのお下がり履いてるんだぜ? この倉田様の!」

カッコイイに決まってるじゃんと、言われてぶっと緒方さんが吹いた。

「笑いごとじゃない。このズボンはな、履くだけで俺様の御利益があるんだから」

その証拠にそれ履いてから良いことばっかりだっただろうと言われて、ぼくは一瞬泣くのも忘れて進藤と顔を見合わせて
しまった。


「な? どう塔矢」
「そうですね…色々なとこがありましたけど…」


でも最悪な事態だけは回避出来ている。何より進藤に綺麗だと言ってもらえたのだから、御利益があったと言ってもいい
のかもしれなかった。


「な? な? そうだろ?」
「ええ……まあ…………はい」
「な? そーだろ、そーだろう」


これからもきっと良いことずくめだと押し切るようにそう言われ、ぼくは苦笑してしまったけれど、本当にそうなると良いなと
心から願い、自分を抱く温かい腕の幸せを改めてしみじみと噛みしめたのだった。




※すみません、ずっとすっ飛ばしていた3です。とっくに書き上がっていたのですが長いのと内容がなー、読んだ人どーだろーなー、
うーん(悩み)ということがありましてしばらくリンクしないでいました。大浴場で襲われるシーンはプロキシの町内会旅行とかぶるものが
ありますが風呂場で襲われやすい人ということで(←おい)スルーしていただけるとありがたいです。


思いがけず続いているこのシリーズですがなんとなくプロキシテイストになっています。あの二人に本当に子どもが出来たらこんなかも。
あまり長く続く予定はありませんが子どもが生まれる所まで書けたらいいなと思っています。


アキラのマタニティウエアを楽しみにしていらっしゃった方々、すみません、倉田さんのお下がりになりました(笑)

そうそうずっとリンクしないでいたために随分多くの方に「これは裏では!!」と誤解を与えてしまいましてすみませんでした。いや、単
に上記の理由だったんです。


あ、それから今の所ツッコミが無いので別に書かなくていいかもなんですが、「こども」を「子供」にしない理由ですが、「共」には供物の意
味がありまして、「こども」にこの字を当てるのは不適当なのではという考えが私の仕事方面ではあるんです。なので考え方色々ですが、
私は「子ども」としています。2006.9.12 しょうこ