世界の終わりに




殴られた頬は非道く痛んで、切れた口の中で血の味がした。

二度、三度と殴られた後に腹を足で蹴られて気絶する。

気を失っていたのがどれくらいの時間かわからないけれど、気がつけば進藤がぼくを抱きしめて泣いていた。

「ごめん――おれ、こんな」

こんな非道いことおまえにするつもりなんか無かったと、それはいつも繰り返される言葉だったけれど嘘や偽り
では無いことは誰よりもぼくが知っていた。


「いいよ…大丈夫」

ぼくは大丈夫だからもう泣かなくていいと、言っても彼は泣き止まず、ずっと…ひたすらにずっと泣き続けたのだ
った。




彼がぼくに暴力を振るうようになったのは、共に暮らして半年が過ぎた頃だった。

順調に勝ちを重ね、段位の上がった僕たちは様々な決勝で顔を合わせることが多くなってきていた。

それはぼくにとっては純粋に喜びであったし、彼にとってもまた同じだったと思う。

けれどそのどれにも最終的にぼくが勝ち、彼が負け続けた頃からぼくたちの仲はおかしくなった。


「やっぱ、別れよう。一緒に暮らすなんて最初から無理だったんだ」

どうしても勝てない、それは共に暮らすことで甘さが出ているからだとそうぼくに語った彼は一方的にぼくに別れ
を切り出してきた。


「嫌だ、そんな!」

お互いを嫌いになったわけじゃなく、なのに碁のことで別れなければならないということは頭でわかっていてもぼ
くにはどうしても出来なかった。


「今の状態は今だけのものかもしれないじゃないか、もう少ししたらまた変ってくるかもしれないのに」
「変るって―どっちに?」


苦笑しながら言った彼はたぶん解っていたのだと思う。このままの状態で良い方に転がるというこは決して無い
ということを。


「それでも…もしかして悪い方にしか行かなくても絶対にぼくはキミと別れない」

別れるくらいなら死ぬと、逆上して刃物で自分を傷つけてしまったくらいぼくは取り乱してしまった。

「塔矢…」

それが良かったのか悪かったのかわからないけれど、彼は渋々と別れることを諦めて、そのままぼくたちは一
緒に暮らし続けることになった。


けれど――。


彼の不調はそれ以後も続いた。

ぼくに勝てないだけで無く、終いには他の段位の低い棋士にすら負けるようになっていった。

それは坂を滑り落ちるようで見ていて恐ろしいくらいだった。


打っても打っても勝つことが出来ない。

その中で藻掻いている彼はどれくらい苦しかっただろうか?


もしこの段階でぼくが彼を離してあげられたら、きっと彼は自分を立て直すことが出来たんだろう。

でもぼくはやはりどうしても彼を離すことが出来なくて、形振り構わずに彼を引き止め縛り続けてしまった。


彼はどんなに負けが込んでもその苛立ちをぼくにも周囲にもぶつけたりはしなかった。

ただ一人、胸の内に納め、黙々と勉強を重ねていった。

けれど、それでも成績が変らない、その時に歪みが生じたのかもしれなかった。




その日、新王座のタイトルを獲得したぼくは、祝賀会を終えて夜遅くに帰って来た。

弱いのに散々飲まされて、足下も多少おぼつかなくなっていた。

彼は来ると言っていたくせに祝賀会には来なくて、どうしたんだろうとぼくは暢気なことを考えていた。


「あ、ただいま」

台所で酔い覚ましに水を飲んでいたら進藤がふらりと現われた。

「遅かったな」
「もっと早く帰って来ようと思ったんだけど、皆に引き止められてしまって―」


会にはお世話になった方々が勢揃いしていて、囲碁界の重鎮と呼ばれる人たちも居た。

「桑原先生がキミに会いたがっていたよ。最近ちっとも顔を見せないって。それに工藤八段がどうして最近
研究会に―」


研究会に来ないんだと言っていたと言おうとした言葉は最後まで言えなかった。彼がぼくをいきなり拳で殴
ったからだ。


「―――っ」

ダンっと音がするくらい激しくフローリングの床に倒されて、ぼくは一瞬何が起こったのかわからなかった。

「進―」

火傷したような頬の熱さと口の中に広がった血の味で殴られたのだと、それを進藤がやったのだとぼくは
ようやく悟った。


「進藤…どうして…」
「うるさいっ!」


呆然と見上げるぼくを彼はその足で何度も何度も蹴った。

「進藤っ!」

苦しさと恐怖で逃げ出そうとするぼくを進藤は髪を引きずって押さえつけ、思い切り足で踏みつけた。

「やめて、やめてっ、進藤っ。助けて!」

叫ぶ口は塞がれ、殴られ、首を絞められた。

あまりの痛みにぼくは気絶して、気がついた時には朝になっていた。

「ごめ――」

進藤はぼくの体を抱きしめて、子どものように泣いていた。

「ごめん、ごめん、塔矢――」

おまえなんにも悪く無いのに、こんな非道いことしてごめんと、それが一番最初だった。

「ごめん、もう二度としないから―――」

けれどその日以来、彼はふとしたきっかけでぼくを殴ったり蹴ったり暴力を振るうようになっていったの
だった。





「…カウンセリングを受けた方がいい」

それが所謂DVであるということはすぐにわかったし、彼自身もそれを解っていてなんとかしたいと思って
いるようだったけれど、どうしても病院には行ってくれなかった。


「行ったら、おれがこんな状態だってみんなに解っちゃうじゃんか」

周囲に知れる。そうしたらただでさえ成績が振るわないのに、謹慎などで打つことを禁じられてしまうかも
しれない。それが彼は何よりも恐ろしかったようなのだ。


「ごめん、おれがんばるから、頑張って手ぇ出したりしないように我慢するから、だからおまえももう少しだ
け我慢して」


決しておまえが憎くてやっているわけじゃないのだと、どうしてやってしまうのか自分でもわからないのだと、
彼はぼくの前で顔を覆って泣いた。


その同じ手がぼくを殴ったのだとは、体中痣だらけにされている今でも信じられなかった。

あんなに激しく暴力を振るい、口汚くぼくを罵った彼は感情の嵐が過ぎると元のままにぼくを愛していると
言う。


「進藤……」


彼に痛めつけられた痕はどれも非道い痣になって、でも際どい所で見えない場所についていた。だからぼ
くは人前で服を脱ぐようなことは決してしなくなった。


蒸し暑い日でも長袖を着て、襟首も締まった服を選ぶようになった。


「ごめん、塔矢、おれのこと耐えられなくなったら警察でもなんでも行っていいから」

服の下、青黒く浮いた痣を撫でながら進藤が言った。

「暴力振るわれてるって…それでおれのこと捕まえてもらって」
「行かないよ。行くわけないじゃないか」


自分でも不思議だった。ここまで暴力を振るわれておいてそれでも警察に行く気持ちがまるで起らない。

それどころか殴られても蹴られても、踏みつけられても彼を愛しているというその気持ちは変ることは無か
った。


(バカだな…ぼくは)

このままだといつか殺されてしまうかもしれないと冷静に頭の隅ではわかっているのに感情が彼から離れ
ることを許さない。


だって彼は非道く苦しんでいるから。

打てなくなった、それはぼくと暮らすことでペースが狂ったせいだったんだろう。

彼の言うように、愛しあう相手と共に暮らすことがプラスに出る者とマイナスに出る者が世の中には居る。

ぼくはプラスに出る方で彼はマイナスに出る方だったんだろう。

なのにぼくは離れたいと訴えた彼の願いを退けて無理矢理に縛り付けた。そのせいで更にペースを崩して
取り返しがつかない所まで行ってしまったのだと今ならばよくわかる。


進藤は誰をも責めまいと、自分の力不足のせいなのだと、必死で焦りを押し込めて藻掻いて藻掻いて藻掻
き続けてそしてとうとう溺れてしまったのだ。



「おれ、頑張るから、もう絶対におまえのこと殴ったりしないように努力するから」

だから許してと、何度同じ台詞を聞いたことだろうか。

「いいよ。平気、大丈夫だから」

ぼくもまたたぶん、間違っていたのだと思う。

「ぼくは平気だから、だから…そんなに泣かないで」

彼を本当に想うならば、彼が何を言おうとも、それで彼に恨まれるようになったとしても、それでも病院に連
れて行って治療を受けさせるべきだったのだ。


暴力が度を超すようなら警察に行ってそれを止めさせるべきだったのだ。

でもぼくはそれをせずに、彼の暴力に黙って耐える方を選んでしまった。




「アキラ、この頃顔色悪いみたいだけど大丈夫?」
「大丈夫ですよ、体調もいいし」
「ならいいけど、なんか元気が無いように見えたから」


ぼくの様子がおかしいことに近しい者は薄々気がついてきていた。

特に芦原さんは早くから気がついていて、今までも何度か心配そうに尋ねてきたりしていた。

「元気ですよ、名人戦のリーグ入りも無事果たしましたしね」
「ああ、そういえばそうだね。進藤くんは最近調子悪そうだけど、彼もまた元の調子に戻るといいねぇ」


まったく。

本当にまったく。

彼の方がずっとぼくよりも才能があるはずなのに、ずっと調子を出せていない。早く元の彼に戻って欲しい
とぼくは心の底からそう思った。




そしてその日、ぼくは家でまた彼に殴られたのだった。

彼は久しぶりに手合いで勝利を収め、それがぼくは本当に嬉しくて、彼の好物を作っていたのだけれど、
それをいきなり背中から引き倒されるようにして床に体を叩きつけられた。


「痛っ――――」

油断していたので頭を打ち、一瞬視界が真っ白くなった。

「進藤―危ない。火を使っている所だから―」
「おまえ今日芦原さんと何話してたんだよ」
「え?」
「今日、棋院で話してたじゃんか、おれのこと―話してたんだろう」
「違うよ、別にキミのことは―」
「嘘だっ! 聞こえたんだぞ、調子が悪そうだって、早く元の調子に戻るといいって」
「あれは―」
「おれの不調を二人して笑ってたんだろう。情けないって、あんな成績でふがいないって!」
「違う、進藤、違うってば」
「うるさいっ!」


顎を掴まれ頬を殴られ、そのまま頭を床に何度も叩きつけられた。

「本当はいつも笑ってんだろ、あんな非道い碁を打っておいてよく恥ずかしくないって」
「違う、そんなこと言ってな―」
「みっともないって、もういっそやめてしまえばいいって」
「そんなこと思ってなんか―」


ガツガツと叩きつけられた頭は痛みを通り越してしまい、なんだか意識がぼんやりとしてきた。

「おまえはいいよな、順調で、おれがこんなことしても絶対にペース崩さないし」
「進藤―」
「おまえ、心ってあるのかよ、生きてちゃんと感じてんのかよ」


おれがどんなに苦しいかおまえわかるのかと言われて涙が滲んだ。

「―わかるよ」
「嘘だっ!」


勝ち続けているおまえなんかにおれの気持ちが解るはずがないと、思い切り腹を殴られ背中を蹴られて
気絶した。


おまえなんかに

おなえなんかに

おまえなんかに

おれの気持ちが解るか―――――――。

(解るよ)

誰よりもキミの苦しみが解るよと、思いながら再び意識を取り戻した時には進藤はぼくを抱いて泣いていた。

「ごめんっ、塔矢っ、ごめんっ」

それはいつもの光景だった。ぼくに暴力を振るい、正気に返った彼が泣いてぼくに謝る。何一つ変わりない、
それは日常的に繰り返されている光景だった。


ああ、こうしてぼくはいつか彼に殺されるんだろうなとぼんやりとおもっていると、ふいに彼が言った。

「ごめん、やっぱもう無理だ。おれ警察に行く」
「――え?」
「このままじゃ、おれそのうちきっとおまえのこと殺――」


殺してしまうと、そんなこと絶対嫌だから警察に行って今までのこと全部話してくると、言われてぼくは目が
覚めたような気持ちになった。


「そんな―」
「殴っても何してもおまえが許してくれちゃうから、それに甘えてずっと非道いことし続けて来たけど、でもやっ
ぱり嫌だ…こんなの。こんなにおまえのこと愛しているのに…」
「…ぼくもキミを愛してるよ」


喋ると切れた口の端が更に広がって血の味がした。

「愛してるのに、おまえのこと傷つけるなんてもう嫌だ」

こんなこと絶対しちゃいけないことだからと、進藤の涙がぼくの頬にぽつり、ぽつりと雨のように当たった。

「ぼくは…キミになら殺されてしまってもいいと思ってた」
「塔…」
「ぼくがキミを縛り付けたからキミの人生が狂ってしまった。だからその罰を受けようってずっとそう思ってた」
「それは違う…」
「違わないよ。でも、そうだね、こんなことはもう終わりにしなくちゃいけないよね」


彼の背後では料理途中で放り出された鍋が噴きこぼれて火が消えて、ガスが静かに漏れだしている。

鼻を突く独特の匂いが部屋にはかなり立ちこめていて、このまま何もしなければ中毒か何かの弾みで爆発
が起こらないとも限らない。


「進藤…キミに決めてほしい」

このままぼくとここで死ぬか、それとも二人で生きるかをキミが決めてくれと、ぼくの言葉でようやく彼はどんな
状態になっているのか気がついたらしい、驚いたような顔で後ろを振り返った。


「ぼくはキミに生きて欲しい。でもキミにとって生きることが苦しいだけのものならば、ぼくたちはこの世からいな
くなってしまった方がいいんだろう。ぼくはキミと一緒に逝くよ」


でも…とぼくは言葉を切って、進藤の瞳をひたと見つめた。

「でもぼくは…例えぼく自身はどうなってしまっても本当はやっぱりキミには生きて、また打って欲しいんだ」

元の大好きだったキミに戻って欲しいのだと、そう言った瞬間に進藤はぎゅっと折れる程強くぼくを抱きしめた。

「…おれは……おまえに生きてて欲しい。こんな…おまえに非道いことばっかりするおれなんか居なくなっても
別にかまわないと思うけど、でもおまえにはずっと生きて打っていてほしい」


だっておれ、そんな強いおまえが好きだからと、そんなおまえだから好きになったのだと、その後はもう嗚咽に
なって聞こえなかった。



愛してるよ、ごめん、キミが好きだよ、愛してる。

ごめん、ごめん、ごめん、ごめん。

いいよ、もう。それでもごめん。愛してる。愛してる。愛してる。


震える手でガスを止め、台所の窓を開け放った後、ぼくたちは抱き合ったまま言葉にならない言葉を繰り返し
ながらバカのように泣き続けた。


ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん―――――ごめん、ごめん、ごめん、ごめん――――。



ギリギリまで追いつめられてもうダメだと思った。

お互いに傷ついて、こんなぼろぼろになって、限界だと思った。

諦めと、後悔と、様々な感情の渦の中、救われることは無いと思っていた。

けれど違った。それは間違いだった。


「愛してる」
「…ん」
「愛してるよ」
「…うん」
「本当に……心から…愛して…」



滅茶苦茶に壊れて砕け散ったぼくたちの世界。でもその世界の終わりに、ぼくたちは新しい世界を見つけたの
だった。




※読中読後感の悪い話でごめんなさいです(平謝り)例え何があっても絶対にヒカルにはアキラに手をあげて欲しくは無いと思い続けて来たのに
なんでこんな話を書いてしまったのか(−−)というと自分でもわかんないわけなんですが(←おい)


ただなんか本当にもう、アキラはヒカルに信じられないくらい寛容だろうなあと思って。ヒカルが何をしても(浮気以外)許してしまうんじゃないかな。
そういう愛し方をしているんじゃないかなと思うわけです。自分の内側はよっぽどでないと見せないし、踏み込ませるなんて更に希で、でもそこまで
許してしまった相手にはもう際限なく寛容なんじゃないかな。でもDVはいかんです。愛している人は大切にしないと。2006,9,16 しょうこ