ナイフ




それでもやはり腹は立つ。

少し前、落ち込んでいた進藤の顔を思い出すと余計に腹が煮えくりかえり、相手にひとこと言って
やらずにはいられないような気持ちだった。


「ごめん―おれらのこと、漏れた」

その日、進藤は青ざめた顔でぼくのマンションにやって来るとぼくの顔を見るなり俯いた。

「本当にごめん、ずっと二人でバレないようにやってきたのに、おれがついうっかりした」

友人だと思っていた人間にぼくたちのことを話したら、それを広められてしまったのだと言う。

「それは――」

一瞬なんて言っていいのかわからなかった。

ぼくたちが愛し合っている。それは誰にも決して言ってはいけない秘密だと思っていたし、それを
安易に打ち明けてしまった彼は確かに迂闊だったからだ。


「…和谷くん?」
「まさか!」


即座に返事が返った。

「違う。それに言わなくても和谷は薄々わかってるし」

わかっているけれどそれを敢えて口には出さない。友達というものはそういうものだろうとぼくも思
う。


「じゃあ…だれ?」
「最近、倉田さんの関係の研究会で知り合ったヤツ」


年も同じで話も合った。何回も顔を合わせるうちにプライベートでも付き合うようになっていて、それ
はぼくも知っている相手だった。


「…あの人が…」
「言わなきゃよかった。あいつの方から水を向けられたから…つい」


いくら相手に話のきっかけを振られても余程でなければ進藤は話したりしない。つまりそれだけ心を
許していたということで、そう思ったら胸がむかついた。


「ごめん…塔矢。聞かれたら白をきっといて、おれ、おまえは関係ないって言うから」
「バカ」


思わず声が出て、そのまま彼を殴ってしまった。

「そんなこと…本当にぼくが望んでいるとでも思っているのか」

元々二人のことなのだから、キミが泥を被るならぼくも被るよと、一緒に人の好奇の目とやらに晒さ
れようと言ったら進藤は泣いてしまった。


「ごめん――本当に」
「いいよ、もう謝らないで」


なんとも言えない気持ちでぼくは彼を抱きしめた。

彼を責める気持ちは欠片も無い。

けれど愚かだと思う気持ちもある。

そして何よりもこんな単純で、でも決して「友人」と決めた相手を裏切ることの無い、優しい男を裏切
ったバカのことが腹が立って仕方が無かった。







翌日、手合いに出かけたぼくは棋院に入った瞬間から人の視線を痛い程に感じた。

「おはようございます」

顔見知りの棋士に声をかけても強ばった顔しか帰って来ない。これは相当だなと思いつつ、エレベ
ーターに乗り六階で降りる。


進藤はもう先に来ていて、じっと碁盤の前に座っていてやはり人の目に耐えていた。

「進藤、おはよう」

洗心の間に入った瞬間に気持ちが悪いくらい人の声が途切れて、それまで以上にあからさまな視線
がぼくと彼に集まった。


「おはよう―」

ぼくを見返した進藤は少しだけ戸惑っているようだった。

「なに?」
「いや、すげー心臓だと思って」


苦笑しつつ言う彼に、ぼくもまた苦笑で返した。

「別にやましい所があるわけじゃないんだからキミと話したってなんの問題も無いはずだ」

少し声を大きくして言ったのは周囲に聞かせるためだった。

「さすが塔矢アキラ様」
「バカなこと言ってないで集中しろ。キミ、この間負けただろう?」
「勝ったよ!」
「そうか、じゃあ精々今日も負けないように。無様に負けなんかしたら今日の夕飯はキミの奢りだ」


しょうがねえなあと、でもその頃には進藤の表情は少し緩んでいた。

「でもその代わり勝ったらおまえがおれに奢るんだからな」
「―わかったよ」


そして踵を返すと自分の場所にまっすぐに向かう。途中、問題のあの棋士が居て、ぼくの顔をじっと
見ていたけれどぼくは顔を背けなかった。


「さすが最年少天元様は違うな」

ホモ野郎のくせにと、ぼそと聞こえた時に反射的にぼくは相手を蹴っていた。

「――わっ!」

そんなことをされるとも思っていなかったのだろう、派手にひっくりかえったその腹にぼくは足を置い
た。


「なにする――」

そして相手が叫んだ瞬間にゆっくりと体重をかけてやった。

ぼくは標準よりは軽い。それでも大人の体重がかかればかなりなもので、相手はぐえっとカエルのよ
うな声をあげた。


「キミは――ぼくと進藤のことで面白いことを広めてくれたそうじゃないか」

ざわと洗心の間の中にざわめきが起る。

「しっ、知らなっ――」
「キミが知らなくてもぼくは知っている」


ぐいぐいと足先で肋骨を探るようにしてやったら、あからさまに顔が顰められ、それでも尚「知らない」
と言い張った。


「強情だな。でもまあいい。キミが聞いたそれが例え真実であろうと無かろうと、キミには全く関係無い
し、それを面白可笑しく触れ回られる謂われも無い」
「おい、塔矢」


進藤が驚いた顔をして駆けつけてくるのを横目で見ながら更に踏む。

「それはここに居る皆も同じだ。何か言いたいことがあるなら盤上で言えばいい。ぼくらを負かせてそ
れでその時に幾らでも言えばいいじゃないか?」


それも出来ず、正々堂々と正面から言うことも出来ない卑怯者の言うことなどぼくは気にしないと言った
ら足の下の男の顔が真っ赤に染まった。


「何偉そうなこと言ってやがるんだっ! おれは本当に聞いたんだぞ」
「だれに?」


皆まで言わせずに言葉を引き取る。

「誰に何を聞かされたのか知らないが、もしそうだとして、それは人に言っていいようなことだったのか?
 その人は他人に喋っても良いと?―――」


ぐっと相手が黙る。

「そうでないのに喋ったのだったらそれは人として最低の行為だ。ぼくはキミを軽蔑するよ」
「――塔矢、もういい、もうやめろよ」


腕を乱暴に取られて、ぼくは進藤をにらみ据えた。

「キミは―怒るべきだ」
「え?」
「こんな非道い裏切りと侮辱を受けたんだぞ、本来ならキミがこの卑怯者を踏みつけるべきなんだ」
「何したって仕方ないだろ、信用したおれがバカなんだし」
「それでも―」


それでもキミは怒るべきなんだと、言ってぼくは今度は周囲をぐるりと見渡して睨んだ。

「今後―実力も無いのに貶めるためだけにくだらない噂話をするようなら、ぼくはそれが誰でも容赦
しない」


するなら棋士生命をかけるくらいの覚悟で来いと、そう言ったら室内は怖いくらいにしんとなった。


「…とにかく―その足どけろ」

進藤はぼくをじっと見て、それからため息をついてそれから言った。

「幾ら――クズだからって踏んでいいことにはなんないだろ」

それはさっきまでの諦めたような口調とは少し違っていて、ぼくは顔に出さず、にっと笑った。

「こんなヤツに気持ち許したおれが悪いんだし――バカだったよ」

でもバカなりにプライドも大切なものもあるわけで、だから今後また同じようにいらんことを喋ってま
わるようならおれがこいつどうにかすると、ひたと相手を見つめた進藤の顔は真剣だった。


「なあ…塔矢はお上品だから盤上でしか戦わないって言ってるけど、おれは盤外戦でもぜんぜんか
まわないんだぜ?」


もしまたこんなふざけたまねしたら、物理的に二度と打てなくしてやると、そう言った時の進藤は顔に
も声にも凄みがあった。


「そうか―肉体的にはキミが滅ぼして、精神的にはぼくが滅ぼすと」

それはかなりキツイはずだねと、そう微笑みながら言ったら進藤は苦笑した。

「まあ―とにかくそういうことだから」

これからは二度と誰もおれらにかまってくんなよなと、最後の台詞はぼくは彼に黙って譲った。

「おまえも、それでいいよな?」

まだひっくりかえったままの相手に進藤が言う。

「あ……………はははは、はいっ」

人間のあんなに狼狽える様は見たことが無い。青くなったり赤くなったり、救いを求めるように周囲
に目をやっても皆一様に視線を逸らす。


―――――無様だった。

例えようも無いほどに相手は無様で醜かった。


「もう…10時になるね」

手合いが始まると、そうつぶやいた瞬間に開始のブザーが鳴った。

「それじゃ、お互いがんばろう」

言って自分の場所に向かおうとしたのを進藤が一瞬だけ引き止める。

「さんきゅ。おかげで情けなくならずに済んだ」

目ぇ覚めたよと、すぐに離したけれど彼の指先にはぼくたちだけに解る愛情が込められていた。

「―夕飯が楽しみだ」
「だから負けないって」


ばたばたと皆が自分の場所に座る。

ただ一人、無様に転がっている棋士を眺めながら、ぼくはもうこれで大丈夫だと思った。

(ぼくたちはもう大丈夫)

そう、きっと何があってもきっと負けない―――――――。

例えどんな侮辱にもぼくたちは汚されることは無いのだと、誇らしい気持ちになりながらぼくは自分の
戦う場所に向かったのだった。




※ナイフのように切っ先鋭く、二人には生きていって欲しいなと、そういう意味で「ナイフ」です。そしてアキラは狡猾なのでここまで
言っていても言質を取られるようなことは言っていません。敵にまわすと本当に怖いタイプです。ぶるぶる。2006.9.23 しょうこ