籠の鳥




「アキラくんは本当に優秀で先が楽しみですな」

家に来る客は皆口を揃えてそう言う。

「いや、まだまだ…私から見れば赤ん坊と同じです」

皆さん褒めてくださいますが、まだようやく石を置くことを覚えたばかりのひよっこです、どうかあまり
持ち上げませんようにと、ぼくを褒める客に対してはいつも父は同じことを言った。


「己の実力を勘違いして努力を怠るようになっては困りますからな」

この子は確かに私の息子ではありますが、それと碁の実力は別のこと、もし慢心するようであれば
私は我が子でも切り捨てますよと、それはまだぼくがはっきりと言っていることを理解出来ないうち
から父の口から出てきた言葉だった。


驕るなと、愚かに成り下がってはくれるなと、父の親としての願いがこめられていたのだろうと今では
思う。


でも幼い頃には、それはただひたすらに恐ろしいだけだった。


囲碁が強くならなければ見捨てられる。

けれど、もし強くなってもそれを自慢するようであればやはり見捨てられてしまうのだ。



ぼくは父が好きだった。

教わって始めたばかりの囲碁も好きだった。

どちらもぼくにとって大切で失ってはいけないものだった。

だから―――。

そのどちらもを失わないように、それからぼくはずっとずっと、怠るな、けれど驕るなと自分に言い
聞かせて日々を生きてきたのだった。





「んで、おまえはどーすん?」
「え?」
「家だよ、家。おまえ出ないでずっと親と住んでんの?」


それは第二回北斗杯が終わって一ヶ月が過ぎた頃だった。ふらりと碁会所に現われた進藤は
ぼくに「一人暮らしをすることにしたから」と言って、新しい住所を書いたメモをくれた。


「出るんだ、家」
「ん。ずっと前から出たいって思ってたんだけど親が許してくんなくて、でも今回勝ったじゃん?」


あれでやっと認めてもらえたからと、進藤は嬉しそうに言う。

「ちょびっと賞金も入ったしさ、まあ当分は貧乏暮らしだけど、別に金がかかるようなこと何も無
いもんなおれらって」


一人暮らしていくだけだったらなんとかなるからと、確かに機材や衣装を揃えなければいけない
ような職業とは違い、基本的に棋士は身一つあればいい。


碁盤と碁石は既に持っているし、後は見苦しくない服を何着か持っていれば用が足りてしまう。

「でもキミは結構服にお金をかけてるじゃないか」
「それはおまえだろ? おれデパートでなんか買わないもん。外商のナントカさんとかそういう知
り合いがいること自体がブルジョアだよな」
「ブルジョアって…」


本当に意味がわかって言っているのかと言いたくなるけれど、言わんとしていることはわかる。

「ぼくは別に…毎年スーツを新調するくらいで他にはほとんど買わないよ」
「おれなんかもう二年も同じスーツ着てるぜ」
「だったら次に何か収入があった時には新しいのを買った方がいいよ。キミ、背が伸びてきたか
ら少しつんつるてんになってる」


えー? でも別にしょっちゅう着るわけじゃないからいいよと、そんな他愛無い話をしていてふと
進藤が思い出したように言ったのだった。


「でさ…おまえはいつ出んの?」
「え?」
「家、まさか出ないん?」
「ああ…去年は出ようと思っていたけど、でもなんだかお父さんたちが居なくなってしまって事実
上一人暮らしになってしまったから」


あんまり切羽詰まって出たいという気持ちは無くなってしまったのだと言うと進藤はちぇっと舌打
ちをした。


「……なに?」
「いや、おれが借りた同じマンションにさ、まだ一つ空いてる部屋があったからおまえも越して来
ないかなって」
「ぼくが?キミと同じ所へ?」


考えても見ないことだった。

「んー、だってさ、碁会所で打ってても結局家に帰らなくちゃじゃん? おれは引っ越したからそう
いうのあんまり関係無くなったけど、それでも営業時間とかあるし、それにいつ来ても会えるって
わけじゃないしさ」


同じ所に住んでいたら会いたい時に会えて、打ちたい時に打てるじゃんと、言われて気持ちが浮
き足立つのがわかった。


「そうか……そうだね」
「これからおれもおまえもきっともっと忙しくなると思うんだよな、そうしたら近くに住んでてくれた方
がいいなって、あ、もちろんこれはおれの勝手な願望なんだけど」


そんなことは無い、ぼくだって彼が近くに住んでいてくれたならば次はいつ会えるのだろうかと苛
立つ思いで考えなくても済むのだ。


「間取りは?」
「あ、ちょっと乗り気?」
「…まだわからないけど」
「えーと、1DKでさ、でも結構DKが広いからそんな窮屈な感じはしない」
「家賃は?」
「月、五万八千円で――」


その日、ぼくは打つことも忘れて進藤からそのマンションの部屋のことを聞いてしまった。
敷金は幾らで礼金は幾ら、そして駅から何分かかってマンションの周りには何があるのか。


「―良かったら今日この後、物件見がてら遊びに来ねえ?」
「いいの? だったら行かせてもらおうかな」


そして最終的に彼の新しい部屋にまで押しかけて、それからやっと家路についたのだった。


(どうしよう)

帰ってからまず考えたのは、実際に借りることが可能か不可能かということだった。

(金銭的には借りられる)

ぼくには結構貯金があった。それを使って敷金礼金、引っ越し代金を払ってもまだまだ当分間に
合うくらい残金はあった。


その後も生活していけるかどうかということだけれど、たぶん出来るだろうと思う。問題は借りるこ
とを父と母が許してくれるかということだった。


今現在、この家にぼくが留守番として居るから安心して両親は海外に行けているような所がある。

それをぼくが出てしまえば新たに留守番役を探すかどこかの会社と契約して管理してもらわなけ
ればならなくなってくる。


それはお金もかかる上にかなり面倒なことになるはずで、その段階で赦してはもらえないかもしれ
ないとぼくは思った。




『――ダメだ』

案の定、電話をかけて聞いてみた所、最初に言われたのがこの言葉だった。

「でもお父さん、なんとかぼくの収入でも暮らしていけると思うんです」
『私は収入のことなど言っていない。おまえがまだ一人で暮らしていける程成熟していないと言っ
ているんだ』


余程、進藤も一人暮らしを始めたんですと言いたくなってしまった。言いたくは無いが彼とぼくで
ぼくの方が劣っているとはどうしても思えない。


『そもそもなんで急に一人で暮らしたいなどと言い出したんだ』

自由が欲しいと言うならば、今でも充分に自由に暮らさせてやっている。それを今頃そんなことを
言うのは何かきっかけがあったのでは無いかと言われてしまった。


「別に―何も」
『緒方くんに聞いたが、最近進藤くんが一人暮らしを始めたそうじゃないか。おおかたそこら辺が
理由なのではないか』


あっさりと看破されてしまったことにぼくは悔しくて唇を噛んだ。

「確かに彼は一人暮らしを始めましたけれど、それとこれとは―」
『違うと本当に言えるのか? また子どもっぽい競争心で自分も出たいと言っているのではないか』
「違いますっ!」


思わず大声で怒鳴ってしまってからすぐに謝る。

「―すみません。ただこのことは前からずっと考えていたことなので、出来ればお父さんにも考え
ていただきたいんです」


碁打ちとして甘えを捨てるために一人で暮らしてみたいのだと、受話器の向こうの父は黙ってぼく
の話を聞いていたけれど、でも結局「うん」とは言ってはくれなかった。


『第二回北斗杯に優勝したからと言って、それでまさか一人前になったなどと勘違いをしてはいな
いだろうな?』
「そんな――」


していないとはすぐには言えなかった。ぼくの心の中に僅かなれどそういう気持ちが無いでも無
かったからだ。


海外の棋士と戦って勝ちをもぎ取った、それはぼくが成長した証だとそう思っていたからだ。

「そんな―ことはありません―けど」
『とにかく、今は私はおまえの一人暮らしを認めてやるつもりは無い』


もっと精進して大人になってから言って来いと、その言葉にぼくは何も言い返せなかった。


「ごめん、進藤―やっぱりぼくはしばらく引っ越さないことになった」
「えー? なんだよ、おまえ来るかと思って楽しみにしてたのに」
「色々―都合があって…」
「先生にダメって言われたんだろ」


言葉を濁したぼくにズバッと彼は確信を突いて来た。

「…仕方ないだろ、未成年なんだし、部屋を借りるなら保証人が必要なんだから」
「仕方なくなんかない。おまえ覚悟が半端なんだよ」


だからおぼっちゃんなんだとどこか嘲るように言われてカッと頬が赤く染まった。

「ぼくのどこが半端って…」
「そうやって親の顔色伺っている所。おれ、最終的には許してもらったけど、保証人にはじいちゃん
になってもらったんだ」


めっちゃくちゃ反対されて、親父にもばこばこに殴られてもうどうしようも無くなってしまったから、親
では無く、周囲にまず理解してもらうことから始めたのだと進藤はごく真面目な顔で話を続けた。


「それ…いつの話?」
「北斗杯のちょい前くらい。それでそれからずっとおれじいちゃんちで暮らしてて、それで勝てたら
認めてもらうって、なんとかそういう約束取り付けたんだよ」


それもやっとと、進藤はその時のことを思い出したのだろう顔を顰めた。

「随分キツいこと言われたぜ? 出るなら二度と戻って来るなとも言われた」

そうでなくても高校に進学せずに、囲碁棋士などと世間一般的で無い職業に就いただけでも悩みの
種だったのがそれを一人暮らしをすると言うのだから親も素直にうんとは言えなかったのだろう。


「そりゃーもう壮絶な戦いでさ、あれに比べたら北斗杯なんてなんてこと無かった」

肉親って怖いよなと、しみじみとため息まじりに言われてドキリとした。

「おまえは余計にそうなんじゃねーの? 小さい頃から良い子で通ってきちゃってるから逆らって喧嘩
になんの怖いんじゃねえ?」
「そ、そんなことは!」
「絶対に無いって言える?」
「そんなこと―――」


無いとはどうしてもぼくは言えなかった。

「まあ…そういうことも全部おまえが決めることだからおれはいいんだけどさ、でもおまえ見てると時々
苛々する」


そんないつまでも親の言いなりで窮屈じゃないのかと、進藤の言葉は父の言葉よりも痛かった。

「なんて言うかさ、結局おまえファザコンなんだよな。でもいつまでもそんなんだと本当に強くはなれな
いぞ」


一人にならなければ。

困難を一人で解決する力が無ければ結局は親の庇護の元、守られて育てられた雛鳥でしか無いと、
進藤にそこまで言われたことは屈辱だった。




「雛鳥か……」

結局その後言い争いになり、進藤は鼻息も荒く早々に碁会所を出て行ってしまった。

一人取り残されたぼくは、まだ半分も打っていなかった碁盤の上から碁石を拾い、ゆっくりと碁笥の中
に戻した。


(言ってくれる)

悔しかった。

親の言いなりだと、父の顔色ばかり窺っていると言われたことは屈辱で、でもはっきり違うと言い返せ
なかったことが一番悔しかった。


「今日はまた進藤くん派手に怒っていたわねぇ」

一体何で喧嘩していたの?と片付け終わったのを見計らって市河さんが紅茶を入れてきてくれた。

「また囲碁のこと?」
「いえ、今日はぼくのことで」
「アキラくんのこと?」
「進藤が言うにはぼくは苛々するほど良い子で、世間知らずのおぼっちゃんなんだそうです」
「あら――」


市河さんは驚いたような顔をしてぼくを見て、「でも良い子で何が悪いの?」と言ったのだった。

「私、よく覚えているけど、他の棋士の方たちが時たま連れて来るお子さんやお孫さんたちと違って
アキラくんは大声をあげて暴れ回ったりしないし、悪戯もしないし、何よりずっと囲碁が好きで塔矢
先生のおっしゃることもよく守って勉強を続けてきたんじゃないの?」


だからこんなにも早く強くなったのだろうし、確かに真面目すぎるきらいはあるけれど、でもそれのど
こが悪いのだと市河さんは言うのだった。


「もし私に息子が居て、その子がアキラくんみたいだったらもう大満足、百点満点よ」
「……そうですか」
「そう! だから元気出して!」


(確かに悪戯をしたことは無かったな)

市河さんが言うように確かにぼくは他の子のように騒ぎまわったり、駄々をこねると言ったことは
しなかった。


一つには両親が大変躾に厳しかったことと、二つめには無軌道に振る舞うことで父に失望される
ことが怖かったからだった。


実際は多少子どもらしい振る舞いをしたからと言って父も母もぼくに失望したりはしなかったはず
なのだが、でもずっと「してはいけない」という気持ちがぼくにはあった。


子どもらしく騒ぎ、暴れ、我が儘を言う。

駄々をこね、泣きわめき、自分の要求のみを叫び続ける。

怠け、遊ぶということすらもぼくはまともにしたことが無い。その時間があれば碁盤の前に座り、少
しでも囲碁が上達することを目指したからだ。


周りに居たのがほとんど大人ということも悪かったのかもしれない。

ぼくは常に「よい子」であることを自分に課して、鎖のように自分自身を締め上げていった。

(なんだ…本当にぼくは半端なんじゃないか)

そのまま『よい子』を貫くでも無く、かといって逆らうことも出来ない。なるほど進藤が見ていて苛々
すると言うわけである。


「籠の鳥だな……」

僕が『よい子』で居る限り、温かく優しく好意でぼくを包み込んでくれる人の中で、でも今ゆっくりと
息が出来なくなってきている。


「もう……やめてもいい頃だよね」

驕るな、けれど慢心するなと幼い頃に父に言われたあの言葉。

あれからもうぼくは開放されてもいい頃かもしれない。



「あら、アキラくんもう帰るの?」

紅茶を飲み干してカウンターの上に置く。そのまま出口にぼくが向かったので市河さんは驚いたよう
にぼくに聞いてきた。


「進藤くんが帰っちゃったからって、まだもう少し居てくれてもいいでしょう?」

北島さんが、がっかりするわよと言われて苦笑する。

「ちょっとこれから行かなければいけない所が出来てしまって」
「行かなければいけない所?」
「ええ、ちょっと緒方さんの所にお願いごとをしに行くつもりなんです」


簡単に協力してくれるとは思えないけれど、だからこそいいのだという気もしていた。

「それから……進藤にも連絡しないと」
「進藤くんって…さっき怒って出て行っちゃったじゃないの」
「うん、でもどうしても聞きたいことがあるから」
「だったら喧嘩なんかしなければいいのに……」


呆れたように言う市河さんの声を背中に聞きながら、ぼくは携帯を取り出してかけながらそのまま
碁会所を出た。


「あ…進藤? 申し訳ないんだけど、キミが部屋を借りた不動産屋の電話番号を―」

そして用件を済ませると、今度は緒方さんに電話してこれから訪ねてもいいかどうかの承諾を
得た。


「いいんですか? すみません急に伺ってしまって。…え? 何って…それはそちらについてから
お話しします」


そして時間を決めると電話を切ってポケットに入れた。

エレベーターを使わずにゆっくりと降りた階段は、会話の終わりで丁度終わり、とんと外に吐き出
された。


「…眩しい」

もう大分日は短くなってきていたけれど、それでもまだ今この時の空は、青く眩しく輝いていた。

「綺麗だな……」

『まったくもう、おまえ本当の本当にバカじゃねえ? アホで間抜けでトロくて――』

呆れた、でも、ちょっと見直したと言われた言葉が頬の火照りと共に耳に蘇る。

「―――ぼくは自由だ」

もう良い子でもなんでも無い。

これからは誰の望むぼくでも無く、自分の意志で全て決めて生きて行こう。

遠く、高く青い。

見上げた空は本当に美しく、籠から逃げた鳥はきっとこんな気持ちなんだろうなと思いながらぼくは
軽い足取りで飛ぶように駅に向かったのだった。




※この話を書くに当たって都内の賃貸物件を調べてみましたら、わー高ーーーっ(汗)その高さにびっくりしました。
今こんなにするのかーっ(汗)今回、ヒカルが住んでいて、アキラもたぶん住むマンションのある所は過去に自分で部屋を
借りるために不動産屋巡りをした辺りを漠然と考えていたのですがあまりに高く、ほとんどが1Rだったのでもちょっと引っ
込んでみました。(苦笑)


ヒカとアキ(主にヒカ)は部屋代稼ぐために強くならなきゃ(汗汗)…と思った時に、「なんだ二人で住めばもっと安くなるじゃ
ん」ということに気がつくことでしょう。


「言われてみればそうだね」
「そーだよ、取りあえず二部屋ありゃいいんだからさ」
「そうしたら本当にいつでも好きな時に打てるね」
「そーそー、どうせおれもおまえも友達少ないし、訪ねてくるのなんて囲碁関係の知り合いしかいないんだし、おまえだっ
たら気ぃ遣わなくていいし♪」
「いや…出来たら少しは遣ってくれ」


…みたいな感じでしょうか?(笑)

 2006.10.10 しょうこ