殺意




刺された時、進藤は微笑んだように見えた。

何年か前、一人暮らしを始めた時に芦原さんにもらった五本セットの洋包丁。

無意識に握り取ったのは牛刀でステンレス製の刀身は、ほとんどなんの手応えも無いくらいあっさりと
進藤の体に収まってしまった。


「――――――っ」

口論の後、ぼくが側にあった牛刀を握った時、進藤は少し驚いた顔をして、でも逃げなかった。

ただ大きく目を見開いて、でも次の瞬間には仕方無いというように目を伏せて、優しい声で「いいよ」と
言った。


「いいよ、刺して」

おまえの好きなようにしてと、半ば迎え入れるようにぼくに向かって両手を開いた。

その時ぼくたちは二人でシチューなんか作っていて、その鍋が隣で湯気をたてて居るというのにぼくは
衝動を抑えられなかった。


憎くて

憎くて

憎くて

彼が憎くてどうしてもその感情を彼自身に受け止めてもらわずには済ませることが出来なかった。


彼は今日、何気無い顔をして付き合っていた女性に妊娠させてしまったと。だからその女性と結婚する
とぼくに告げたのだった。


「ごめんな。だからもう今日限りおまえとは会わない」

これからはフツーのオヤジになってフツーに家庭を守っていくよと、それはいつか来るかもしれないと予
想していた未来ではあったけれど、いざ来てみるとぼくには耐えられなかった。


「おまえももうおれのことなんか忘れて誰かと幸せになって」

そう言われた時、麻痺していたかのような体に一気に血が巡った。

―なんてことを

なんて惨いことをこの男は言うのだろうかと。

ぼくは一か百しか無い。

キミを愛してしまった今、失うことは死にも等しい。なのにそんなにあっさりと他の誰かを愛せと言うのだ
から。


「ぼくは…キミしか愛せないよ」

表面、平静に返しながらぼくの心は信じられないような闇に居た。

「そんなこと無い。そう思いこんでるだけだ。おまえだっておまえの親がそうだったみたいに幸せな温かい
家庭を作ることが出来るんだ」


おれと居ては永遠に叶わないそれを手に入れることが出来るんだと、でもぼくはそんなものは欲しくは無
かった。


ただ彼だけが。

彼だけが欲しかった。


「愛しているのか?」
「え?」
「その…相手の人」
「嫌いじゃないよ」


ぼくの問いに進藤はさらりと答えた。

「特別に好きって程では無いけどさ、側に居て苦痛になるほどじゃない」
「ほどじゃないって…なんでそんな人と…」
「誰でも良かったんだ。遊びのつもりだったから」



非道い男だ。本当に非道い男だと思った。

「好きじゃなくても一緒に暮らすことは出来る。好きじゃなくてもそういうふりをすることは出来るよ。おれ…
そういうの得意だし」


言葉に含まれた何かがぼくの何かに触れた。

「それは…どういう…」
「別に深い意味なんか無い」
「まさか…ぼくのことも…」


打ち明けたのはぼくの方が先だった。彼が好きだと、どうしようも無い程好きだと告白したのはぼくの方だ
ったのだ。


「進藤…」
「ん?」
「…キミはぼくを好きか?」


今まで何百回と無く「好き」だと返してもらっていたと言うのに、尋ねた時ぼくは足が震える程恐ろしかった。

今まで大切に守ってきた何かが壊れる、そんな予感があったからだ。


「進藤!」
「…嫌いじゃないよ」


その言葉を聞いた瞬間、ぼくの中で何かが切れた。

愛している。

裏切られた。

憎い。

でも愛している。

けれどそもそも、その愛自体がまやかしだったのだとしたら――。


気がついた時、ぼくはナイフラックから牛刀を握り取り、彼に向かって突き出していた。

憎くて、憎くて、溢れ出したその感情を体の内に納めることが出来なくてそれを進藤に叩きつけずには居ら
れなかったのだ。



あっと、本当にそれは一瞬だった。

牛の骨まで切ることが出来るよく研がれた刃は、人の皮膚など簡単に突き破り、バターでも刺すかのよう
になんの抵抗も無く埋もれていった。


思ったより血は流れなくて、でも柄を伝って一筋ぼくの腕にも伝わった。

彼の血はとても温かかった。

「…………っ」

反動でシンクの縁にぶつかった後、進藤はゆっくりとくずれるように床に倒れた。

倒れたそこから静かに血溜まりが広がっていくのが不思議でぼくはしばらく呆然としたように立ちつくして
しまった。


「―――――や」

正気に返ったのは彼がぼくの名を呼んだからで、瞬間怯んで逃げようとしたら足首を掴まれた。

「って―」

刺された人間とは思えない程それは強い力だった。

「進藤―」
「塔…矢」


青白く、血の気が失せていく顔で進藤はぼくを見上げた。責める言葉を待ちかまえた時、進藤の唇が微か
に持ち上がり、それは微笑みの形になった。


「…うれしい」
「えっ?」
「…こんなにおまえに想われて、おれ、幸せだ」


彼の口から飛び出したのは思いもしなかったことだった。

「進藤?」
「おまえが…こんなにおれのこと…好きで居てくれたなんて」


すごく嬉しい。すごく幸せだと、進藤はかすれる声で繰り返した。

「嫌いじゃないなんて…嘘だよ」

大好きだよと言われて、ようやくぼくは刺した時の情景を思い出した。

彼は笑っていた。

刃物を突き出すぼくに向かって優しく微笑み、迎え入れるようにその腕を開いていたのだ。

「進藤…」

ゆっくりと足下まで彼の血が広がってくる。

床を汚すその温かい液はぼくのつま先を浸し、更に踵までを飲み込んだ。

ぬるりとしたその感触の中、段々と青ざめていく進藤をぼくはただ見下ろすことしか出来なかった。

「おまえしかいらない。おまえしか欲しく無い」

おまえを愛してるよと、すうと大きく一呼吸した後に進藤は言った。

「永遠におまえだけ…愛してる」

そして目を閉じるともう二度と動かなくなった。

「進藤?」

呼んでも返事は返らない。

すっかり血の気の無くなった横顔は既にもう生きている人のそれでは無くなっていた。

「進藤……」

ぼくはへたりこむようにその場に座り込んだ。

彼の体はもう冷たくなりかかっているというのに、彼の流した血はまだ温かかった。

「ぼくが…殺した」

彼を殺した。

愛する人をこの手で刺した。

それはたまらなく恐ろしいことだったけれど、ぞっとしつつぼくは到達した後のような甘い疼きを体に
感じてもいた。


「これでもう…キミはぼくのものだ」

これでもうぼくだけのものになったのだと、それは押さえきれない程の歓喜だった。

ぼくは。

ぼくは。

ぼくは…永遠に彼を手に入れた。

にじるようにすり寄って、改めて彼を見下ろすと、ぼくは彼の腹から突き出ている牛刀の柄を握り、
引き抜いた。


刺した時はほとんど手応えすら無かったのに、かなりの力を込めなければ抜くことは出来なかっ
た。


それはこれからしようとしていることを進藤が引き止めているかのようで、物言わぬ骸となった彼
をぼくは苦笑しつつ見下ろした。


「…こんなことになっても、キミはまだぼくを心配するんだ」

キミはバカだよ。バカでとても愛しいよと呟きつつぼくは持替えると、彼の血に濡れた刃を自分に
向けて突き立てた。


「愛してるよ、進藤。愛してる」

彼の体に覆い被さるように崩れながら、ぼくは無上の幸せに酔った。

もうこれで、引き離されることも無く、誰に奪われることも無くなったのだ――。







「なにおまえ今日、ずっとそんなぶすったれた顔してんの?」

一局打った後、石を碁笥に戻しながら進藤が目を上げてぼくを見た。

「なーんかさー、今日は機嫌悪いよな、おまえ。やっぱいきなり来たのマズかった?」
「別に…そういうわけじゃないけど」


ざらと、白石を戻しながらぼくは彼を見た。夕べ遅くに泊りに来て、ぼくを抱いた後、つい今し方まで
眠っていた。


起きたかと思ったら腹が減っただのなんだのひとしきり騒ぎ、食べたら今度は打つと言う。

この最後の打つは、自分が打ちたいからというのはもちろんだけれど、ぼくの機嫌を取っているの
だということは付き合いが長いのでよくわかっていた。


「夕べはどこに行っていたんだ」
「んー?雑誌の取材。そんでその後はごちそーしてくれるって言うんで六本木に行った」


こういうぼかした言い方をする時はほぼ間違いなく相手は女性で、しかも仕事というよりはプライベ
ート色が強い食事だったのだということがこれもまた長い付き合いでわかっている。


「随分遅い夕食だな」
「食った後に飲んだから。ほら、ヒルズの地下にアイリッシュバーがあるだろ?そこ行ったんだよ」
「へえ…」


薄暗い店のカウンターで、顔をつきあわせるようにして何時間飲んで来たのだと言いたくて、でも飲み
込んだ。


彼はぼくに嫉妬させるためにわざと意味深なことを言ったりするので易々とそれに乗るようなことはし
たくなかったのだ。


「あ、もしかしてそれで機嫌が悪い? 妬いてる?」

案の定にこにこと尋ねてくるので、碁盤で殴ってやろうかと考えつつ素っ気なく答えた。

「違うよ、夕べ嫌な夢を見たからそれで気分が悪いだけだ」
「なーんだ、夢かあ」


あからさまにがっかりした顔をして、それから進藤は興味が出てきたらしくぼくに迫って来た。

「なあなあ、どんな夢? おれとリーグ戦で当たって負ける夢?」
「違うよ」


ああ、どうしてこう、子どもじみてバカでそのくせ残酷なこんな男をこんなにも好きなんだろうか?

「なんだよう、気になるじゃん、教えろよ」
「そんなに聞きたいのか?」


本当に気分の良い夢では無いのだけれど、そこまで聞きたがるなら言ってやってもいい。

「浮気したキミに腹を立てて、メッタ刺しにする夢を見た」

しーんと、気味が悪いくらい静かになった。

「キッチンのナイフラックに牛刀があるだろう? あれでキミを刺した。辺りは血の海だったよ」
「へえ……」
「どうだ? 嫌な夢だろう」


牽制になったか?それとも引いただろうかと思いつつ彼を見やると、進藤は半ば呆けたような顔をし
ていて、でもすぐに血が巡ったかのように頬に赤味が差した。


「怖くなった?」
「まさか!」


即座に返事が返った。

「なんで…? そんな、嬉しいよおれ」

進藤の答えはぼくの予想外のものだった。

「嬉しい? 刺されたのに?」
「だってそれってさ、そんだけ想われてるってことだもん」


刺される程おまえに愛されたなら幸せだと、碁盤の向こうで彼は言うのだった。

「進藤…」
「だからいいよ。もし、もし万一おれがおまえを裏切ったりしたら」


その時はおまえの気持ちの全てでおれを刺してよと、非道く物騒なことを進藤は明るく言う。

「なんかそういうのって、究極の愛って感じだよな」
「そんないいものじゃ―――」



部屋の床に広がっていった赤い染みをまだぼくは思い出せる。

彼の体に飲み込まれた刃から伝わった、血の熱さも思い出せる。

絶望と幸福が入り交じったあの感覚がゆっくりと体に蘇り、それはぼくを静かに興奮させた。



もう誰にも奪われない。

永遠に自分だけのものになったのだと、あれは倒錯していたかもしれないけれど確かに強
い快感だったかもしれない。


「そうだね…しかしたらそうかもしれない」
「だろ?」


身を乗り出して碁盤を越えると、進藤はぼくの頭を引き寄せてそっとキスをした。

「おれ、マジでそこまでおまえに愛して欲しい」
「…愛してるよ」
「もっとだよ。もっと、もっと、もっと、もっとおれのこと好きになって」
「好きだよ…誰にも渡せない程にね」


本当に浮気なんかされたら殺してしまうかもしれないと、言ったら進藤は嬉しそうに笑った。

「うん。いいよ、殺して」

それくらいおれを、おれだけを愛してよと、幸せそうに笑うその顔は、夢で見た彼の笑顔にそっく
りで、ぼくは切なさに胸が痛むのを覚えたのだった。




※殺意とタイトル物騒ですが、落ち着いて読むとただのいちゃつき話です。「浮気したら殺すよ」「わーい殺して殺して♪」
バカっぷる降臨です 2005.11.7 しょうこ