それぞれの道




雪の降る遠い場所から進藤が電話をかけてきた。


『あ、起きてた? もしこれで起こしちゃったのならごめんだけど…』
「いや、起きていたよ」


キミから電話がかかってくるような気がしてと言ったら彼は笑った。


『ちぇっ、なんだお見通し?』
「そうでも無い。正直に言えばかかってくればいいなって思って待っていた」
『なんだそうか』


そうなら最初から素直に言えと、笑う声は嬉しそうな響きになる。


「そちらはどうなんだ、寒いんじゃないのか?」
『寒い寒い、雪降ってる』
「積もっているのか?」
『んー、二、三pだけど、明日までにはもっと積もるって旅館の人言ってたなあ』
「そうか、なるべく体を冷やさないようにして温かくして寝ろ」
『ってまだ切るなよ、おれもう少しお前と話がしたいから』



電話の向こう、彼の周辺からは音らしい音が何もしない。

電話をかけるためにテレビも消してしまったのだろう。しんと耳が痛くなるようなそんな
静けさの中から彼の声だけが響いてくるのは何か不思議な気持ちにさせられた。



「今日、どうだった?」
『なんだ、見てねーの?』
「見たよ。でもキミの口から直接聞きたい」
『んー…ちょっとしんどい局面かな。でもまだこれからだから』
「…そうか」


タイトル戦の決勝はいつも大抵都内では無く、地方の旅館やホテルで数日かけて行わ
れる。


真冬の雪の日の対局というものは通常あまり無いものだが、今年12月のこの棋戦では
雪が早かったのだろう、もう降っているというのだった。


(寒そうだ)

朝、新聞を読んでいて天気予報を見て、今自分が居る東京からかけ離れた場所の天気
に、彼を思いだした。


ああ、彼は今ここに居るのだと、天気予報の雪のマークに驚き、それから冷えるだろうな
とその身を心配した。


ほんの少しでも負担になるような事柄が起こらなければいいと、でもそう願っていたぼくの
耳にあっけらかんとした声が響いた。



『雪だるまでも作ろうかなあ』
「え?」


思いがけない言葉に一瞬聞き間違いかと思った。

『まだこれくらいじゃ作れないけど、明日起きてたくさん積もってたら雪だるまを作ろうかな
あって』


かまくらでもなんでもいいから作りたいと、言う言葉にバカと叱るより笑ってしまった。


「作ってもいいけど、それなら勝った後にしろ」
『えー?』
「打つ前に体を冷やすなんてバカのすることだ。体調を崩したらどうするつもりだ」
『でも折角の雪、勿体ねーじゃん』
「だったら精々さっさと勝ってぼくに文句を言われずに好きなだけ雪遊びをすればいいよ」
『わかったそーする』


あっさりと、脳天気と言える程の軽さで彼はそう言ったけれど、タイトルの獲得を甘く見て
いるわけではないことは誰よりもぼくが知っている。


『あのさー』
「なんだ?」
『勝ったらマジで雪だるま作ってもいいと思う?』
「いいよ、他の誰がダメだって言ってもこのぼくが許す」



好きなだけなんでも作れと、それは心からの言葉だった。


長い時間をかけて、体力も精神力も削いでタイトル戦にこぎつけたのだ、勝利の後に何を
したって誰に文句が言えるだろうか。


『じゃあ…おまえの雪だるまにしようかな』
「ええっ?」
『おまえに似た美人の雪だるまと、おれ似の男前の雪だるま両方作る』


そんでもってそれを旅館の前に並べて写真撮ってケータイで送るからと、それがおれの勝
利報告だと言われて、彼らしいと思った。


「期待して待ってるよ」
『それどっち?』
「両方」


いや、もっとかなと言ったら電話の向こうの彼は不審そうな声になった。

『もっとって?』
「雪だるまと勝利報告と、それから美味しい地酒。それで許してやる」
『許すって?』
「こんな遠くでぼくに焼け付くような嫉妬をさせていることだよ」
『嫉妬って……相手緒方せんせーだぜ?』
「誰だっていい。とにかくこんな必死の戦いをぼく以外としていること自体が罪なんだ」



悔しくて妬けて腹が立つと言ったら進藤は一瞬黙ってそれから電話の向こうで爆笑した。


『欲深い』

おまえ欲深いよと、でもひとしきり笑った後、真面目な声になった。

『来年はおまえと』
「うん」
『絶対におまえとここでこうして打ちたい』
「――うん」
『そうしたら朝、二人で一緒に雪だるまも作れるしな』


ホルダーと挑戦者二人が朝から仲良く雪だるまを作っている所を想像してぼくもまた笑って
しまった。


「バカみたいだと笑われるかな」
『まあな』
「でも楽しそうだ」
『うん』
「来年はそう出来るように頑張るよ」
『そうして』


おれも、だから明日頑張るからと、そして他愛ない話をして、ようやくぼくたちは電話を切
った。


しんと静まりかえってしまった部屋の空気は、一瞬、彼の居る雪深い場所を思い出させた。

きっとこんなふうに一人静かに。

指先から凍り付くような寒さの中で彼もまた微笑んで携帯を握っている。

「がんばれ…進藤」

ぼくが来年キミを倒すから。だからどうかキミも負けないように。

来年も再来年もそのまた先も僕たちは戦っていく。


ずっと先の心弾むような戦いを夢に描いて幸福に酔い、けれど居られない明日には焼ける
ように嫉妬しながら、ぼくは遠く離れた場所に居る彼に「勝て」とつぶやいたのだった。




※昨年中に書いていた話なのでちょっとばかし季節がズレてますが(汗)
書いていて、あー私はやっぱりこういう二人が好きだなあと改めて思ったりしました。碁を打っていて
常に戦っている。そんな二人が私は一番好きです。死ぬまでずっと打っていくんだろうなあ。


何よりも碁が一番、そんな二人であってほしい。 2007.2.10 しょうこ