鼓動
唐突に闇が落ちた。
ちょうど少し前に行われたNEC杯の決勝の検討を皆でしている所で、だから一瞬
皆凍ったように止まってしまった。
「だからここは中央を守るべきだったのが欲を出して左下にも伸ばそうとしたから
白に切られ―」
熱を帯びた声で進藤が言いかけた時にふっと手元が暗くなり、目眩かと思ったら
辺り一面全てが闇になったのだ。
「わ、なんだなんだ」
そう広いとは言えない六畳一間のアパート。そこに男六人が顔を突き合わせて話
をしていた。
それがいきなり視界を奪われて、一気に空間が広がったような気がした。
「停電だよ、停電。おい和谷、懐中電灯無いんかよ、おまえんとこ」
ぶっきらぼうな進藤の声に目の前でゆらりと人が立つ気配がある。
「あるよ! あるけどさぁ………どっこに置いたかなあ」
「おい、頼りないな。これじゃぶつかりそうでうっかり動けないじゃないか」
ぼやくように言うのは門脇さん。
じっと動かないけれど呼吸の音が静かに聞こえてくるのはたぶん越智くんで、もしか
したら彼が一番落ち着いているのかもしれない。
「あーっ、もう一番ノってた時に!」
週に一度の和谷くんの家での研究会。たまには顔を出せよと連れてこられたそこは
今までぼくが通っていた研究会とは明らかに雰囲気が違った。
ぶっきらぼうで洗練されてはいなくて、でもどこよりも熱がある。
皆、年が若いということもあるけれど、上に這い上がりたいという気持ちが一番強い
研究会かもしれないと思った。
「でも、停電なんて珍しいね。最近停電しても数秒で明かりが点くのがほとんどなの
に」
沈黙も気詰まりでぼくが言うと、色々物にぶつかりながらなんとか玄関辺りまで行っ
たらしい和谷くんの声が振り返るように響いて来た。
「なーんかわからないけど、でも前にも一度あったぜ、あれは夏だったかな。雷が何
ヶ所かの変電所に落ちて何時間も真っ暗だった」
「ああ、そういやそんなのあったな」
「まさか今日もそうじゃないでしょうね」
そうだったらとても検討などは出来ない。
それどころかたぶん電車も止まってしまっているはずだから家に帰ることも出来ない
のではないかと、とうに夜9時を過ぎているはずの時間に皆がふっと口を閉ざす。
「……最悪、真っ暗闇の中、碁盤を囲んで男六人で雑魚寝?」
「うわあ、奈瀬の一人でもいりゃまだしも、それしょっぱすぎ!」
「ってそれモロセクハラ。あいついたらぶっ飛ばされるぜ」
誰かが何かを言えば誰かが混ぜ返す。
軽口の応酬を繰り返している間も和谷くん一人はいつまでもごそごそとあるはずの懐
中電灯を探していた。
「まーったく…まいるよなあ」
ぼそぼそとぼやく声が響く中、ふとぼくは床についた手の先に温もりを感じてびくりとし
た。
つんと指先を誰かの指が確かめるように突いて、それからゆっくりと包むように重ねて
来た。
「し…」
手の伸びて来た方向からしてそれは進藤に違い無いのでそう尋ねようとしたら、驚くほ
ど近い耳元に『しっ』と微かに囁かれた。
『黙って』
辺りは深い闇だった。目は少し慣れてぼんやりと物の輪郭は見えて来たけれど、それで
も窓の外からも明かりが入って来ない状況で見えるものはとろりと流した墨のような空気
ばかりだった。
その中で進藤は密やかに手を伸ばして来るとぼくの手にその手を重ね、それからゆっく
りと握ったのだった。
『このまま…しばらく』
握っていさせてと、彼の声は本当に小さく、聞き間違えではないかと思う程だったので相変
わらず喋り続けている皆の耳には聞こえないようだった。
とくとくと、指を伝って彼の脈がぼくの肌にも伝わってくる。
『進藤…キミは一体…』
こんな闇の中で、周りに人がたくさん居る中で、どうしていきなりこんなことをしてくるのだと
聞きたくて、でも聞けなかった。
息苦しい。
握られた指の先から熱が這い上がってくるようで、闇の中、少しずつ自分の呼吸が乱れて
くるのがよくわかる。
(こんな…ただ手を握っているだけなのに…)
何故それがこんなにもむずがゆくなるような、焦れるようなそんな気持ちをもたらすのだろ
うか。
(嫌だ)
こんなのは変だ。男同士でこんな中で密かに手を握り合っているなんてと、引こうとしたら
逆にぎゅっと強く握られてしまった。
逃げられない。
『逃がさねーよ』
耳元にダメ押しで囁かれ、カッとぼくの頬は赤く熱く染まった。
苦しい。
苦しい。
苦しい。
苦しい。
けれど、でも、どうしてこんなにも甘く切ないのか。
そう思った瞬間に和谷くんの声がふいに聞こえた。
「なあ、塔矢とか家に連絡しないでいいん?」
「あ…別に誰も家にはいないから」
連絡する必要は無いと、ぼくが答えると声は他の皆に同じことを順繰りに尋ねてまわっ
た。
「で、進藤も別にかまわないんだよな?」
「うん、おれもへーき、遅くなるのなんかしょっちゅうだし、帰らなかったら帰らなかったで
また泊まりだって思うだけだよ」
そっか、じゃあ今日はこのまま合宿かもなあと、しょっぱいしょっぱい合宿だぜとおどけた
ように言った瞬間、唐突にぱっと明かりが点いた。
消えた時と同じくに、それはあまりに唐突だったので、暗がりに慣れた目はしばらくの間
まともに物を見ることが出来なかった。
「――――――っ、直ったか?」
「まぶしー、目ぇつぶれる」
まぶしさに目をしばたかせ、それからはっと気がついて手を見たら、そこにもう進藤の手
は無かった。
剥き出しの木の床にただぼくの指が置かれているだけで、進藤の手はずっと離れた碁盤
の手前にそっと置かれている。
まるでぼくの指など握りもしなかったと言いたげな風情に何故か非道く傷ついたような気持
ちになった。
あれは、ぼくの勘違いだったのでは無いか。
闇の中、自分に都合の良い妄想を見ただけでは無いのかと、耳に吹き込まれた声さえも
照らされた明かりの下ではもう怪しい。
「しっかし、結構長い停電だったよなあ」
くるり振り返り、何事も無かったかのようにぼくに話しかけるその顔も憎らしかった。
「このままマジで泊まりになるかと思った」
「良かったよ、そうならなくて」
思わず憎まれ口が出るぐらいぼくは彼に腹を立てていたらしい。
「ま、とにかく検討の続きしようぜ、続き」
「そうだな。それから区切りついたらメシ食いに行ってそれからそこで解散かな」
「合宿になっても面白かったかもしれないですけどね」
「冗談じゃねーよ、おれは嫌だね」
その後はごく普通に検討をして、結局12時少し前にぼくたちは駅で解散になった。
「そんじゃまた来週」
「塔矢もまた良かったら来いよ」
JRが三人、地下鉄が一人、バスが一人にタクシーが一人。ぼくは一人地下鉄で帰るはず
だったのだけれど、皆と別れてすぐに足音が追って来るのに気がついた。
「待てよ、塔矢」
意地になって振り返らずにいたのを地下鉄の通路の途中で追いつかれてしまった。
「一緒に帰ろうぜ」
「キミはJRだろう、なんでこっちに来たんだ」
地下鉄でも帰れないことは無いけれど、彼の家に帰るにはJRで行く方がずっと早く楽に帰
れるはずなのだ。
「んー? いや、別になんでってことはないんだけどさ」
言いながらいつのまにかちゃっかりとぼくの隣に並び、それから呆れる程自然にぼくの手に
手を寄せて来た。
「せっかく久しぶりに会ったんだから一緒に帰りたいなって」
そして言いながら包み込むようにしてぼくの指をその長い指で握り取る。
一体彼の手はいつの間にこんなに大きくなったのか。
初めて会った時には碁石すらまともに持てないようなたどたどしい子どもの指だったというの
に。
「―――やっぱ、気持ちイイ」
「え?」
「おまえの手って、こうして触るすごく気持ちイイんだよ」
ずっと握っていたいくらいと言われて再び頬が熱くなった。
「物好き―」
「物好きだもん、おれ」
なあ、だからこのままおまえんちに行って、さっき暗闇の中で出来なかったことの続きをしても
いいかと言われて思わず足が止まりかけた。
「出来なかったことって―」
「んー? まあ色々」
でも最初はちゅーからかなと、なんでもないことのようにさらりと言う。
「冗談じゃない」
「じゃあ、手ぇ離す? おれ皆と一緒にやっぱJRで帰るかな」
「――――嫌だ」
ああ悔しい。絶対にこんなこと言いたくないのに口が勝手に動いてしまった。
「でも…キミは大丈夫なのか? ご両親が心配するんじゃ…」
「心配しねーよ、さっき言ったじゃん」
おまえこそおれが押しかけて行っても平気? と今更ながら尋ねるのに余程ダメだよ、実は両親
が帰って来ているんだと無駄な抵抗をしそうになって、でもやめる。
「…大丈夫だよ、さっき言ったじゃないか」
「じゃあ問題無いな」
にこっと笑って更に一層ぼくの手を強く強く握る。
こんな夜とはいえ、人の通りもある地下鉄の通路で。
でもぼくは振り解く気もさらさら無く、さっきの暗闇の中でそうして居たように顔を真っ赤に染めなが
ら、苦しい呼吸で彼の手をそっと思いを込めて握りかえしたのだった。
※機を見るのが上手い、それを逃さない男なんでしょう、ヒカルは。大変狡くそしてたらしです。アキラ限定で(笑)
そしてそれを悔しいと思いつつ抵抗出来ないのがアキラなんでした(笑) 2007.5.23 しょうこ