感傷




台所の流しの下を掃除していたら、奥から幾つもの梅酒の瓶が出て来た。

そういえば毎年母親が梅干しと一緒に漬けていたっけなと思い出し、一番古い瓶の封を
開けてグラスに注ぐ。


とろりとした琥珀色の液体をミネラルウォーターで割って、氷を浮かべて飲んだら美味し
かった。



「何? 美味そうなもん飲んでんじゃん」

そのまま縁側に向い、腰掛けながら飲んでいたら、玄関から回って来たのだろう進藤が
汗を拭きながらぼくの手元を見た。


「それ酒だろ、不良〜」

若先生は親が居ない所では堂々と昼酒やってるのかと、笑いながら言われて軽く睨む。

「別にいいだろう。今日は休日だし、ぼくはもう大人だし」

片付けの合間に一息ついて何が悪いと言ったら、進藤は「悪くない」と言ってぼくの隣に
座った。


そして子どものようにぶらんと足を揺らす。


「おれもそれ、飲みたいな」
「梅酒だよ?」
「うん、結構好き。家でも毎年母親が漬けててさ」


甘いから子どもの頃からよくこっそり盗み飲みしたと言うのを聞いて苦笑する。

「キミの方が不良じゃないか」
「でもこんなふうに堂々とは飲まなかったぜ?」
「だって…だからぼくはもう成人だから」


何の支障も無いだろうと言ったら進藤は、確かにと足元に揺れる自分の影を見つめな
がら言った。


「飲みたいな、それ」
「いいよ。たくさんあるし」



両親が家を留守にするようになる前は常に人が出入りしていた。

父の弟子や棋士仲間。記者や懇意になっている会社の社長や後援会の人々。

それらの人に振る舞うために毎年造られた梅酒は、もうほとんど人の来ない家では無
くなることは無く、貯まる一方だった。



「父も母もそんなに飲まないし、ぼくもそんなに飲まないのにね」

それでもこの時期帰ってくると、決まって母は梅酒を造るんだよと、皆で食卓を囲みな
がら最後に夕涼みも兼ねて一杯飲んだゆっくりとした時間を思い出して微笑む。


「なんかいいな、そういうの」
「うん」
「そんな話聞いたら益々飲みたくなった」
「じゃあ、すぐ持ってくるから待ってて―」


言いかけて立ち上がろうとしたぼくの肩を進藤が押しとどめる。そしてあっと思う間も無
く顔が近づいて来たかと思ったら唇が重なっていた。


「キミはすぐ、こういう―」

例え人目が無いにしろ、昼間にこういう場所ではやめろと言いかけるのに「美味い」と
笑う。


「…美味しいだろう」
「うん、なんかすごく味が濃いって言うか、まろみがある」
「十年ものだからね」


微笑みながら持っていたグラスを手渡す。

「…十年」
「キミとぼくが出会った頃に仕込まれたものだよ」
「ふうん…そうか」


だから美味いのかと、しみじみとグラスの中を覗いた進藤は、揺らして氷をからりと回
した。


「夏の味だな…」
「うん、夏の味だ」


期せずして同時に顔を上げて庭を見る。

まだ初夏という季節だけれど、緑は濃く、空はくっきりと青かった。

「飲むだろう? 持ってくるから」

まだ肩にかかったままの彼の手を外し立ち上がる。

畳を踏んで台所に向かうぼくの背に、進藤が身を乗り出すようにして言った。

「おまえ造れよ」
「え?」
「今年はおまえが梅酒を漬けろ」


そしてまた10年後に一緒に飲もうぜと言われたぼくは、瞬時にその光景を脳裏に思
い描いた。



同じように暑く、同じように日に照らされた縁側。

濃く、くっきりとした景色の中に、今と全く同じようにぼくと彼が並んで座っている。

「なあ、いいだろ」
「どうしようかな」


それはきっとどんなにか幸せな光景だろうか。

切ないような泣きたいような、けれどたまらない程の喜びに満たされながら、でもぼくは
素っ気なく、「キミが手伝ってくれたらね」とだけ返したのだった。




※我が家には酒飲みがいないというのに、何故か梅酒の瓶が幾つもあります。一番多い時には6つくらいあったかな?
ちびりちびりと飲んで減らしましたが、↑の話のように十年ものもあります。なんとなく青梅が出始める季節には梅酒を
造りたくなるんですよね。そういえば私の母が死ぬ前に漬けた梅干しも結構長い間家にありました。
ということでたかが梅、されど梅。色々な思い出も漬け込まれるんじゃないかなと思って。
2007.7.13 しょうこ