ピアノ
開け放った窓からは涼しい秋の風が吹き込んでいた。
四角く切り取られた窓の向こう、レースのカーテン越しに見える空の青さは真夏のそれとは
まるっきり違い、高く清んで目に心地よい。
「気持ちイイ」
畳の上に寝そべりながらヒカルは口の端を持ち上げて笑うと、それからぽつりと幸せそうに
言った。
「なんか、すげー気持ちイイ」
「うん、そうだね。…気持ち良いね」
傍らに寝ころんで同じように窓の向こうを眺めていたアキラがやはり幸せそうに微笑みなが
ら言った。
「涼しいし、静かだし」
今日は何の予定も無いし、まるで天国みたいだと言って静かに目を閉じる。
だらしなく投げ出された手の先には緩く結ばれたヒカルの手があり、二人はもうかれこれ一
時間以上もそうやって過ごしていたのだった。
「なんかもうこのまま寝ちゃいそう」
「いいよ、寝ても。ぼくも寝るし」
「んー、でもなんかそれも勿体ないじゃん?」
ただ寝っ転がっているだけなのに何が勿体無いのだと、もし他に第三者が居たなら言った
かもしれないが、ヒカルの言いたいことはアキラにもよく分かった。
確かに何もしていない。ただ寝っ転がっているだけ。
けれどその静かな時間が何物にも代え難いくらい心地よく幸せだったのだ。
「このまま時間が止っちゃえばいいのに」
「そうだね、本当にそうなってしまってもいいかもしれない」
いつもの休日、いつものようにアキラの家を訪ね一局打って、その後何気なくヒカルが寝そ
べった。行儀悪いと苦笑したアキラもヒカルがあまりに気持ち良さそうな顔をしているので、
つられるように横になったのだ。
そしてそのまま起きられなくなってしまった。
手を繋いだままゆるり過ぎて行く、この時間を終わらせることがどちらも出来なくなってしま
ったのだ。
「…腹減った?」
「いや、キミは?」
「減ったかも。でもまだそんなんじゃない」
途中何度も手を離す機会はあった。でもヒカルもアキラも自分から離すのが嫌だったのだ。
「本当に静かだなあ…」
「ここは住宅地だし、車通りもそんなに無いから」
時折遠くから車が走り去る音が聞こえて来る。
一瞬だけ聞こえる通りがかった人の笑い声。どこかの家でたどたどしくピアノを弾く音も聞
こえて来て、その旋律を耳で追うのも楽しかった。
でもそれらは皆、遙か彼方から聞こえてくるようで、今自分達の居る世界とは隔絶された
別の世界の音のようだった。
「このまま夜までこうしているん?」
「嫌だったらキミが離せばいい」
「嫌だ、離すんならおまえが離せよ」
「ぼくは嫌だって言ったじゃないか」
青い空の真ん中をヘリコプターが横切って行った。その騒音で少しだけ現実に引き戻され
たけれど、それでも手は離さなかった。
「…このままずっと、こうして居られたらいいのに」
「……うん」
現実に在る様々なこと、考えねばならぬこと、切ることが出来ない様々なしがらみ。
それらの物から切り離されてこうして永遠に二人だけの世界に居られたらそれはどんなに
幸せだろうか。
「塔矢、おれさ―」
「なに?」
「うん…おれ……」
空を見たままヒカルが何か言いかけた。
「何? 進藤」
「んー…やっぱやめた」
口で言うと滅茶恥ずかしいと、でもヒカルが何を言いたかったのかアキラにはなんとなくわ
かったような気がした。
「いいよ口で言ってくれなくても」
たぶんぼくも同じ気持ちだからと、微笑んだその顔にヒカルは空いたもう一方の手で触れ
た。そしてそのまま引き寄せようとした瞬間に玄関のチャイムが鳴ったのだった。
はっと、正気に返ったように二人同時に起きあがる。
しっかりと握っていた手は同時に離れ、アキラは小走りに廊下を走ると来客を確かめに行
った。
「…宅配便だった」
しばらくして戻って来たアキラはデパートの包装紙に包まれた箱をヒカルに見せると苦笑し
たように言った。
「何? 食いもん?」
「うん。親戚から……メロンだって。食べたい?」
「メロン好き! 食いたい」
「じゃあ冷やして来るよ」
行きかけたアキラの腕をヒカルがふいに掴む。
「何?」
「…離れちゃったなと思って」
少しだけ寂しそうに言うのにアキラもまた寂しさの滲む声で返す。
「でも…いつかは離さなくちゃいけなかったし」
宅配便が来てちょうど良かったんじゃないかなと、言う声にヒカルは一瞬黙り、けれど前より
も強くアキラの腕を握りしめて言ったのだった。
「本当に? 本当にそう思ってる?」
「――――まさか」
本当はもっとずっとキミと繋がっていたかったよと、返された言葉にヒカルはやっと笑顔にな
った。
「おれも――おれもおまえと繋がっていたかった」
だからまた繋がろうと、言う言葉にアキラは微笑んだ。
「また…手を繋いで寝転がる?」
「いや、今度はもっと別な所でおまえと繋がりたい」
だからそのメロン冷蔵庫に入れたらすぐに戻って来てと、そしてついでに玄関の鍵もしっかり
と閉めて来てと言われてアキラは目を見開いて、でも怒ったりはしなかった。
「いいよ……そうする」
だから大人しく待っていてと優しい微笑みで返されて、ヒカルは幸せそうな顔になると、アキラ
とより深く繋がるために開け放していた窓を閉めたのだった。
※窓は開けておいた方が涼しくて気持ち良いんですけどね、激しくなると声が漏れて聞こえちゃうかもしれないから
…ということです。>窓を閉める。2007.9.25 しょうこ