病室




絶対に進藤は死んだ。

彼の腹に刃物が刺さるのを見た瞬間にそう思った。


少し前からぼくに付きまとっていてストーカーまがいの男。

脅迫状や待ち伏せなどに頭を悩ませていたぼくは警察に届けるよりも先に彼にまず
相談した。



「なんだ、だったら当分おれがいつも側に居るようにするから」
「うん…ありがとう」


それでもし危なそうだったらその時は警察に相談して棋院にもそれを打ち明けようと、
そういう話になっていた。


女顔なせいと、父が有名人だということでぼくは昔からこういう目には何度か遭ってい
る。


幼い頃は誘拐まがいのことをされたこともあるし、大人になってからはさすがにそうい
うことは無かったが、一方的な想いを女性や男性から向けられることが多々あった。



「まあ、どれもこれもおまえが美人だからなんだから」

しょーがねーよなと、進藤は苦笑のように笑っていた。

美人で人気者の恋人を持つと苦労すると、でもこの時まではぼくも彼も付きまとう男の
ことをそれほど深刻に考えてはいなかったような気がする。


はっきりと常に人が側に居るという状態になれば、そこで引いてくれるものと勝手に虫
の良いことを思っていたのだ。


それがその日、都内での仕事を終えて二人で帰る途中、地下鉄の階段を下りきった所
でふいに声をかけられたのだった。



「そいつ…」

呼びかけも何も無く、いきなり話しかけられたので一瞬わからなかったけれど、中年くら
いのその男はぼくを赤く充血した目で見つめながら進藤を指さして言った。


「そいつはなんなんだ」
「塔矢っ」


それがいつも付きまとっていた男だと、はっきり見たことが無かったので一瞬わからず
に呆けていたぼくは、進藤に呼ばれてもすぐには動けなかった。


「そいつと付き合ってんのか? あ? どーなんだっ?」
「塔矢、早くっ」


その男が上着の下から刃物を取り出したのは一瞬のことで、それをぼくに突き出した
のも一瞬だった。


「塔矢っ」

そして動けずにいるぼくの目の前に庇うように進藤が割って入り、ぼくの代わりに刺さ
れたのも一瞬だった。


「………あ」

男はそのまま逃げ出して、進藤はぼくの足下に崩れるように蹲った。着ていた綿のシ
ャツにあっという間に血の赤い染みが広がって行くのをぼくは呆然としばらくの間見つ
めていた。


「しんど……う」

呼んでもうめき声だけで答えない。

「進藤……い…や」


―――嫌だ!


あまりの出血の酷さにぼくは彼が死んでしまうと思った。

あんなに深く刺されてしまってはもうきっと助からない。

ぼくが心から愛した男はぼくを庇って死んでしまうのだと、それはぼくの正常な思考を
粉々に破壊した。



「進藤っ、嫌だ、進藤っ」

通りがかった人が駅員に知らせ、たくさんの人たちがぼくたちの周りに集まった。

やがて警察と救急が来たけれど、ぼくは何も答えられず、ただ泣きながら彼が運び去
られようとするのに向かって叫び続けていた。



「嫌だ、お願いだ、連れて行かないで!」

彼はぼくの。

彼はぼくの大切な恋人なのだ――――――と。




いつ、どうやってその場から連れ出されたのかわからない。

けれど気がついた時、ぼくも進藤が搬送されたのと同じ病院に居て、そこのベッドに
横たえられていた。


側には泣きはらした目をした母と父が居て、あまりの興奮状態に鎮静剤を打たれた
こと、そして進藤は助かったということを知らされた。


「…犯人は?」
「ついさっき掴まったと連絡が来た」


父の声にほっと安堵する。

「そう―」

良かったとつぶやくぼくに母が呼びかけた。

「アキラさん…」

母が何故泣いたのか何も言わなくてもよくわかっていた。

母は、そして父は錯乱したぼくが叫び続けた言葉で今まで知らずに居た真実を知って
傷ついているのだ。


「アキラさん、あの―」
「ごめんなさい」


ぼくにはもうそれしか言えなかった。

大切に20年近く育ててくれた人たちに、ぼくは裏切りのようなことしか返すことが出
来ない。


ごく普通の常識内を生きてきた両親に、たった一人の息子が同性愛者であるという
ことがどれほどのショックであったか、考えようとして考えることも出来なくてぼくは黙
って目を閉じた。




自分がどれほど愚かなことをしたのか気がついたのはそれから数時間経ってからだ
った。


薬で再び眠り込んだぼくは、目覚めた時、やっと自分のしたことの意味を理解した。


ぼくは自分だけでは無く、彼をもまた苦境に立たせてしまったのだ。

つい先程までは、自分と自分を囲む人々のことしか考えていなかったけれど、ぼくが
泣き叫んだことで、彼がぼくの恋人であると周囲の人にわかってしまったのだ。


ぼくは―。

ぼくは同意の上で無く、彼もまた同性愛者であるということを周囲に知らせてしまった
のだ。


「どうしよう…」

彼もぼくと同じ一人っ子だ。彼のご両親もショックを受けただろうし、それより何より、
これから先受けるであろう好奇の目や差別に彼を巻き込んでしまったことに恐ろしく
なるほど後悔した。


「どうしよう……どうしたら……」

ぼくが打てなくなるのは仕方無い。でももし、ぼくの軽はずみな行動で彼までも打てな
くなってしまうのだとしたら?


(嫌だ)

そんなことは考えたくも無かった。

将来有望な、もしかしたらぼくよりもずっと強くなるかもしれない棋士をぼくが潰してし
まったのだとしたら…。


謝っても謝りきれるものでは無い。

考えて、考えて、考え抜いてもどうしたら良いのかわからなくて、ぼくはその夜、一人
病院を抜け出した。


死のうとか、そういうことを考えたわけでは無い。ただもうじっとしていることが出来な
かったのだ。


まだ、落ち着いていないからと見舞いには誰も来なかったけれど、もし誰か来て進藤
のことを尋ねたら、そして進藤自身がぼくに会いたいと言ったらどんな顔をして会って
良いのかわからなかったからだ。


「ごめん…進藤」

ごめんなさいお父さん、ごめんなさいお母さん。

こっそりと着替えながら涙がこぼれた。

自分は情けない程に意気地が無く、耐えられない程に卑怯だと思った。


「ごめんなさい…」

ごめんなさい。

ごめんなさい。

ごめんなさい。

そして、ぼくは最愛の恋人も何もかもを置いたまま、逃げ出してしまったのだった。







そこに居たぼくに芦原さんが連絡をして来たのは、ぼくが病院を抜け出してから数
日後のことだった。


都内から2時間程下った都市にあるビジネスホテルに泊まっていたぼくは、唐突
にフロントから外線がかかって来ていると知らされて驚いた。


「ああ…アキラ?」

よかったと、ほっとしたような声でぼくの名を呼んだ芦原さんはそれからしばらく黙
っていたけれど、やがてぼくに戻って来るように言った。


「今のままでいいと思ってるわけじゃないんでしょう?」
「あの…それよりどうしてぼくがここに居るってわかったんですか?」


その方が不思議でつい尋ねてしまったら受話器の向こうで芦原さんが苦笑したよ
うに笑ったのがわかった。


「進藤くんがね、きっとここら辺に居るからって、ホテルをしらみつぶしに探してって
ぼくに言ったんだよ」


進藤は他にも2箇所ほど場所を指定して、それに従って探し続けた芦原さんはぼ
くをついに見つけたらしい。


「すごいよね、彼。アキラは全く知らない場所には絶対に行かない。一度でも泊ま
ったことがある場所に居るはずだからって」


彼はベッドで点滴に繋がれながら、彼なりに考えて指示を出したらしい。

「ぼくは半信半疑だったんだけど、実際居たし…負けたって感じだよ、もう」

彼が指定した場所は、ここも含めてかつて仕事などで彼と共に泊まったことのあ
る所ばかりだった。


その中から更に時間と距離と、ぼくの性格を考えて場所を絞って行ったらしい。

「まあ、とにかく戻って来てよ。でないと彼、自分で探しに行くって言っているから」
「進藤は……怒って…」
「ん? ああ、怒ってる。すごくアキラのことを怒ってるよ」


当然でしょうと言われて返す言葉が無かった。

「すみません…帰ります」
「うん、そうして。先生も夫人も憔悴しちゃってるし、本当に進藤くんアキラが帰っ
て来なかったら病院抜けだしそうだから」



電話を切り、切った後もしばらくぼくは動けなかった。

帰らなければならない。でも帰りたくない。

どんなに彼に罵倒されるかと思ったらそれが恐ろしくてぼくは身動きすることも出
来なかった。


それでも、なんとか勇気を振り絞って身支度を調え東京への電車に乗れたのは、
もしまた別の場所に逃げ出したとしても彼はきっと突き止めてしまうと思ったことと、
更に彼を怒らせることになるだろうと思ったからだった。


そして、芦原さんが言ったようにこのままで良いことは何も無いと自分でよくわかっ
ているからだった。


もう泣いて、泣きじゃくって許してもらえる子どもでは無い。

進藤とのことも含めて自分でちゃんと責任を取らなければならないのだと思った。



それでも迷って、迷って。

結局東京に戻ったのは夜、かなり遅い時間になってからだった。

深夜に近く、でもそれでも戻って来たことを駅の電話で両親に伝えると、そのまま
病院に向かうように言われた。


「え? …どうして?」
「いいから、おまえはそのまま進藤くんの病室に行きなさい」


そこで落ち合おうと言われてぼくは顔が青ざめるのを感じた。こんな時間、面会時
間がとうに過ぎたこんな深夜に病院に向かえというのは実は進藤はかなり悪いの
ではないかと思ったからだ。


助かったとその言葉だけで、様態を深く問わなかったけれど、ぼくが思っていたより
も彼はずっと重くて、もしかして明日をも知れぬ状態になってしまったのではないか。


すっと足下に穴があくような感覚だった。彼が駅で刺された時に感じた時と全く同じ、
最愛の人を失うかもしれないという、それは底知れぬ恐怖だった。



震える足でそれでも病院に向かい、教えられた病室に向かう。

ドアの前に立ってノックすると、「はい」と短く彼のお母さんの声が返事をした。

「どうぞ」と促されてドアを開ける。一歩中に足を踏み入れたぼくはあっと思わず声を
あげた。


八畳ほどの個室、その中にぼくの見知った人々が勢揃いのように揃っていたからだ。

「芦原さん…緒方さん…桑原先生…和谷くんたちも…」

ぼくの両親に彼の両親ももちろん居る。中央に在る、彼が寝かされているベッドがか
なり大きいので皆窮屈そうだったけれど、それでもなんとか収まって皆でじっとぼくを
見つめているのだった。


「これは…」
「おまえ、バカ」


いきなり投げつけられた声にびくりとして彼を見る。進藤は体中に点滴の管がついた
まま、でも安心したことには思っていたよりもずっと元気な様子でぼくを睨みつけてい
た。


「進藤…」
「なんで一人で逃げちゃうんだよ、おれのこと置いて!」


おまえどーしてそんな頭が良いのに間抜けなんだよと言われて何も返せなかった。

「だってぼくは取り乱して…ずっと二人で秘密にしてきたことを喚き散らしてしまって
…」


言いながら涙がこみ上げそうになる。

「キミが死んでしまうって、それで何も考えられなくなって…」

大変なことをしてしまったと、言うぼくを進藤はずっと睨み付けていたけれど、やがて
ため息をついてベッドのまわりを振り返った。


「大変って何が? おれらがホモだから?」

親友なんて真っ赤な嘘で恋人として付き合っているからかと問われて「そうだよ!」と
怒鳴り返す。


「同性愛者だなんて、きっとみんなに気持ち悪いと思われる。ぼくだけがそう思われる
ならいいけれど、キミを…キミも同じ目に遭わせてしまうって…だから」


「だから逃げ出したのかよ」

情け容赦の無い言葉にもう言葉にならなくて黙って頷く。

「おまえバカ、本当に救いようの無いバカ」

なんで逃げるにしても一目おれに会ってからにしねーんだよと、そして進藤は一呼吸
息を吸い込むと、ぼくでは無く、周囲の人たちに向かって言ったのだった。


「…つーわけで、もうさっき事情は話しましたけど、おれら愛し合ってマス」

所謂世間一般的にはホモってことになりますが、決して不真面目な気持ちで付き合っ
てはいませんと、そのきっぱりとした口調に驚いた。



「こいつがぐちゃぐちゃ悩んでるみたいに、やっぱ世間的にはおかしなことだし、それ
で差別もされると思いマス。でもおれら本当に真剣だし、碁のことも不真面目だったこ
とは一度もありません。こいつは本当にずっとおれの親友だったし、ライバルだったし
それは嘘じゃなかったし、でもそれよりもずっと好きになっちゃったことがイケナイって
言うんだったら仕方ナイけど、でも出来れば見守ってやってください」


そしてぺこりと深くお辞儀をした。

信じられない光景だった。

「―――――しん」
「まあ、別に良いんじゃないかのぅ」


しんと静まりかえった病室で最初に口を開いたのは桑原先生だった。

「他の奴らは知らんが、儂個人としては別に気にもならないがの」

まあ、碁は碁、私生活は私生活だと、からからと笑われてそれがきっかけで部屋の空
気が解けるのがわかった。


「そうそう、碁は碁、私生活は私生活と」

色々うるさく言われることはあるかもしれないが、それは自分たちで言わせないような状
況を作っていくしかないだろうと緒方さんに言われて頬に温もりが戻った。


「まあ、仕方ねーんじゃねーの? おまえら前から異常だったし」

和谷くんに言われて苦笑する。

あのお互いへの執着は充分フツーじゃなかったからと、でも別にそれで嫌ったりしないと
その言葉が嬉しかった。


「許すとか、許さないとかそういうことでは無いと思うが…」

生き方で皆に認めてもらいなさいと父に言われて涙が目に滲んだ。


「だからもう逃げ出すなよ、全く、なんのためにおれが体張って守ったと思ってんだよ」

死んでもそれでいいって思うくらいおまえのことが大事だからだろうと、進藤の顔はまだ
ぼくを睨んでいたけれど、でも声はもう怒ってはいなかった。


「大変だったんだぜ、おまえの行方を捜しつつ、みんな、おれらのことよく知ってくれてる
人に来てもらって説明して」


そしてお願いをしたのだという。もしぼくが見つかったらその時には病室に皆集まって欲
しいと。


「さあ、どうする? 塔矢。ここに居んのは全部おれらに関わる人たちだ。今もそしてこれ
からも関わって生きていく人たちだ。だからおれはみんなに言った。おまえのことが好き
だからこれからもおまえと生きていくって」


おまえは? と問われて思わず一歩後ずさる。

「おまえの気持ちもここで聞かせて、おれのことどう思ってんのか。そしてこれからどうした
いと思ってんのか」


おれと生きていきたいと思っているんなら、ここでみんなにそう誓ってと言われて視線が集
まるのを感じた。



驚いた。彼がこんなことをするなんて予想だにしていなかった。

驚いて逃げ出して、ただ泣いているだけだったぼくとは違って彼は周囲にわかってしまった
と理解したその次には、もう認めてもらうための努力をしていたのだ。


それも全て打つため。

ぼくと―― 一生打ち続けるために。


「さあ、聞かせておまえの気持ち」
「ぼくは―」


手も足も体も震えて声が喉の奥に張り付いてしまう。

「ぼくは――――」

こんなに恐ろしく、こんなに緊張する場面に立たされたのは初めてだった。

「ぼくも、進藤と同じ」

彼を心から愛しているし、これからも一緒に生きていきたいと思っていると一気に言った時、
こらえていた涙がどっと目から溢れ出した。


「だから―どうか―皆さん―――」

かすれる声で言いながらああこれはぼくと彼との結婚なのだと思った。

公では無い、法的には認められることも無い。

でもこれでぼくと彼は永遠に愛することを誓ったのだと、もうこれからどんなことがあっても、
今ここに居る人たちに背かないためにも、二人で生きていかねばならないのだと思った。


「どうか――」

顔を上げると進藤が笑っていた。

「どうか皆さん」

お願いしマス。どうしても声がかすれるぼくの言葉を引き取って彼が言った。

「おれたち絶対に逃げませんから」

二人で生きていきますからと、期せずして病室に拍手が起こった。

「がんばってね」

心から許してくれているのではないかもしれないけれど、進藤のお母さんが言うのを聞きな
がらぼくもまた泣きながら深く皆に頭を下げたのだった。




※お正月なので大団円。アキラがかなりへたれ気味です。すみません。でもきっとこの後、結婚式もやると思いますよ。
そして迷惑な真夜中の全員集合、ヒカルが居るのはパパが居たのと同じような特室で、アキラを庇って負った傷なので
パパの奢り?です。そしてこの全員集合に駆り出された皆をこの後緒方さんが懇意のお店に連れて行きます。
2008.1.4 しょうこ