さよなら
その日、塔矢はわざわざ空港までおれを見送りに来た。
「なに? おまえどうしたん?」
気持ちを打ち明け合ってからも、付き合いを続けて二人で暮し始めてからも、こんなふうに
塔矢がおれを見送りに来るなんてことは今まで一度も無かった。
「別にいいだろう。今日は夜まで時間があったし暇だったから」
にっこりと笑う塔矢の笑顔はいつもと同じで、言葉以上の意味など全く無いように思えた。
でもおれ達はおれが中国から帰って来たら別れる約束をしていたのである。
諍いながらも結び合い、何度も深刻な別れ話をして、それでも結局別れられずに居たおれ達
がとうとう別れることを決意したのは互いの家族の理由があった。
どちらも年を取ってきていて、塔矢先生も心臓がかなり悪くなって来ているという。
『仕方ないよね』
『仕方ナイって言葉はおれあんまり好きじゃないな』
『それでも仕方無いことは仕方が無いんだよ』
今まで十二分に親不孝を続けて来たのだからここら辺でもう我が儘をやめて大人になった方が
いいと結論を出したのはどちらだったかはもうわからないけれど、それでおれ達は長い付き合
いに終止符を打つことになったのだった。
『キミ、今度中国へ行くよね』
その間にぼくは引っ越しておくからと塔矢はおれに言って苦笑のように笑った。
『いらないものは置いていくけど、キミも必要無かったら捨ててくれていいから』
いらないものって言うのは二人で揃えたものなのかなとぼんやりと考えながら、おれも苦笑のよ
うに返した。
『わかった。でもおれ貧乏性だから捨てないで使うかもしれないよ』
『それはそれでいいよ。キミの好きにしてくれていい』
だから今日家を出てくる時もいつものように普通に過ごし、一緒に朝飯を食って玄関で別れたは
ずだったのに、空港に着いて和谷や一緒に行く皆と合流して少ししたら塔矢がいきなりやって来
たのだった。
最初に気が付いたのは和谷で、でもおれもすぐに塔矢に気が付いた。
「時間があったから皆の見送りに来てみようかなって」
そんなタマでも無いくせにと和谷にからかわれると「本当は久しぶりに空港に来てみたかっただ
けなんだ」と悪びれなく言った塔矢は、おれの顔を見てもその微笑みを消さなかった。
「向こうに行ったらお茶を買って来てくれないか?」
どうして来たん? と尋ねるおれに塔矢は一枚のメモを渡した。
「このお茶、お父さんが向こうで飲んで好きだったって言うからキミに買って来てもらおうかなって」
「なんだよ、おれは使い走りかよ」
「いいじゃないか、そんなにかさばるものでも無いんだし」
お金は帰って来たら払うからと言うと、塔矢はそのまま視線を横にずらして一瞬だけ遠くを見るよ
うな瞳になった。
「塔―」
「何時に搭乗手続きが始まるんだ?」
「えーと、あれ? わかんない。おい和谷、何時だっけ?」
「人に聞くのか。ちゃんと自分の乗る飛行機の時間ぐらい把握しておかなくちゃダメじゃないか」
苦笑のように笑って、それからふと気が付いたようにおれの襟元に手を伸ばす。
「なに?」
「ネクタイ。また曲がってる。いつまで経ってもキミは上手にならないな」
一応日本の棋士の代表として行くようなものなんだから身なりはきちんとしていないとと言って、皆
が見ている前だと言うのにするりと解くとゆっくりとネクタイを結び直し始めた。
「なんだおまえら新婚夫婦みたいじゃん」
和谷のからかいに当然塔矢は言い返すと思っていた。けれど何も言わずに真剣な面持ちでおれ
のネクタイを結んでいる。
「おい、いいよ。そんなん適当で」
どうせ飛行機ん中で崩れちゃうんだしと言いかけたおれははっとした。ネクタイを結ぶ塔矢の、少
し俯いた頬を涙が滑るのを確かに見たからだ。
「塔――」
「いやだ」
微かな声が震えながら耳に届く。
「塔矢」
「キミと別れたくなんか無い」
今まで一度も見送りになんか来なかった。
もう別れるかもしれないという大げんかをした時でさえ、平気でおれを突っぱねた。
何日も会わなくても、どんなに非道い罵り合いをしても、今まで一度だって涙を見せたことの無い塔
矢が今、静かにおれの前で泣いている。
「いやだ―進藤」
ぽろぽろと透明な涙は頬を滑り、磨き上げられた空港の床にぽたぽたと落ちる。
「進藤、そろそろ時間だぜ?」
和谷が不審そうな顔をしながらおれに声をかける。
でもおれは動けなかった。
「進藤――」
キミが好きだよと、最後にネクタイをきゅっと締めて整えた塔矢の指が離れた時、おれは俯いた塔
矢の顔を両手で挟むようにして上向かせた。
「塔矢…」
泣いている。
塔矢はまるで小さな子どものように顔を歪めて泣いていた。
「しん…」
言いかけて、でもそれは声にならない。その切なさの溢れる表情を見た瞬間に衝動的におれは塔
矢に口づけていた。
人で溢れる空港の中。
周囲には何も知らない友人や棋院の人達がたくさん居て、みんなおれ達を見ているというのに、そ
の瞬間、それらが皆おれにとってどうでも良くなってしまった。
「バ…」
ダメだと、驚いたようにおれを突き放そうと藻掻く塔矢をしっかりと押さえたまま、しつこく深く貪るよ
うにキスをする。
塔矢は涙が盛り上がった目でおれを見つめながら、でもすぐに藻掻くのをやめた。
「好きだ――」
大好きだ。
やっぱりおれも別れらんないと耳元に囁くと塔矢が大きく頷いた。
もう誤魔化すことも出来ない。
大衆の目の中、何度も、何度もキスを繰り返し、泣きながら固く抱き合った後、おれ達は再会と永遠
を誓って空と地上とで別れたのだった。
※この後機内で、泣きはらした目をしたヒカルの隣に座る和谷がみょーに優しかったんじゃないかなーとか(笑)
「な、なんか飲むか?」とか「そういや、出がけにおれW/J買って来たんだよな。おまえ先に読んでもいいぜ?」とかとか。
いやはや、ヒカルとアキラはヒカルが帰って来てからが大変だと思いますよ。 2008.3.6 しょうこ