どうでもいいひと




その日行われた囲碁フェスの打ち上げは、ホテルの一番広い部屋を借り切っての
立食パーティーだった。


そう聞くと豪勢なようだが、オフシーズンなのと棋院が昔から懇意にしているホテル
だったのでそういうことになったらしかった。



囲碁に関係のある人、無いけれど何らかの関わりがある人、含めて三百人くらいが
皿を持ったまま談笑する。


ぼくはいつもなら進藤と一緒に居るのだけれど、その時進藤は緒方さんから言いつ
かった仕事がまだ終わっていなくて、裏方としてそれをやっていて、場にはいなかっ
た。


遠くで恨めしそうにこちらを見ている進藤の顔に、お腹が空いているんだろうなと思
い、何か皿に取って持って行ってやろうと思った。


なので新しい皿を一つ持ち、芦原さん達と別れて肉料理の多いテーブルに行って皿
に盛りつけていると、いきなり誰かに腕を掴まれた。


「別嬪さんだなあ…おい」

振り返って見ると、べろべろに酔っぱらった中年の男性が居て、棋士では無いから、
たぶん地元の有力者の誰かなんだろうと思った。


「お褒めに預かり恐縮です」

酔っぱらいはタチが悪い。下手に逆らうよりは流してしまった方がいいと微笑んで答
えたら更にぐっと強く腕を握られ引っ張られた。


「上にさ、部屋取ってあんだよ、部屋」

ちょっと酔っぱらっちゃったみたいだから、一緒に来て介抱してくんないかなあと酒臭
い息を吹きかけられて、さすがにぼくも微笑んではいられなくなった。


「あの…勘違いされているようですけどぼくは男ですから」

申し訳ありませんがそういうお申し出は受けられませんと、それで引き下がるだろう
と思ったのに相手はしつこかった。


「知ってるってそんなの。フェスの間中ずっと、綺麗な顔だなあと思って見てたんだ。
体も…」


男同士ってのは絞まりが良くてやめられないって言うじゃないか、ちょっと試させてみ
てくれないかと赤く濁った目が近づいて来てぼくは思わず一歩下がった。


「ご冗談を」
「冗談なんかじゃないって、やらせてくれたら、もちろんこっちの方ははずむから」


ポケットの中の財布を見せられて怒鳴りつけてやりたくなった。

酔っぱらいだと思って優しく接してやれば、その失礼な態度はなんだ! と、ぼくは男
娼では無いんだと、余程その酔って脂ぎった顔に叩き付けてやりたかった。


でもそれが出来なかったのは、ちょうど主催の方の挨拶が始まってしまったからだっ
た。


ぼくも一応主催側の一員ということになる。それが静まりつつある会場の中でみっと
もなく大声を出して騒ぐわけにはいかなかった。


そして何より、失礼な態度をとり続けているとは言うものの、この男も地元では何らか
の力のある者に違い無く、囲碁フェスの開催に関わっているに違い無いからだ。


スポンサーを怒らせることは出来ない。

でもこんな無礼を続けさせることも出来ない。

ぼくが騒げないで困っているのにすぐ気が付いて、相手は無言でぐいぐいとぼくを会
場から引き出そうとし始めた。


「困ります…やめてください」
「何、ちょっとした小遣い稼ぎだと思ってさ、な?」


小声で言いながら引っ張り続ける。ぼくは皿を落とさずに居るのが精一杯だった。

「さ、早く行こう。今からならまだたっぷり二回はヤレる」

男の下卑た言葉にぞっと背中を震わせた時だった、いきなり目の前の人垣を越えて
進藤が現われたかと思うと、あっと言う間も無くぼくの手を握っている相手の男の手
を思い切り打ったのだった。


ぱあんと、その音は静かな会場に響き渡った。

「失せろ、クソオヤジ!」

遠慮も何も無く怒鳴りつけた彼の声もまたよく響いた。

ざわと何事かと人の目が集まる中、決まり悪かったのだろう相手の男は進藤をじろ
りと睨み付けた。


「どうでもいいヒトは引っ込んでな。これはこの綺麗な兄ちゃんとおれの問題なんだ
から」


出しゃばって出てくるなと言われて、進藤はすかさず言い返した。

「どうでもいいヒトなんかじゃない! 少なくともおれにとってはこいつは『どうでもい
い人』じゃないし、こいつにとってのおれも『どうでもいい人』なんかじゃないっ!」


人の大事なモンに薄汚い手で触るなと啖呵を切って、それから進藤はぼくの腕を掴
んで来た時と同じように呆気にとられて立ちつくす人混みをかき分けるようにして会
場から出た。


その後、あの男がどうなったのかは知らないけれど、ぼく達が後でみっちりと叱られ
ることだけはよくわかっていた。




「もう少し目立たないようにやれば良かったのに…」

助けて貰っておきながらついそう言ってしまったぼくを進藤は怖い顔で睨み付けると、
それから大きくため息をついて言った。


「そんな器用なこと出来るかよ、おまえ抵抗出来ないでいるし…」

あの酔っぱらいはおまえにべたべた触っているし、遠くで見ていて脳の血管切れそう
だったと言われて苦笑しつつぼくは微笑んでしまった。


そんなにも大切に想われたことが嬉しくてたまらなかったのだ。

「…叱られるよ?」
「いいよ別に、そんなもん!」


とにかくおまえはおれにとって何より大事なもんなんだから、あんな汚い手で汚される
なと怒鳴られて思わず泣きそうになった。


「もう二度とおれ以外のヤツに気安く触らせんなよ!」
「うん――わかった」


もう絶対にキミ以外にはぼくに触れさせたりしないと言って、ぼくは我慢出来ず、腕を
伸ばすと進藤を強く抱きしめてしまったのだった。




※宴会場でのアキラの酔っぱらい絡まれ率85%。顔だけ見てると綺麗だし、物腰も柔らかで丁寧なので大人しそうに
見えるんでしょう。中身は龍なのにね。でもこの龍は気は強くても立場とかつい考えてしまうので大変生き難い龍だと
思います。
なのでそういうのを全く気にしない猛虎と一緒でちょうど釣り合いが取れるのではないかと。


そして後でもちろん二人は怒られましたよ。えーもーこれ以上無いくらい怒られて、でもその後で何故か頭を撫でられま
した(笑)2008.4.12 しょうこ