呼ぶ声
アキラが思っていたよりも川辺の水はずっと澄んで綺麗だった。
思い描いていたのは荒涼とした石ころだらけの河原で、空も水も濁った灰色をしている
のではないかと勝手にそう思い込んでいた。
けれど実際に来てみたら、そこはまるで春の野原のように柔らかい草が茂り、水も空も
青く清く澄み渡っているのだった。
「船で行かれますか? それとも後からやって来る方と共に?」
来た最初、渡し守に聞かれて改めて回りを見る。
渓流下りなどで見たことがあるような木の船が近くに泊めてあって、何人か既に乗り込ん
で待っている人の姿が見えた。かと思えば思い思い、ひなたぼっこをするように柔らかい
草の上で寝転がったり座ったりしている人達も居る。
「どちらとも自分で選べるんでしょうか?」
「そうですね、どちらともご自分の好きで」
本来川は好いた男に背負われて渡るのが常だけれど、昨今は先に行ってしまう者も多い
と言う。
「どうします? 乗って行かれますか?」
「いえ、ぼくは―ぼくはここで彼を待ちたいと思います」
「そうですか、いえ。それなら結構」
そして渡し守は行ってしまい、一人残されたアキラはぼんやりと辺りを見渡してから、ゆっ
くりと草の上に腰を下ろした。
「…綺麗な所だなあ」
それにとても気持ちが良い。
ここに来る時にはかなり辛い思いもしたけれど、来てしまえばこんなにも暖かく穏やかで見
る物は全て美しかった。
「どれくらい待てば会えるんだろう」
すぐに会いたいとも思えば、でもなるべく遅くに来て欲しいとも思う。
ゆっくりと為すべきことを全てやってからこちらに来てくれたならいいと。
遠く、水の向こうには朧な街のようなものが見える。あちらもあちらで美しいけれど、でもア
キラはまだ行けないと思った。
もしかして自分が居ない間にヒカルは他に愛する者を見つけてしまうかもしれないが、もし
そうなってその人と二人で渡りたいと言ったならばその時は船で渡ればいい。
(でも進藤はきっとぼく以外を愛さないような気がする)
傲りからでは無く、そういう所がヒカルにはあるような気がするからだ。
ただ一人を愛し、くそまじめにそれを貫き通す。
もしアキラがいいと言ったとしても、ヒカルは頑として他に配偶者を作ることはないだろう。
「バカだなあ…」
でもそのバカな所がたまらなく愛しいとアキラは思いながら立ち上がった。そして高く空を
見上げて恋しい人に叫んだ。
「ぼくはもう大丈夫だから…どうか、どうかキミはゆっくり来て」
待っているから。
ずっとずっと待っているからと。
その言葉がヒカルに届いたかどうかはわからない。
けれどその日からアキラはヒカルを美しい水辺で待ち続けるようになった。
「どうですか? 一局」
「いいですね。昨日は負けてしまったから今日は絶対に勝ちますよ」
暖かい風の吹く川岸で、アキラは老人と向かい合わせて頭を下げた。
「お願いします」
「お願いします」
座っているのは水がすぐ間近に寄せる砂浜で、その砂の上に線を引いてアキラは老人
と碁を打っているのだった。
「…そう来ますか」
「これでも生きている時にはアマの大会で賞を取ったこともあるからね」
最もプロのあんたにはとても敵わないけれどと、老人は皺の寄った顎を撫でさすりなが
ら碁石代わりの石ころを置く。
白石のアキラは石の代わりに花びらを置いて、それでゆっくりと時間を気にすることも無
く一手一手打つ。
老人はアキラが来て数ヶ月ほど後にやって来た。
そして残して来た妻を背負って渡らなければいけないので、ここで待つことにするとアキ
ラに話しかけて来たのだった。
「あんたはまあ、随分とお若いのに事故か何かかね」
「いえ、本当はもっと年を取っていたのですが何故かここに来たらこの姿になってしまって」
苦笑交じりにアキラが答えたのは自分が中学生の姿になっていたからだ。
しかもご丁寧に海王の制服まで着こんでいる。
水に映る自分の姿はヒカルを追いかけ、追いかけられて、そしてついに掴まった時のもの
だった。
(だからかな)
だから自分は死んでここに来た時にこの姿になってしまったのかもしれない。
次にヒカルに会う時に、今でも自分はこの頃のまま、キミを好きだとそう言いたかったから
こんな姿になってしまったのかもしれなかった。
「しかし…なかなかあんたの相手は来ないね」
砂の上に石を置きながら老人が言う。
「あなたの細君もまだいらっしゃらないじゃありませんか」
「あいつは命根性が汚いから散々長生きしておれを待たせてから来るに違い無いよ」
今頃友達と温泉にでも行っているかもしれないとからからと笑う。
この老人がいなかったら自分はもっと寂しかったかもしれないなとアキラは少しだけ思っ
た。
ヒカルは今何をしているだろう?
まだ悲しんでいるのだろうか? もうとっくに傷は癒えて、楽しく日々を過ごして居るのだ
ろうか。
もしかして万一好きな人でも――。
心の乱れが碁に現われて、珍しくアキラは読み違えをした。そして結局老人に一目差で
負けてしまった。
「さてさて今日は久しぶりに勝たせて貰えたわい」
でも今日の碁はあんたの碁では無かったようだから、明日は全力で頼みますよと言われ
てアキラは苦笑した。
「はい。申し訳ありません」
そして次の日も、そのまた次の日もアキラは老人と碁を打った。
時折止まる者も居て、その人も交えて打ったりもし、またある時にはあふれかえる程乗り
込む船を見送りもした。
「おはようございます」
朝も昼もあまり無いような所だけれど、顔を合わせるとまず最初にアキラはどうしてもこ
う挨拶してしまう。
「今日も一局打ちますか?」
ところが今日はいつもとは違った。老人の側には上品な着物姿の女性が居て、睦まじそ
うに二人で話をしているのだ。
「あ――」
思わずアキラは声に出してしまった。
(来たんだ)
老人が待ち続けた細君が彼が言っていたよりはずっと早くこの場所にやって来たのだっ
た。
「やあ、申し訳ない」
アキラに気が付いた老人は本当に申し訳なさそうにアキラに頭を下げた。
「こいつが殊勝にも儂の後を追って来てしまって」
「追ってなんかいませんよ。ただちょっと体調を崩してしまって―」
不摂生の限りを尽くしたあなたなんかと一緒にされてはたまりませんと言いながらも、女
性の顔は嬉しそうにほころんでいる。
「では…行かれるんですね」
「そのためにここでこいつを待っていたのでね」
この年でこんな重い物を担ぐのは骨が折れますが、がんばって向こう岸まで行きますよと、
もう着物の裾を巻くっている。
「さ、ほれ行くぞ」
「なんだいこの人は気ぜわしい」
けれどそう言いつつも女性は老人に背負われて、それからゆっくりと水の中に入って入っ
たのだった。
「どうか――お元気で」
「あんたの連れも早く来るといいな」
そして負ぶい、負ぶわれた二人の姿はどんどんと川の向こうに遠ざかって行ったのだっ
た。
「いいなあ………」
その姿を見送っていたアキラは思わずぽつりとつぶやいてしまった。そしてそれから首を
横に振る。
「いや、いいんだ。ゆっくりで」
ゆっくりとここでヒカルが来るのをじっと待つ。
暖かい草の上、また碁を打つ人も来るかもしれない。そうしたらその人とまた打ちながら
待てばいい。
(もし来なかったとしてもぼくの頭の中には進藤と打った全ての棋譜が入っているから)
それを思い出して一人で石や花びらを並べてもいい。
いつになるのかわからない。
恋しくないと言えば嘘になる。
けれどいつか必ず会える時がやって来る。
その時に自分が背負って貰えるのか貰えないのかはわからないけれど、でも会えるだけ
でたまらない程嬉しいと。
その時のことを考えれば幸せな気持ちになれるから自分はいつまでだって待てると思っ
て、アキラは遠く川の向こうに消えて行った老いた夫婦をもう一度だけ目を眇めて眺め
た。
そうしてからゆっくりと歩いて草の上に戻ると腰を下ろし、いつか自分を呼ぶヒカルの呼ぶ
声を想い浮かべながら、静かに目を閉じたのだった。
※鎮魂花のシリーズに入れるのにはちょっと微妙な気がしますが一応番外編です。
ずっと前、何かの本を読んだ時に「三途の川を渡る時は好きな男に負ぶわれて渡る」というのを読みまして
その時にアキラはもちろんヒカルだろうなあと思いました。そんなことを日記にもつらつら書いたような気がす
るのですがそれをSSで書いてみました。ずーっとずーっと待ったくせに、いざ来るとわかった時に待ちきれな
くてアキラは迎えに行っちゃうんですけどね(笑)
これが例えば逆だとしてもヒカルはずっと待っていると思います。「背負わなくちゃいけないヤツがいるから待
ってるんだ」って。もしかしてアキラに別の伴侶が出来て、アキラがその人を背負って行くならそれも仕方無い
と。でもあいつバカだからずっとおれのことだけ好きでいるかもとそう思ってずっと待ち続けると思いますよ。
似たものラブラブカップルです。2008 しょうこ