「なあ、碁をやめるときってどんな気持ちがするんだと思う?」

進藤がふいに尋ねて来たのは、棋聖戦をかけたリーグ戦で無事にリーグ入りを果たした
すぐ後のことだった。


「なんだ唐突に」
「いや、おまえなんかもそうだけどさ、物心ついた時からずっと打ち続けて囲碁だけの世界
で生きて来たじゃん?」


そういう人が碁をやめるときってどんな気持ちがするんだろうなと、それはどこか独り言じ
みた物言いだった。



「…ずっと、碁だけの人生だったのにさ」

朝起きて「おはよう」と言うようにごく自然に石を持ち、夜「おやすみ」と言うように当たり前
のことのように碁盤の前に腰を落ち着ける。


暇があれば詰碁をしたり、子どもが缶蹴りをするように碁打ち同士で集まれば、それがど
んな集まりでも結局は碁に行き着いてしまう。


話したり検討したり。笑いながら怒りながら、時にはふざけて賭け碁をしたり。飽きること
なく白石と黒石で遊び続ける。



「それはキミだって同じだろう?」
「おれはおまえよかずっと始めたの遅いもん」


「そんなの…遅い早いは関係無い。キミくらいの年から打ち始める人だってたくさん居るし、
もっと遅くに石を持つ人だって居る」


「うん、でもさ…でも例えばお前と同じくらい小さい頃から石を持って打っていてさ、打ち続け
ていた人が打つのをやめる時って言うのはどんな気持ちなんだろうか」


「わからないな…そんなこと」
「少しの未練も無いのかな。もう一生打たなくてもいいとかそう思って行くのかな」


「わからないって言っているだろう」
「うん、でもさ、おまえならもしかしてわかるかなって…」


言いながら進藤が膝に顔を埋めているのは、そのリーグ戦で破った相手が囲碁をやめた
からなのだった。


ぼくと同じくらい子どもの頃から打ち続けて来て段位は九段。けれど五十を超える年になる
まで一度もリーグ入りを果たしたことは無く、これが初めてたどり着いたリーグ入りをかけた
戦いだったのだ。



「おれなんか、想像もつかない。ガキの頃なんか自分が囲碁をするようになるなんて夢にも
思わなかったけど、今は打たない自分の方が考えられない」
「あの人は…キミに負けたからだけじゃなくて、体を壊してもいたからやめたんだ」


「誰のことだよ」
「いや…なんでも無い」


対局が終わり受けた取材でその人は頭を掻きながら「残念です」と言ったと言う。

「でももう悔いは無い。私はこれを最後に碁界から去ろうと思います」

それは当然勝った進藤の目の前でのやり取りで、全員が絶句し、進藤もまた青ざめたと言
う。


「あの―」

言いかけた進藤にその人はやんわりと笑って。

「キミのせいじゃないよ」と言った。

「最初から決めていたんだ。今年リーグ入りを果たせたら棋士を続ける。もし今年ダメだっ
たらきっぱりと棋士をやめると」


その人は他のリーグ戦では既に予選の段階で廃退しており、棋聖戦を賭けたこの戦いが
事実上最後の可能性をかけた戦いだったのだ。


「人間引き際というものがあるからね。私はもう疲れた」

少し休もうと思いますと、その記事はかなり大きく囲碁雑誌に載ったし、週間『碁』にも当然
載った。


「おれは…まだ若いからなのかな、わからない。…やっぱ年を取ったらあんなふうにあっさり
とこの世界を去ろうって気持ちになるのかな」
「キミのことは知らない。でもぼくは去らないよ」


例えどんなに年を取っても、例えどんなに負け続けたとしても、それでもこの世界から去る気
は毛ほども無い。


「そんなこと言って、いきなり引退して蕎麦屋やりますなんて言ったりしねーのか?」
「そういうキミこそいきなりやめて、そして普通に会社勤めを始めたりするんじゃないのか?」
「するわけねーじゃん」


どんなに負けても、どんなにしんどくても、体が老いて石を置くのも辛くなったとしてもおれはこ
こに居たいと。


彼の言葉はぼくの想ったこととほぼ同じだったのでなんとなく微笑んでしまった。

「あの人―奥さんの実家を継ぐんだっけ?」
「知らないって。世間話なんかしねーもん」


でもそうみたいだってなと、六十近くまで打っていて、そこから新しい世界に行く人の気持ちは、
やはりぼくにはわからない。


「でも…去って行く人はいるよな」
「うん」
「院生仲間でもやめてったヤツいるし」


プロになってからもやめて別の世界に行った人も居る。

「そういう時って一体どういう気持ちがするんだろうな」
「さあ、本当にぼくにはわからないけれど、でももうこの世界では充分にやった。だから次の
場所に行こうってそう思うんじゃないかな」


悔いは無い。
その人は記者に尋ねられてそう言っていた。


打って来たこの年月になんの悔いも無い。無いからこそ去ることが出来るのだと。

その顔はとても晴れ晴れとして清々しいものだったと人に聞いた。


「おれは――別んとこなんか行きたくないなあ」

やがて顔を上げてぽつりと進藤が言った。

「おまえに負けても越智に負けても本田さんに負けても、緒方センセーにボロくそに負けても
絶対にやめたくない」
「やめないよ、キミは…」


ぼくの言葉に進藤は拗ねたように口を尖らせた。

「なんでそうおれのことなのに自信満々に言うんだよ」
「ぼくが居るからキミはやめない。キミが居るからぼくはやめない」


神の一手を目指している人々の中に、緒方さんや桑原先生や、お父さんみたいな人達が居
るから、ぼく達は決してやめることは無いよと、腕を失ったとしてもぼくは打つと彼に言った。


「何? 片手でも打つん?」
「打つよ」


「両手が無くても?」
「そうしたら足で打つ」


「足も無くなったら?」
「口でくわえて石を置くよ」


目が見えなくなっても五感の全てを失ったとしてもぼくは打たずにはいられない。そしてそれ
はキミもそうだと思うよと言ったら進藤は苦笑したように笑った。


「すげえ買いかぶり」
「…事実だと思うけど」


窓からは心地よい風が吹いてくる。

ベッドの上、記事の載った週間『碁』のページを端からめくっては戻し、そのパラパラとした音
に進藤はまた苦笑した。


「難儀だよなあ」
「何が?」
「…おれら」


こんなにも囲碁が好きで嫌いになれない。

他に好きなものが無いわけでは無いけれど、どれも囲碁に取って変わることは出来ない。

囲碁だけが命をかけて好きだと言えるものだから。

「だからバカって言うんだろう?」
「バカ?」
「うん、囲碁バカ」


キミもぼくもどうしようも無い、救い難いくらいの囲碁バカなんだよと言ったら進藤は少し考え、
それから破顔一笑顔中で笑って「本望だ」と言ったのだった。




※色々な意味で他者は己の鏡でもあると。そういう意味でのタイトルです。
ヒカ碁だけが命をかけて好きだと言えるものだから、だから私も書きますよ。
2008.5.13 しょうこ