視界をグレーの布地が遮った。そう思った次の瞬間ヒカルは思い切り上着ごと
殴られていた。


「卑怯者、最低だな!」

キツイ目で罵ったのはアキラで、でも罵られ頬の痛さを堪えながらヒカルは無性
に腹が立って仕方無かった。


「何が卑怯だ、何逆ギレしてやがんだよ!」




その日は秋の祝日で、ヒカルとアキラは他の若手と共に都内で行われる囲碁イ
ベントのために朝から走り回っていた。


受付や指導碁や催しとしての対局以外に下っ端がすることと言えば、足りない物
を買いに走ったりなどの雑用がほとんどだったが、そんなことは慣れっこだし、手
合いなどに比べてある意味お祭り事であるので楽しいと言えば楽しい。


ただそれでも慌ただしい一日が過ぎ、日が傾く頃になると一番元気なヒカルです
ら少しでいいから座りたいと思うくらい疲れきってしまう。



閉会式も終わり、会場内の片付けも終わって、後の簡単な打ち上げを別室で皆
がしている時、ヒカルはほんのちょっと休むつもりで腰掛けた控え室のソファでそ
のままぐっすりと寝入ってしまった。


相変わらず窮屈だとしか感じられないスーツの上着を脱いで手前のパイプ椅子
に置き、それから部屋の奥にある冷蔵庫から飲みかけのコーラを取り出してソ
ファにどっかりと座った。


それがいけなかった。

喉の渇きよりも疲れの方が大きかったということにヒカル自身は座るまで気が付
かず、コーラを一口、二口飲んだ後小テーブルの上にペットボトルを置いたまで
は覚えているがその後はふっつりと記憶が無い。


ソファに沈み込むようにして一体どれだけ眠っていたのかわからないが気が付
いたのは自分を呼ぶアキラの声でだった。



「進藤」

最初にドアを開ける音がして、それから良く通る声が自分の名前を呼ぶのをヒ
カルは夢うつつに聞いた。


(塔矢だ)

そう思い、それからぼんやりと目を開ける。蛍光灯の白々とした光が眠っている
目に眩しくて、慌ててヒカルは目を再び閉じた。


「進藤、居ないのか?」

ヒカルが眠ってしまっているソファはちょうどドアに背を向けて置かれており、寝
そべっているためにアキラからはヒカルは隠れてしまって見えない。


「一体どこに行ったんだ」

まさか帰ってしまったんではあるまいなと憤慨した様子で呟いているのにヒカル
は寝ぼけながらもムッとした。


(誰が帰るか、ちゃんとここに居るって)

これはもういい加減に目を開いて居るということを主張しないといけないと、そう
必死に目をこじ開けようとした時だった、アキラはヒカルの脱ぎ捨てた上着に気
が付いたようだった。


「こんな所に置きっぱなしにして…皺になってしまうじゃないか」

脱ぐなら脱ぐでちゃんとハンガーにかければいいのにと、まだ怒っているような
口調は、けれどふっと急に途切れた。


「進藤の匂いがする…」

長い、長い沈黙の後耳に聞こえた小さな呟きにヒカルの目はぱっと開いた。

「進藤…」

愛していると確かにアキラの声が言って、ヒカルはソファの背に手をかけて這い
上がるようにして体を起こした。


そして見たのは立ったまま、自分のスーツを抱きしめて愛しそうに顔を埋めてい
るアキラの姿だった。


「塔…」

塔矢おまえ何してんの? と言いたくて、でも声は喉の奥に張り付いた。

「え?」

けれど静かな室内にヒカルの微かな声はよく響いて、はっとしたようにアキラは
ヒカルの方を見た。


そして弾かれたようにスーツから顔を上げると、その顔が一瞬青みを帯びる程
白くなって、それから今度は染めたように赤くなった。


「おまえ…今…」
「最低だなっ!」


次の瞬間、アキラは恐ろしい目でヒカルを睨み付けると、つかつかと歩み寄って
来て腕を振り上げた。


「そんな所に隠れて人のことを盗み見ているなんて最低だっ!」
「別におれは…」


盗み見なんてしていないと言う前にアキラは手を振り下ろしていた。

バシっと布で叩かれてヒカルは思わず顔を背けた。

「卑怯者、最低だっ」

二度、三度と狂ったように殴られてさすがにヒカルも腹が立った。

顔にかかったスーツを手で握って止めて、それから払いのけてアキラを睨み返
す。


「何が卑怯だ、何逆ギレしてやがるんだよっ!」

少なくともヒカルにはこっそりとアキラを盗み見たつもりは無い。相手が勝手に
やって来て、勝手にやったことで自分がこんなふうに罵られ、殴られるのは納
得出来なかった。


「おまえが勝手に喋ったんじゃん。おれはここで居眠りしてただけで何も聞くつも
りなんか無かったのに!」
「だったらもっと早く返事なりなんなりすればいいだろう」


人の恥ずかしい様を見続けていたなんて趣味が悪いと再びスーツで殴ろうとする
のをヒカルは大声で怒鳴りつけた。


「いい加減にしろって!」

殴られ続けた頬は熱い。手で殴られるよりも布地で叩かれる方が妙にこたえる痛
さがあることをヒカルは今初めて知った。


「最低なのはおまえだろ、それ以上やるならマジでおまえのこと軽蔑するぞ」

ぐっと唇を噛みしめてアキラは振り上げた腕を下ろした。

「怒ってんのはおれの方だからな、こんな言いがかりで殴られて、今滅茶苦茶腹立
ってんだから」


すぐに返事をしなかったのは悪かったかもしんないけど、でもこんな風に殴られる覚
えは無いと言い切ったら、アキラは相変わらずキツい目でヒカルを睨み続けたまま、
でもふっと視線を落とした。


「…………すまなかった」
「何が?」
「気持ち悪いと思ったんだろう? それに殴ってすまなかった」
「知らねぇ」


もうお前のことなんか知らないとヒカルが言った言葉に怒りなのか恥ずかしさなのか、
ずっと火照ったように染まっていたアキラの頬が白くなった。


「とにかくおれ、全然悪く無いから! 謝ったってもう絶対に許してなんかやらないか
ら」


そしてはっとヒカルを見たアキラの視線を完全に無視して上着をひったくると、そのま
ま脇をすり抜けるようにして皆が集まる部屋へとヒカルは去ってしまったのだった。




皆が居る場所にアキラはしばらく現われなかった。

来た時には全くいつもと変わらなかったけれど、よくよく見れば目尻が少し濡れたよう
になっているのに気が付いただろう。


一人取り残されたアキラは泣いていたのである。

思いがけず隠し続けていた気持ちを晒してしまい、それをよりによって当のヒカルに見
られてしまうとは夢にも思わなかった。


怒鳴り、殴ったのは自分でも逆ギレだったと自覚している。そうしなければ恥ずかしさ
のあまり死にそうになっていたからだ。


でもその代償としてヒカルから受けた冷ややかな目と言葉はアキラの胸を刺し貫いた。

(当たり前だ…あれがぼくだったらやっぱり怒る)

本当にヒカルはヒカル自身が言う通り何も悪くは無かったのだから怒って当然なのだ。

(もう終わりだ…)

始まってもいない。

一生表に出すつもりも無かった恋が思いもかけない形で終わってしまった。

ヒカルがどう思ったかはわからず、でもその後の自分の仕打ちで怒っていることだけは
確かだった。


(もう口もきいて貰えないかもしれないな)

そう思ったら悲しくて泣かずにはいられなかったのだった。



実際その後、解散になるまでヒカルは一度もアキラのことを見なかった。

よくあることなので誰も指摘しなかったが、刺々しい雰囲気の二人に皆また喧嘩したんだ
ろうなと暗黙のうちに思っていた。


アキラは冷静を保っているが、ヒカルはもう隠す気も無いらしい。はっきりと怒った顔をし
ていて剣呑なことこの上無かった。


「それじゃお疲れ様」
「また明後日な」
「記事を頼まれた人は明日棋院で打ち合わせがありますから」


様々な声が交錯する中、アキラはそそくさと帰ろうとしていた。表面は取り繕って必死に
堪えていたけれど、それもそろそろ限界に来そうだったからだ。


「お疲れ様でした」

お先に失礼しますとぺこりと頭を下げ、誰にも引き止められないうちに去ろうとしたその
手をしっかりとヒカルが掴んだ。


「おまえこの後なんにも無いんだろ、さっきの続き話そうぜ」

常にない低い声にアキラがびくりと肩を震わせる。

「ぼくは―」

雰囲気で察していた皆が一斉にあーあという表情になった。

「このまんま帰れるなんて思うなよ、ちゃんと話して行こうぜ」
「あの…進藤くん、喧嘩はなるべく―」
「喧嘩なんかしないよ、ただ単におれがこいつに滅茶苦茶怒ってるだけ!」


恐る恐る会話を割った芦原にヒカルは不機嫌そのものの声で返す。

「とにかく、おれこのまんまじゃ帰れないから!」

そして皆が止めるに止められないまま硬直している中をアキラはヒカルに引きずられるよ
うにして去ることになったのだった。




ヒカルはほとんど駆け足に近いような早足で歩くとカフェを見つけて飛び込むようにして入
った。


そしてアキラに聞きもせずにコーヒーを2つオーダーするとそのままむっつりとアキラをテ
ーブルの向こうから睨み付けた。


「ぼくが…悪かった」

さすがにもう逆ギレする気力も無くアキラはため息と共にヒカルに言った。

「確かにぼくの方が卑怯だったし、最低だ」
「そうだよ最低だよ」
「もう…許してはくれないのか」
「許せるわけなんかないだろっ」


突き放すような声が耳に痛い。

「おまえ、ちょっと自分がしたこと思い返してみろよ」
「だったら…もうなるべくキミの目の触れる所には現われないようにする。公式で当たった時
は申し訳ないけれどこれからは話しかけないようにするから」
「それで詫びになるなんて思ってんのかよ」
「だって! じゃあどうしたらいいんだ」


カッと頬が染まり再びヒカルを殴りつけたい衝動にかられながらアキラは悔しそうに言った。

「どうしたらキミは…キミの気は済むんだ…」
「そんなの―」


罵倒される。

アキラはそう思って身構えた。

でも思いがけずヒカルの怒鳴り声は飛んでは来ない。

「そんなの―わかるかよ」

ヒカルは言って大きくため息をついた。

「どうしたらいいのか、おれにももうわかんない」

それは拒絶なのかとアキラは思った。嫌悪かもしれず、それとも呆れられているのかもしれ
なかった。


でも項垂れて、組んだ手に額を預けているヒカルの様子は不思議なことにそのどれにも見
えなかった。


「こんなの…マジ…どうすりゃいいんだかわかんねえ」
「簡単…じゃないか、ぼくがキミから離れれば…」
「だから! それじゃなんの解決にもなんねーだろ!」


少なくともおれにはなんの解決にもならないと言うヒカルは苛立っている。そしてとても困惑
しているように見えた。


「キミが嫌だと思うことはぼくはしたく無い」
「散々ぶん殴ってくれてよく言う」


はあっと、大きく息を吐いてからヒカルはいきなり立ち上がった。そして上着を脱ぐとそれで
いきなりアキラのことを思い切り殴りつけた。


びしっと頬をグレーの布地で打たれ、アキラは痛みに顔を歪めた。

「これであいこな」

ヒカルに殴られるなど暴力の類を振るわれたのは初めてで、アキラはショックを受けたけれ
ど、続けてヒカルが言った言葉の方にアキラは更に非道いショックを感じた。


「それから、これ、おれはもう二度と着ないからおまえが持ってろ」
「そんなに…」


そんなにキミは怒っているのか、そんなにもぼくは嫌われてしまったのかとアキラは絶望で
目の前が真っ暗になった。


「ずっと、絶対に持ってろよ」

しかも捨てることは許さないというような口ぶりに更に気分が暗くなる。

「わかった―」
「それで明日…」
「明日?」
「明日はおまえ暇?」
「暇って言うか…予定は空いているけど」
「だったら朝9時におまえんちの最寄りの駅で待ち合わせな」
「え?」
「どっか行こうぜ、海でも山でも…」


あ、それとも遊園地とかの方がいいのかなと思い切り不機嫌そうに言う顔と言葉が噛
み合わない。


「進藤?」
「とにかく、そういうもんだろ、たぶん」


よくわかんないけどと、そして怒ったような顔のまま伝票を掴むと、くるりとアキラに背を
向けた。


「明日、絶対来いよ、忘れんなよ。来なかったら本当におまえのこと見限るぞ」

念を押して去るヒカルの顔は怒っていたが目の下がほんのり染まっていたような気がす
る。



「え……と」

殴られた頬は熱く痛い。でもその痛さよりもすぐに頬の熱さの方が勝って行った。

「今のは……え?」

何度も何度もヒカルが言った言葉を繰り返し思い出して、それでも信じられずアキラはヒ
カルが残した上着をじっと見た。


「そういうこと…なのか? 進藤」

信じられない。

信じたくない。

だってもしそれが間違いだったら辛くて生きられなくなりそうだから。

「でも…」

ヒカルは言った、間違い無く言ったのだ。

「明日…9時に駅……」

口もつけられず静かに冷めて行く二つのコーヒーを前にしたままアキラはぼんやりと考
えた。



明日は何を着て行こうかな――――と。



※意地っ張り同士の恋ということで。又は嵐のような恋(爆)海に行っても山に行っても遊園地に行っても大変そうだな…。
甘いムードとはかけ離れたデートになるかとは思いますがそれはそれで可愛いなあと思います。
2008.10.14 しょうこ