フィルム
季節は春なのに、まるで真冬のように寒く感じられた。
ホテルから一歩踏み出した途端、足元を吹き抜けて行った風に思わずぶるっと
身震いしてしまったくらいだ。
少し歩くとそこはもう雑踏で、たくさんの人々が歩いていたけれど、ぼくにはそれ
らの人々がものすごく遠く、途方も無いくらい離れて感じられた。
空は青く晴れていたけれど真っ白に見える。
光も音もとても遠くて世界中に進藤とぼく二人きりになったような、そんな気持ち
がした。
「…どうした?」
いきなり立ち止まったぼくを振り返り進藤が言う。
「もしかして気分でも悪い?」
問う言葉にゆっくりと首を横に振る。
「じゃあ何で―」
何で止ったん? と静かに尋ねるその顔を見詰めながら、きっとぼくは強ばった
表情をしていたと思う。
「進藤…怖い」
足元すら覚束ないような、そんな心許ない恐怖の中にぼくは居た。
「とても…怖い。怖くて…怖くてたまらない」
昨夜ぼくは進藤と二人で共に過ごした。
所謂そういうことをする所で、彼としたいと願い続けて来たことをしたのだった。
それはたまらなく幸せで、それ以外の感情が割り込むはずも無いと思っていたの
に、今こうして秘められた場所から出て来た途端、ぼくは怖くてたまらない。
彼と結ばれることでぼくは逆に世界の全てと切り離された。そんな気持ちになったの
だ。
唯一、彼を選ぶことで永遠の孤独を生きるような。そんな気分にさせられるとはぼく
は夢にも思わなかった。
「…おれも…怖いよ」
しばらくぼくの顔を見詰めた後でぽつりと進藤がそう言った。
「怖いけど、後悔なんかしてないから」
今もこれからもずっと絶対に後悔なんかしない。だからおまえもそんな気持ちに負け
ないでと、そしてこんな街中の、こんな雑多な人の中で彼はぼくの手を握ったのだっ
た。
「…メシ食おう、朝飯」
人間、腹が減ってるとろくなこと考え無いんだってさと、前を向き、ぼくを引っ張って歩き
出しながら彼が言う。
「…食欲なんか無い」
「無くても食う」
夕べおれを食ったみたいにさと言われて思わず怒鳴りつけてしまった。
「違うだろう!」
キミがぼくを食べたんだと、信じられないその一言は何故かぼくの足を軽くした。
まるで地面に張り付いたかの如く、一歩一歩を重くした、それが嘘のように自然に歩ける
ようになったのだ。
「…いつものおまえに戻ったじゃん」
歩きながら進藤が嬉しそうに言う。
「やっぱりおまえはそうやって怒鳴って無いと」
うるさいと再び怒鳴りながらぼくは気が付くと微笑んでいた。まだ胸の中には堪えきれな
いような大きな恐怖があるけれど、少なくともそれで歩けなくなることは無くなった。
「…駅前のカフェに行こうか」
「ん?」
「熱い…コーヒーが飲みたい」
「いいよ、おれもあそこのメニュー結構好きだし」
おれもなんか熱いもん飲みたいしと、その一言を聞いた瞬間、進藤がぼくと全く同じ感覚
に囚われていたことを実感した。
ぼく達二人は、みんなから離れた遠い場所に来てしまった。
昨日と今日は別物で、今日から続く未来もずっと―ずっと孤独なのだと知ってしまった。
(怖い)
やっぱりまだとても怖いけれど、それでもしっかりと手を握り、前だけを見て歩く進藤が居
るからぼくも歩けるとそう思った。
「…まだ怖い?」
しばらく経って彼が聞いた。
「…うん、怖い」
「やめるなら―」
「でも大丈夫、キミとなら」
キミと一緒ならどんなことにも耐えられるとぼくが言い、ぎゅっと彼の手を強く握り返したら
進藤は驚いたように振り返って、それから本当に嬉しそうに心の底からの笑顔をぼくに見
せてくれたのだった。
「―上等!」
鮮やかで切ない。
悲しくて愛しい。
それは記憶という名のフィルムの中にしっかりと永遠に焼き付けられた、ぼくと進藤が二
人して、人とは違う困難で歩きにくい道を選び取った瞬間だった。
※ヒカアキばんざーい。(テ/ム・レ/イさんの口調でどうぞ)。アキラばんざーい。完全/版五/巻ばんざーい。
発狂したわけではありませんのでご心配無く。
2009.4.4 しょうこ