曇り空




小さい頃から囲碁一色で、同年代の友人と遊んだ記憶が全く無い。

周囲に居るのはいつも大人達で、父を囲むようにして皆が囲碁の話をしているのを部屋の隅で
聞いているのが何よりも好きだった。


幼稚園には行っていない。

小学校でも中学校でも友人は居なかった。

勉強は嫌いでは無かったけれど、でも囲碁と関係の無いことを学ぶ間に少しでも囲碁のことを
学びたかった。


過去の人々の打った跡を辿り、今、現役で打っている人々の一手一手を目を凝らして見る。

少しの見逃しも無いように、少しのとりこぼしも無いように国内にも海外にも気を配り、一歩でも
先に進めるように常に頭の中には囲碁のことだけが詰まっていた。



一番好きなことは囲碁。

一番楽しいことは打つこと。

子どもの頃の一番の思い出は毎朝父に打って貰っていたこと。

そう答えると大抵の人は一瞬黙った後に気の毒そうな顔になる。


「そうですか、まさに囲碁一色の生活ですね」

でもそれでは普通の子ども達が味わうような遊びや楽しみはほとんど経験されずに過ごしたん
ですねと。


名人の家の子どもがそうなってしまうのは仕方無いとか、プロになるためにはそれくらいでなけ
ればいけないのでしょうねとか、取ってつけたようなフォローが後に続くけれど、でもぼくはそれ
が不思議でならなかった。


だってぼくは別に「普通の子ども」のように過ごしたかったわけでは無いから。

打つことが好きで、打つこと以外に楽しいことも好きなことも無い。そんなぼくが生まれついてか
らずっと囲碁まみれで生きてこられたのは幸せ以外の何者でも無いのにどうして皆は一様に気
の毒そうな顔をするのだろうか?






「ふうん、本当におまえ普通っぽいことなんにもして無いんだな」

夏の暑い日、二人で囲碁イベントの手伝いに出向き、受付の作業をしながら合間に進藤と他愛
無い話をした。


その時に目の前を走り抜ける子ども達を見ながら、自分が子どもの頃はどう過ごしていたかとい
う話になったのだ。


進藤は思っていた通り、いかにも子どもらしい子どもだった。

休みの日は友達と遊び回り、夜真っ暗になるまで帰らない。悪戯に冒険に、少しだけの悪いこと
も含めてあまりにも彼らしいのでぼくは思わず笑ってしまった。


そうしたら進藤はむっとしたような顔になって「じゃあおまえは?」とぼくに尋ね返したのだった。

「―ぼくは別に今とほとんど変わらないよ」

子どもらしい遊びは何もしなかった。友人も居なくて大人達に囲まれて打っていたと言ったら進藤
はいかにも感心したように先の言葉を言ったのだった。


ふうん、おまえらしいと。

「不健康と言えば不健康極まりないけれどね」

家に閉じこもり、外を走り回ることもしなかった。

休みの日でもどこに出かけるわけで無く、ずっと室内で囲碁に首まで浸かって過ごしていたのだ
から。


「うん…でもそれって最高にシアワセじゃん?」

思いがけない進藤の言葉にぼくは非道く驚いた顔をしていたと思う。

「え?」
「だって一番吸収のいいガキの頃にすぐ側に塔矢先生や他にもプロの棋士がたくさん居たんだ
ろう?」


「うん」
「それで学校の宿題をやりなさいとか、うるさいこと何も言われずに囲碁のことばっか考えていら
れたんだろう?」


それってすごく幸せじゃんかと言われてぼくはしみじみと進藤の顔を見詰めてしまった。

「本当に幸せだと思う?」

すると今度は彼の方が驚いたような顔をしてぼくの顔を見詰めたのだった。

「だっておまえ囲碁が好きだろ?」

ガキの頃からそれが一番楽しくて幸せだったんだろうがと言われて更に穴が開くほど彼の顔を見
詰めてしまった。


「なんだよ、違った?」
「いや、違わない」


そうだぼくはずっと楽しかった。囲碁のことだけ考えていられて誰よりも幸せだと思っていた。

なのにどうしてそれを後ろめたいことのように思うようになっていたのだろうか?

「キミは―?」
「へ?」


「キミもぼくみたいな子ども時代だったら良かった?」
「そうだなあ、おれガキの頃は落ち着き無かったから地獄だと思ったかもしんないけど、今だった
らきっと天国だと思う」


だっておれらにとってそれよりシアワセなことなんかないじゃんと言われてゆっくりと微笑みが顔中
に広がった。


「そう―そうだね」

ずっと囲碁まみれで生きて来た。

一番楽しいのは打つこと。

一番幸せなのは囲碁のことを考えている時。

そして一番好きなのは―――。

(囲碁と…)

囲碁と進藤。


人として自分は欠けているのかもしれない。非道くバランスの悪い育ち方をしているのかもしれな
い。


そんな生き方は間違っているといつか誰かに窘められることもあるのかもしれない。

それでも。

それでも自分はたまらなく幸せだと、隣に立つ進藤を見詰めながら、改めてぼくは「普通」の人生で
は得られなかっただろう幸せをゆっくりと噛みしめたのだった。




※アキラは夏休みの宿題を最初の一週間で終わらせてしまうタイプ。観察日記や絵日記なども几帳面に綴りますが
面白みには欠けていたかもしれません。対してヒカルはぶっちぎれるものならぶっちぎりで宿題の逃げ切りを考える
タイプ。先生も終いにはさじを投げたことでしょう。
ところで今回のタイトルは「曇り空」。ヒカルの一言を聞くまでのアキラの気持ちが「曇り空」です。そして聞いた後に曇
り空が晴れるかのようなそんな気持ちを味わったのだろうなと思います。
2009.7.17 しょうこ