自分を完璧な人間だと思ったことは無い。

でも完璧な人間になれたならいいとはよく思う。

だって未熟な自分は平気で人を傷つけるから。傷つけて尚平気で生きていける自分がたまらなく
厭わしい。




薄いブルーのシャツにコーヒーの染みが出来たのは、誰の悪意も無かった。

ただ座ったカフェの席で、前に座っただろう人のこぼしたコーヒーが目に付かないような所に残っ
ていて、それが気が付かないうちにぽっちりと染みついていた。


(あ…)

気に入っていたというわけでは無いけれど、そのシャツは下ろしたばかりだった。

母が先日銀座に行って、ぼくに似合うだろうからとわざわざ買って来てくれたものだった。

「アキラさんは色が白いから、こういう淡い色のものが似合うのよね」

決して安いものでは無くて、でも惜しんで着ないのも母に悪い。そう思って下ろして着たばかりだった
のでその染みはぼくの心にも茶色い消えない染みを作った。


(帰ってクリーニングに出せばいいかな)

母ならば染み抜きの方法を知っていると思うけれど、買って貰ったばかりの服を汚してしまったことが
申し訳なくてきっと自分は言わないんだろうなと思った。


(仕方ない)

でも腹が立つ。

その上、カフェから出て坂を上ろうとした所で走り下りて来た人に思い切りぶつかり、もう少しで転んで
しまいそうになった。


「バカヤロウ」

もちろん怒鳴ったのは相手で、ぼくでは無い。

「すみません」

反射的に謝って、でも心の中では思っていた。そっちがぶつかって来たのに――と。



大きな不幸は耐えられる。

人として我慢することを学んでいるから。

でも不幸とも言えない些細な不幸の積み重ねはどうだろう。

エレベーターが各階で止ったりとか、いつも入れている靴入れにもう他人の靴が入ってしまっていたと
か。
持って来るはずの書類を忘れて来たり、トイレに行ってうっかりと自分の悪口を聞いてしまったりとか。


それらは皆小さな棘だ。

一つなら気にせず抜いて忘れるだけなのに、ちくちくとたくさん刺さるとただ悪戯に心が苛立つ。




「塔矢くん、ちょっと―」

挙げ句の果てに手合いの後、事務所に呼ばれて予定外の仕事の予定を告げられてしまった。

「あ…でもその日は―」

父と母が中国に帰るので最後の日ぐらい皆で食事に行こうと話していた日だというのに、これではそれ
は到底無理で、それどころか旅立つ所を見送ることも出来ない。


そう伝えるとあっさりと事務所の職員は笑顔で言った。

「ええ、ご予定は知っていたので塔矢先生に伺ったんですが、別に構わないということだったので」
「―そうですか」


(もやもやする)

ぼくはもう小さな子どもでは無いし、仕事を優先するべきだけれど、手回し良く父に連絡をした棋院側に
も腹が立ったし、一も二も無くそれを了解したという父にもなんだか腹が立った。


「それではまた明日―」

打ち合わせをして挨拶をして部屋を出る。

でもなんだか非道く胸が騒いで気分が悪い。

外に出れば出たで、夏の日差しが厳しくて呼吸をするのも苦しくなってぼくは大きくため息をついてしま
った。


「あー…もう」

嫌だ。

何が嫌なのかはわからないけれど、嫌で嫌でたまらないとそんな気分で一杯だった。


細かな棘が全身に刺さったようなそんな苛立ちに包まれながら、ゆっくりと歩き出したぼくは坂を下りき
った所でふと止った。


蟻が一列になって歩いて行くのが見えたからだ。

(蟻だ)

一生懸命途切れることなく歩いて行く、その行列を見ているうちにぼくはふっと笑っていた。笑ってそれか
ら右足を上げ、その列の真ん中をゆっくりと踏んだ。


いい気味だと思ったわけでも無く、楽しかったわけでも無い。ただ気が付いたら踏んでいた。忙しなく歩く
蟻が靴の裏で確かに潰れた、そのことで少しだけ胸がすっと軽くなったのだ。



「あーあ」

ふいに声がして振り返ったら真後ろに進藤がいて、ぼくの足元をじっと見詰めていた。

「何か文句あるのか」
「別に―」


軽蔑するか、それとも呆れるのか、あまり見られたくない所を見られてぼくは内心穏やかでは無かったけれ
ど、でもそれを顔にだけは出さなかった。


「蟻ってさ…なんとなく潰したくなるんだよな」

おれも小学生の頃よくやったと呟いて彼はぼくの顔をじっと見た。

「…それが?」
「そんだけ」


ただそんだけのことなんだから、いつまでもこんな暑い所に立って無いでカフェでなんか飲もうぜと、彼の態
度はいつもと何ら変わらない。


「進藤」

蟻は潰された仲間のことを知ってか知らずか、ただ列を乱されたことに戸惑って、ぼくの靴の上を右往左往
しながら乗り越えて行く。


「キミはよくやったかもしれないけれど、ぼくは今日初めて潰したよ」
「ふうん」
「気持ち良かった。でももう二度とやらない」
「やってもいいんじゃねえ?」


言いながら、彼はぼくの靴の上を歩いている蟻を手で払い、それから足で列を乱した。

ちりぢりに乱れ、逃げる蟻を見詰めながら彼はうっすらと笑っていた。別に楽しそうでは無い笑いだったけれ
ど、それを見てぼくも同じように笑った。


「…やらないよ、もう」

たまらない、こんな気持ち。

何もかもが思い通りにはならなくて、でも逃げ出したい程の苦痛では無い。

やんわりと、じんわりとゆっくりと締め付け、絞め殺されて行くようなこの無力感とけだるさがたまらなくて時に
発狂しそうになるだけ―――。




「進藤」

角を曲がり、カフェのドアを押しながらぼくはふと彼に言った。

「いつになったらぼくは、こんなにも自分を持て余さずに生きて行けるようになるんだろう」
「さあね」


わかんねぇと言って彼はドアをくぐった。

「だってそんなこと、おまえよりもおれが人に聞きたいくらいなんだから」
「…そうか。そうだね」


キミも一緒、ぼくと一緒。

ぼく達は定まらない毎日の中、ただ必死で生きていく他は無いのだと悟ることは胸の痛いことだった。

でも―。

「なあ、おまえついでにメシも食っていかねえ? おれ腹減った」
「そうだね、キミが食べるならぼくも食べて行こうかな」


一人で無いことはただ一つの救い。

この痛みを抱えるのが自分だけでは無いと知っている、それはぼくが奈落にも狂気にも落ちない、ただ一つ
の心と体を支える杖。


「窓際ん所に座ろうぜ」

ピタサンドと、アイスカフェラテと、ベイクドポテトとデザート。

チキンサンドとホットコーヒーとサラダ。

トレイを持って進藤と向かい合って席に座る。

ぼくの靴にはまだ逃げ遅れた蟻が一匹だけ張り付いて困ったようにさ迷っていたけれど、ぼくはそれをそっと
床に落とすと、今度はもう踏みつぶすことはせず、去って行く姿を目で追うこともせずに温かいコーヒーを飲み
込んだのだった。



※世の中に残酷で無い人間が一体どれだけいるんでしょうね。
2009.7.25 しょうこ