薄氷
目が覚めると進藤の姿は無くて、ほっとするのと同時に非道く傷ついたような気持ちに
なった。
夕べ少し度を超して飲み、終電を逃した彼はそのままぼくの部屋に泊まり、気がついた
らそういうことになっていた。
ぼくは彼が好きだったし、彼もぼくを好きだと言った。
したたかに酔っていたこともあって、もし正気だったなら拒んだかもしれない指をぼくは
全く抵抗せずに寧ろ喜んで受け入れたのだった。
痛みと嬉しさと恥ずかしさと幸せ。
朦朧とする意識の中、様々なことを考えながら、でもたまらなく幸せで満ち足りていた。
ああ、例え酔った上でのことでもいい。
明日もし目が覚めて、彼が酔いの上での過ちだったとぼくに謝ったとしてもそれでもぼく
は構わないと、そう思ってしまうくらいそれは圧倒的な幸せだったのだ。
けれどいざ目が覚めて、夜の間優しく温かく自分を抱きかかえていた腕が無くなっている
ことを知った時にぼくは自分でも驚くぐらいショックを受けたのだった。
「馬鹿だな…こんなことくらい」
ある程度予想していたことでは無いかと、そう自分に言い聞かせても喪失感は拭え無い。
きっと彼はぼくより先に目を覚まして、そして隣で眠っているぼくと有様から成り行きを悟
り、慌ててぼくが目を覚ます前に帰ったのだろう。
ぼく達は子どもの頃からの親友で、唯一無二のライバルで、誰よりも心置けない相手で
はあるものの、彼の中にあったのはきっとそれ以上の気持ちでは無かったのだ。
酔いの挙げ句とんだことをしてしまったと彼は青くなったに違い無い。あれで結構真面目
だから、そんなつもりじゃなかったのだと今頃自己嫌悪に陥っているかもしれなかった。
「逃げ出さなくても良かったのに」
逃げなくても、もしキミがそういうつもりだったのならぼくもそれに合わせたのに。酔った挙
げ句馬鹿なことをしてしまったねと、このことは忘れてお互い無かったことにしようとそう言
う準備もあったのに。
(いや…嘘だ)
確かに彼がぼくの腰に腕を回した時、ぼくの頭は素早くそういうことを考えはした。
でも実際は両想いだったのだと、彼もぼくをぼくと同じ想いで見ていてくれたのだとその考
えだけにしがみつきたかったのだ。
「…だからこんなに落ち込んでいる」
(馬鹿みたいだ)
こんな話、男女ではよく聞く。酔った挙げ句―――でも相手の男には実はその気は無くて
…と。でもまさか自分がその立場に置かれるとは思ったことも無かった。
「…今度進藤に会ったらどんな顔をして話せばいいんだろう…」
友達として気にしていないと証明するために自分から話しかけた方がいいだろうか?
「でも進藤のことだから、きっと彼の方から何か言ってくるに決まってる」
『ごめん、おれ酔っぱらってたから…だからほんと悪かった』
ああ、もし目の前でそんなことを言われたら泣いてしまうかもしれないなと布団の上に半身
起きあがりぼんやりと考えた。
『そんなつもりじゃなかったんだ。どんなに罵ってくれてもいいから』
「これからも友達で居てくれなんて……」
言われてしまったらどうしようかと、考えていたら唐突にガチャリと玄関で扉が開く音がした。
バタバタと慌ただしく歩く音がして、それから寝室のドアが開く。
「あ、起きた?」
立っていたのは進藤で、ぼくは呆気にとられてしまった。
「進藤?」
「うん。起きたらなんか腹減っちゃってさ。朝飯買って来たんだ」
近くのコンビニに行ったら、おまえの好きなヨーグルトが無かったから一つ先まで買いに行っ
てたと、言いながら持っていたコンビニ袋を持ち上げて見せる。
「もう食う? それとももう少したってからがいい?」
「キミ…帰ったんじゃ………」
展開に頭が追いつかなくて呆然とつぶやくと進藤はきょとんとした顔でぼくの側にやって来た。
「なんで? 帰るわけないじゃん」
せっかくおまえとこうなって、1秒だって離れていたくないって言うのに帰るわけなんか無いじゃ
んかと髪に触れられ、キスされて正気に戻った。
「そうか…帰らなかったのか」
「うん、何? 帰って欲しかった?」
「まさか!」
違う、その逆だと言いながら目に涙が溢れて来た。
「わっ、何、なんだよ、どうしたんだよ」
泣き出したぼくに慌てふためく彼の姿は嬉しかった。ついさっきまで不幸なシナリオを自分で
描いていた分、幸せで夢のようで嬉しくてたまらなかった。
「なんだよ、本当はおれと…………えーと……嫌だったん?」
「違うよ、そんなわけないだろう」
「それじゃ…痛い? もしかして苦しかったりする?」
「……うん」
幸せすぎて胸が痛い。
痛くて苦しくて死にそうだと、だからぼくを抱きしめていて欲しいと泣きながら甘えるように胸に
頭をもたれると、彼はおずおずとぼくの体に腕を回し、それからぎゅっと強く抱きしめて、「大好
き」と一番欲しかった言葉をぼくに言ってくれたのだった。
※これ、もしもヒカルが戻って来なかった場合、アキラは平静を装うと思います。何も無かったかのように、酔いの上でのことと
ヒカルが気に病まないように自分のプライドをかけて必死で繕うと思います。大丈夫、こんなことでは傷つかない。呪文のように
繰り返しながら深く深く傷ついて行くんだろうなと思うので、戻って来てくれて本当に良かったと思います。
2009.8.14 しょうこ