海底



急な雨に降られて、店の軒先で雨宿りをした。

「どうする? どこかで傘でも買うか?」

互いに濡れた服や頭を拭ってそれから白くけぶって見える程の雨をため息をつきながら眺める。

「でも…この近くに傘を売っているような店は無いじゃないか」

大通りを一本外れた小道は半分が住宅で、後の半分には小さな会社や工場などが連なってい
る。今軒を借りているこの店だって布団屋で、歩いてくる途中にコンビニも見なかったような気が
した。


「困ったなあ…」
「いいじゃないか、ちょうど仕事が終わって帰る途中だったんだし」


後は棋院に戻って連絡事項を伝えてそれで帰ればいいだけなんだからと言われて、それもそう
だなと少し落ち着く。


「でもさぁ、なんか雨全然弱まらないぜ?」

もしこのまま止まなかったらどうすると言ったら塔矢はあっさりと「その時は濡れるのを覚悟で走
ればいい」と言った。


「…相変わらず男らしいことで」
「でもそんなに長くは降らないと思うよ。朝の天気予報では降るなんて一言も言っていなかったし」


夕立みたいなものだろうと塔矢は降り続ける雨を見ながらそう言った。

「それにしても…すっげえ雨」
「温暖化が進んでいるって言うからね、いつかそのうち日本も暑い国のようにこんな感じでスコー
ルが降るようになるかもしれないよ」
「あー、なんだっけ、北極と南極の氷が溶けて来てるんだっけ」
「…随分大まかな認識だな」


塔矢は笑い、でも実際そういうことだねと雨を見詰めたまま言った。

「日本は四季折々、移り変わりがあるのがいいのに、そのうち熱帯雨林になってしまうかもしれな
いね」
「よくわかんないけど…あんまり暑くなるのは嫌だなあ」
「この間はハワイに行きたいって言っていたくせに」


くすくすと笑われて少しむっとする。

「いいじゃんか、ああいう『暑い』は別なんだよ」
「うん……わかってる」


ざっと聞こえるのは雨の降る音ばかりだ。

裏道だからあまり車も通らないし、こんな降りだからもちろん人も自転車も通らない。

この軒を借りている布団屋だって中に灯りはついているのに人の姿が見えないのは、この降りで
客が来るはずは無いと奥で休憩しているからなのかもしれなかった。



「…なんだかあんまり雨がスゴイとこのまま沈んで行きそうな気がするよなあ」

話すことも無くてしばらく二人で黙った後に、ふとおれはぽつりとそんなことを呟いた。

「さっきの続き?」
「え?」
「北極の氷が溶けるとか、温暖化とかの続きの話なのか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど、こんなに激しく雨が降り続けるとなんかこう…」


まるで水の底にでも居るみたいな気分になってこねえ? と尋ねると塔矢は少し考えてから言った。

「そうだね、こうして二人だけで誰も居ない所で雨の音なんか聞いていると確かに海の底にでも沈
んだみたいな気分になるな」
「な? そうだろ?」
「うん……」


もし本当にそんなことがあったら困るけれど、想像する海底は青くとてもキレイだった。

「どうする? もし今このまま水浸しになっておれ達、底に沈んじゃったら」
「かまわないよ」


聞いたおれが驚く程の即答だった。

「キミと二人で沈むなら、川底でも海底でもぼくはいい」

そんなふうに二人で沈みたいとも思うよと言われて瞬間ぞくりと背中が震えた。

「だってそれ……死―」
「冗談だよ」


塔矢はにっこりと笑っておれに言った。

「まさか本気にしたんじゃないだろうね」
「してねえよ!ただ―」
「ただ?」
「ただ、おまえの言い方がなんか怖かったから―」
「そうか、それは悪かった」


でもぼくに自殺願望は無いからと笑いながら雨を透かして空を見る。

「少し明るくなって来たな。もうすぐ止むんじゃないか?」
「あ、ほんとだ、少し雨脚も弱くなってきてる」
「傘を買わずに済んで助かったね」
「あ―ああ、…うん」


それから程無く雨は止み、おれ達は何事も無かったかのように二人で軒から出て歩いた。

まだあちこち湿っている街並み。

水滴の落ちる木々の葉をながめていたらさっきの会話がゆっくりと脳裏に蘇った。

『かまわないよ』

キミと二人で沈むのなら――。

冗談だよと言ったけれど、あれは決して冗談では無かった。塔矢は本気で言ったのだとおれ
にはなんとなくわかってしまった。


おれと二人、水底に沈んでしまってもいいと、それを望む程に激しくおれを好きなのかと、そ
れはとても恐ろしく、でも震える程に幸せだった。


「あのさ―」
「ん?」
「おれも」


おれもおまえとなら川底でも海底でも沈んでもいいよと、そう隣を歩く塔矢に囁いたら、塔矢は
一瞬驚いたような顔をして、それから泣き笑いのように顔を顰めて、でも笑ったのだった。




※そうなれば幸せだけれども、そうすることが出来るわけでも無い。そしてそういうことをきっと本心から望んでいるわけでもきっと無い。
無いからこそ恐れと憧れが入り交じって想うものなんではないかなと。
2009.10.3 しょうこ