ガラス




洗っていて縁をシンクにぶつけた瞬間、かしゃんと軽い音がしてグラスはあっさりと割れてしまった。

「大丈夫? 指を切らなかった?」

母は真っ先にぼくの手を掴みあげ、何も傷が無いことを確認してほっとすると、何事も無かったよう
に「じゃあアキラさんは拭く方を手伝ってくれる?」と言って割れたグラスを片付け始めた。


綺麗な鹿と狐の模様の入ったそのグラスは、父と母の何度目かの結婚記念に父が母に買って来た
ものだという。


「…ごめんなさい」

薄い赤いガラスの上に彫り込まれた繊細な動物たちをぼくは見るのが大好きだった。

「あら…いいのよ? 泣かなくて」

父も母もそのグラスをとても大切にしていたのに――。

「いいのよ、本当に。ガラスは割れるものなのだから」

幾ら母に慰められてもぼくは涙を堪えることが出来なかった。

あれは何歳だったんだろう。

たぶん小学校に上がってすぐくらいの年だったと思う。

両親の記念の大切なグラスを不注意で割ってしまってから、ぼくはガラスをあまり好きでは無くなっ
てしまった。







「なあ、あれ一緒にやってみねえ?」

ヒカルがそう誘った時、アキラは一瞬躊躇ってそれから「いや、いい」ときっぱりと断った。

「あまりああいうものは好きではないから」
「そうかなあ、やってみると結構面白いと思うぜ。おれはああいうの結構好き」


ヒカルがアキラを誘ったのはサンドブラストの体験教室で、訪れたガラス工芸館の側に併設された
工房で行われているものだった。


観光客向けに一時間程でグラスや皿に絵や模様を入れられるというもので、ヒカルはそれをやりた
がったのである。


「だったらキミだけがやればいい。ぼくは見ているから」
「なんで? せっかく来たんだもんおまえもやろうぜ」


今日の記念にお揃いで作ろうと言われて更にアキラの眉間には皺が寄った。

「いや、いいよ。ぼくはガラスは嫌いなんだ」

温泉地で行われた囲碁イベント。

下っ端のヒカル達は今日も貴重な人手として駆り出されていて、それがようやく一段落ついた今、開
放されて合間の観光を楽しんでいたのである。


元々アキラはあまり出歩く方では無いし、普段年長者と来ている時にはホテルでゆっくり過ごしてい
ることが多い。


でもヒカルは例え自由時間が一時間だとしても空いている時間には周囲を散策したいタイプらしく、
アキラをほとんど引っ張るようにして連れて行くことが常だった。


なので今日もいつものようにホテルから近い観光施設を巡り歩いていたのだけれど、ふと立ち寄った
ガラス工芸館でヒカルがサンドブラストをやりたがったのだった。




「なんで? おまえ工芸館の中のガラスは綺麗だって見てたじゃん」

不思議そうな顔でヒカルが言う。

確かに展示してある物を見る分にはアキラはそんなにガラスを嫌いだとは思わない。繊細だし確かに
美しいと思う。


でもそれは自分の手が絶対に触れることが無いものだったからだ。

「確かに綺麗だとは思うけど―」

でもガラスは割れるから嫌いなんだとアキラが言った言葉にヒカルは更に不思議そうな顔になった。

「何―――当たり前なこと」

ガラスは普通割れるもんだろうと言うと、アキラは眉間の皺を更に深め「だから、それが嫌なんだ」と
言った。


「今日ぼくはキミと歩いていて楽しい。サンドブラストもやったらきっとすごく楽しいだろうとそう思う」

そして作ったグラスはきっと自分にとっては大切な思い出の品となり、使うのも勿体無いと思うように
なるかもしれないと。


「だから…嫌なんだ」
「なんで?」


おまえの言ってることさっぱりわからねえと言うヒカルにアキラはきゅっと唇を噛んだ。


昔割ってしまった繊細で美しいグラスが目の裏に浮かぶ。

鹿と狐とぶどうのつるが美しい文様として彫られていた薄い赤色のガラスのペアグラス。

あのグラスには両親の思い出や贈った父の想いがこめられていたはずだった。

でもそれはほんの一瞬の自分の不注意で壊れてしまった。

本当にちょっと縁がシンクに当たっただけで脆くも砕け散ってしまったのである。

父も母も一言もアキラを怒らなかったけれど、片方だけ残ったそれは、以後食器棚の奥深くに仕舞
われることになった。




「キミと…キミとお揃いで作ったグラスが割れたらぼくは嫌なんだ」
「じゃあ、割れにくいビールジョッキかなんかにするか?」
「だから! そういうことじゃなくて!」


どんなに注意していても、それが割れにくいものだとしてもガラスは他の物よりとても脆い。ふとしたこ
とで大切な思い出を自分の手で壊してしまうことがアキラはとても怖いのだ。


「どうしてわからないんだ。キミと一緒に作ったものが壊れてしまうのを見るのが嫌なんだって言ってい
るのに!」


楽しければ楽しいだけ。

大切にすれば大切にするだけ。

砕け散った時は胸に寂しい。

「ぼくは結構粗忽だから、きっといつか割ってしまうかもしれないから――」
「そうしたらまた作ればいいじゃん」


アキラの言葉への、ヒカルの答えは明快だった。

「…え?」
「ガラスが割れやすいなんてそんなの幾らおれがバカだってよっっっくわかってるって」


でもだからって折角こうして来ているのに何もやらないんじゃつまらないじゃんかと、半ば呆れたよう
に言う。


「おまえ頭良いのにそういう所バカだな。割れたらさ、また作ればいいんだって」

全く同じグラスは出来ないかもしれない。

でも何度でも割れたら割れたで、また一緒に揃いでグラスを作っていけばいいんだと、ヒカルの言葉
はあまりにもきっぱりしていて迷いが無かった。


「でも…」
「それにそれを言うなら、絶対に物を壊す可能性はおれのが高いんだぜ?」


ガキの頃、修学旅行で湯飲みに絵付けをして、出来上がって受け取ったばかりで落として割ったこと
もあるとあっけらかんと言われてアキラは絶句してしまった。


「そんな…すぐに?」
「うん、速攻」


だから今日これから作るかもしれないグラスも家に帰るまでに壊してしまうかもしれないと、でもそんな
ことで一々落ち込まないぜと言われてアキラはまじまじとヒカルの顔を見つめてしまった。


「キミは……落ち込まないんだ?」
「だってそんなのきりがないし、大体モノは壊しちゃっても楽しかったって記憶はちゃんと残るし」


だから全然へっちゃらと言われてアキラは目から鱗が落ちたような気持ちになった。

(そういえば…)

一つきりになり、使われることが無くなったグラスを久々に母が持ち出して来た時があった。

『お母さん、それ、使うんですか?』
『そうよ?なんで?』
『だってそれはぼくが一つ割ってしまったから…』


また割ってしまったら折角の記念の品が無くなってしまうと、暗に使わず仕舞っておくようにアキラは
母に勧めたのだ。


でも母は気にした風も無く『あら』と笑って言ったのだった。

『でも、たまには使ってあげなかったらもっと可哀想でしょう?』

割れてしまっても綺麗だったことだけはちゃんと覚えているから大丈夫と、その時は自分が気にしな
いように言ってくれたものと思っていたけれど、そうでは無かったのかもしれない。


壊すのを恐れて使わないよりも使った方がずっといいと。

それはヒカルが言っていることと意味的には同じようにアキラには思えた。

壊すことを恐れて思い出も作らないのはバカだと、確かに言われてみればそうなような気持ちになっ
た。


「本当に…割ってしまったらまた一緒に作ってくれる?」
「えー? おれが割った時におまえが一緒に作ってくれるなら」


何度でも一緒に作りたいなと、ヒカルの笑みと言葉は心からのものだった。

「じゃあ……作って……みようかな」
「マジ? じゃあ気が変わらないうちにやりに行こう」


もうそんなに自由時間も残っていないしと言われて、改めてアキラは自分がヒカルとの楽しい時間を
減らしかけていたことに気が付いた。


(そうだ。こんなふうに一緒に何かを作るなんて、なかなか出来ないことなのに)

子どもの頃の記憶を恐れて、思い出を作ることまでも自分は恐れてしまっていたのかとアキラは苦
笑したくなった。


「ほら、今ならすぐにやれるって。おまえ何にする?」

ジョッキ? グラス? ぐい飲み? と振り向いて言われてアキラは笑顔で答えた。

「グラスがいいな。普段使いも出来るようなやつ」
「わかった!」


そして二人して受け取ったのは、縁を固いものに当てたなら一瞬で割れてしまいそうな薄いガラスの
グラスだったけれどアキラはもうそれを持つのを恐れなかった。


(大丈夫)

グラスも思い出も壊れても何度でも新たに作ることが出来るとわかったからだ。

(進藤となら――)

ヒカルとならばきっと何度でも楽しい思い出を作ることが出来る。

アキラはヒカルと並んで座り、どんなデザインにしようかと考えた後、思いついたようにゆっくりと丁寧
にグラスに下書きを描き始めた。


鹿と狐と優雅に巻いたぶどうのつる。

それは今だ記憶に残る、子どもの頃の自分が割ってしまったグラスに彫られていた美しい模様だっ
た。




※ヒカルはきっと似ていないドラ●もんとか描きそうです。そのくせアキラの描いた鹿を見て「キリン?」
とか言っていらぬ怒りを買いそうです。2009.11.8 しょうこ