フィルム




いつ頃からかわからないけれど、おれの中には、ものすごく小さい『虫』が居る。

色とか形とかはっきりしないけれど、居ることだけは確かで、塔矢と居る時にだけそいつは
もぞもぞとくすぐったく体の中で動き出すのだ。




「まったく非道い碁だな。キミ、何も考えずに打っているんじゃないか?」
「そこまで言われる程非道くねえよ!」


碁会所で言い争いをしている時、棋院で取材を受けている姿を遠くで見る時、おれの中に
居る『虫』は小さな体を震わせてゆっくりとおれの内側を這い始める。


「そうだ、来週は手合いでここには来られそうも無いから、何か用事がある時は携帯に連
絡してくれないか」
「おれがかけてもいいん?」
「当たり前だろう?」


もぞもぞむずむず気持ち悪い。

でも塔矢と別れて一人になると途端にぴたりと動きは止まり、それもまたそれでおれは非
道く寂しい気持ちになるのだった。






ぼくの中にはいつ頃からか、小さな何かの『種』が在る。

ころりと固く意固地な程縮こまっていて、何の種だかわからないけれど、なんとなく地中深
く埋まって居るイメージが在る。


(これがぼくの碁の象徴なら、随分ぼくは未熟なんだな)

苦笑してしまう程に奥手なそれは、何故か進藤と居る時にだけ活気づくような心持ちがす
る。




「なあおまえ今度の土曜日暇じゃねえ?」
「土曜日は午後からなら空いているけど…何故?」
「んー、和谷の研究会があるんだけどさ、たまにはおまえも来ないかなって思って」
「ぼくが行ったらみんな嫌な顔をするんじゃないか?」


同年代の棋士に好かれていないという自覚だけはある。

「そんなことねーよ、おまえのその食えない性格と碁は別だもん、みんなおまえが来るっ
て言ったら絶対すごく喜ぶぜ?」
「もしそれが褒めているつもりなら随分失礼な褒め方だよ…」
「そうか? でも少なくともお前が来ればおれはすごく嬉しいから、来られるなら絶対来い
よ」
「…うん」


『種』の埋まっている土は固い。でも進藤と話していると、ほんのりと温かく柔らかくなるよ
うな気がする。


「もしダメでも大丈夫でも、どっちでも携帯に電話かメール入れてくれるか?」
「いいよ」


絶対に連絡するからと言ったら一瞬目を見開いて、それから全開の笑顔でにっこりと笑
った。


体の中で『種』が震える。少しずつ殻を破り、芽が出てくるような気配がある。

何の花かわからない。

そもそも花かどうかもわからない。

その『種』は進藤と居る時だけぼくの中で反応する。





何年も何年もおれの中に『虫』は居た。

尺取り虫のように這い回ったり、じっと留まって考えて見たり。

塔矢と打って話し、時を重ねるごとに少しずつおれの中で大きくなって行った。



「進藤、明日の夜、もし時間があったら一緒に食事に行かないか?」

もぞり、『虫』が頭を持ち上げた。

「マジ? おまえから誘ってくるなんて珍しいじゃん」
「緒方さんがね、美味しい店があるから奢ってくれるって言うんだよ」


だからキミもぜひと言われてしょんぼりと『虫』は頭を下げてしまった。

「うーん、行きたいのは山々だけど、緒方センセーにゴチになると後が大変そうなんだよな
あ」
「そんなことも無いと思うけど…じゃあ止めておく?」
「うん、おれよりもいっそ岡とか庄司とか連れてってやれよ。大人の世界ってものを知るい
い機会だから」
「…そうだねキミがそう言うなら彼等に声をかけてみようかな」


(あーあ)

もうダメだ。『虫』は冬眠したかのように縮こまってぴくりとも動かない。

「それじゃまたな」
「うん、また今度」


手を振って別れる後ろ姿が憎らしい。

(こっちを向け、塔矢)

少しは振り返れよと思うのに、塔矢はちらりとも振り返らず真っ直ぐに歩いて行ってしまっ
たのだった。






ぼくの中の『種』は随分と地中に近くなって来たと思う。

それはぼくが練れて来たのか、それとは全く別なことなのかはわからない。

でも少なくとも固い殻の先は破れ中から緑の芽が少しずつ地上に向かって伸び出してい
る。




「塔矢、これこの前の写真」

いきなり呼び止められてびっくりする。

「何?」
「何って、この間一緒に福島に行ったじゃんか。あの時の囲碁祭りの写真が出来たからっ
て事務所から預かって来たから」


言われて手渡されたのは、ずっしりと重みのある封筒だった。

「こんなに…他にもたくさんの方がいらしたのに随分撮ってくださったんだな」
「おまえ目立つし、結構アマの人とも打ってたからそれでたくさんあるんじゃねえ?」
「キミも貰った?」
「おれ?」
「うん、キミの写真も出来たら見たいな」
「おれはほとんど裏方だったから無いってさ。いいじゃん自分の写真はあるんだから」
「…うん」


でもぼくはキミの写真が見たかったなと思いつつ、もしかして小さくでも写っているものがあ
るのじゃないかと手合いの後に事務所にそっと寄って見た。


「え? この間の写真? そんなの進藤くんに頼んで無いけど?」

あまり大きなイベントでは無かったので主に撮ったのはその時に優勝したアマの棋士の写
真ばかりで手伝いで行ったぼく達の写真は撮らなかったと。


「貰ったの? 変だなあ。だったら誰かプライベートで撮ってたのかもしれないねぇ」

ぼくの中の『種』が微かに震える。

(じゃあ、一体誰があんなにもたくさんの写真を撮ったんだろう)

進藤だ、進藤が撮って嘘をついたんだと思ったら、不安なような居心地の悪い気持ちにな
り、伸びかかった芽が地中で曲がるような気がした。






おれの中の『虫』は蛹のままでずっと固まっている。

もういつからか思い出せないくらいそのままなので、もしかしたら羽化しないまま死んでしま
ったのかもしれない。


固く、化石のように固くなった蛹の中には一体どんな『虫』が居るんだろう?

キレイだったらいいけれど、もしかしたら醜い汚い色の蛾かもしれない。

それどころか得体の知れない代物かもしれないなと思うと少しだけ怖いような気持ちになる。



「え? 今日も塔矢来て無いの?」
「ごめんなさいね進藤くん。伝言預かっていたの忘れてしまって」


何かあったら連絡しろとおれに言っておいて、あいつは相変わらずおれへの伝言は余程
で無いと携帯を使わない。


(メールでもしてくれたら無駄足踏まなくて済んだのに)

仕方が無いので碁会所の常連さん達と打って帰った。帰り道は一人で寂しかった。

おれの中の『虫』はまだ当分羽化しそうにない。





ぼくの中の『種』はもう随分と芽を伸ばし、地上に出て柔らかい葉を幾つも生やした。

怯えるように少しずつ伸びて、いつしか蕾もついたけれど、でもそのまま時が止まったか
のようにそれ以上成長しなくなった。


根腐れしてしまったのかとも思うけれど、そういうわけでも無さそうで、だったら栄養が足
りないんだなと思うけれど、想像のような植物に何が良いのかわかるわけも無い。


空は青い。

風は心地良い。

日当たりも悪くは無いはずなのに蕾が何故開かないのかわからない。



「…あ」

指導碁の途中、胸ポケットの震えに気が付いて携帯を見てみたら市河さんからのメー
ルだった。


『今日、進藤くんが来ました。アキラくんが居なくてがっかりしていたわよ』

たまにはこちらにも顔を出してねと、いつもの簡単な文面で、でも読んでざわりと蕾が
震えたのが自分でもよくわかった。


(進藤…来ていたんだ)

なのにぼくに連絡をくれない。

来られないのか? とか、いつなら居るのかとか短くてもいい。メールでも電話でもし
てくれたならいいのに、何故か進藤は滅多なことではぼくにメールも電話も寄越しては
来ない。


「和谷くん達とは頻繁にやり取りしているくせに」

何故ぼくにだけそう素っ気ないのだと思ったら、ぼくの中の蕾はそのまま蕾ごと立ち
枯れるような気持ちがした。






「おはよう」
「お、おはようっ」


棋院の一階でたまたま塔矢と鉢合わせた。

「今日は寒いね」
「そうだな、でもまだ昼間は結構暑い時もあるし」
「キミは暑がりだから」


他愛無い話をしてエレベーターに乗る。

この時間、二人きりになるというのは珍しくて、そのせいもあって中ではなんとなく気詰
まりな感じになった。


「おまえ今日誰と打つんだっけ?」
「小林7段。キミも打ったことがある人だよ」
「ああ、あのくそ意地の悪い碁を打つ人な」
「意地が悪いって…棋士としては美点なんじゃないのかな」
「そうだけどムカついたから、おまえびしばしシメてやれよな」


「なんでぼくが」と笑いつつ、でも塔矢は意外なことに「そうだね」と頷いた。

「キミがそんなに苦戦させられたんだったら、しっかりそのお返しはしてくるよ」
「あ、いや…まあ…程々に」
「なんだ、けしかけておいて」


にこやかに笑う。なんでこいつの笑顔はこんなにも鮮やかなんだろうかと思う。

鮮やかでキレイでいつまでも見ていたい。

「どうした? 進藤」
「な、なんでも無い。それよりもう六階だけど?」
「ぼくは『週間碁』の編集部に寄ってから行くから」
「そうか…」


二人だけの時間はあっという間に終わった。ドアが開き一人だけエレベーターから出
て、下駄箱に向かいながら心の中で思う。


(もっとおまえと居たかったな)

もっとずっと。

出来るならずっと。

いつでも塔矢と一緒に居たい。

あの笑顔をいつもすぐ側で見ていたいと思った瞬間蛹が割れた。



思わず振り返る。

一瞬で羽を広げ美しく羽化した大きな蝶はまっすぐに塔矢に向かって飛んで行った。





棋院の一階で久しぶりに進藤に会った。

ここの所お互いに忙しくて碁会所でも研究会でもすれ違い続きばかりだったのだ。

「おはようっ」
「今日はちょっと寒いね」


他愛無い話をしながらエレベーターに乗る。

いつもだとこの時間、数人は必ず乗り合わせるのに今日に限って誰も居ず、途中で
乗って来ることも無い。


「今日、おまえが打つのって誰?」
「小林7段、キミも打ったことがある人だよ」


二人だけの時間が嬉しい。まともに進藤の顔を見て話すのはどれくらいぶりだろうか
と考えてしまった。


「とにかくおまえ、ムカついたからびしばしシメてやってくれよな」
「いいよ」


キミがそんなに苦戦させられたんだったら、そのお返しはしないとと、その瞬間何故
か進藤は非道く驚いた顔をした。


そしてそれから少しだけ赤くなって狼狽えたように「程々に」と言ったのだった。

「なんだ自分からけしかけておいて」
「だっておまえがそんなこと言うなんて思わなかったから」
「言うよ、キミに関することだもの」


キミを苦しめた相手には相応のことをしなくちゃねと、それはそんなに深い意味で言
ったつもりの言葉では無かった。


でも言った瞬間、本当にそう思っている自分に気が付いて驚いた。

(これって…)

どういうことなんだろうか? ライバルだから? 友人だから? だから進藤が苦戦
させられた相手には絶対に何をしても勝ちたいと思ったのだろうか。


「おい、もう六階に着くぜ」
「あ、ぼくは『週間碁』の編集部に寄ってから行くから」
「そうか」


言って進藤は一人だけ六階で下りて行く。二人だけの短い時間はあっという間に
終わってしまった。


「進藤…」

言いかけてぐっと言葉を飲み込む。

(何を言おうとしたんだぼくは)

言いたかったのは思いもかけなかったこと。

(もっとキミと居たかった)

少しでも長く、ずっとずっとなるべくキミのすぐ側に居たい。

そう思った瞬間にぼくの中の蕾が一瞬で大きく花びらを広げた。

驚く程早く、そして鮮やかに咲いた花は美しかった。





「塔矢!」

締まりかけのドアの前で振り返って塔矢を呼ぶ。

驚いた顔をした塔矢は慌ててドアの開閉ボタンを押して再びエレベーターのドアは開
いた。


その中に居る塔矢に向かって蝶が飛ぶ。

まっすぐに迷い無くおれの中の蝶が飛んで行った。





呼ばれて思わず顔を上げた。

半ば反射のようにドアの開閉ボタンを押すと、進藤が思い詰めたような顔をしてぼく
を見ていた。


「進藤…?」

ぼくの中の花が更に大きく花弁を広げた。





「えーと、あのさ、なんでも無いんだけど」

気が付いたらエレベーターに飛び乗って閉じるボタンを後ろ手に押していた。

「何?」
「あのさ、えーと…」
「……何?」
「よくわかんないんだけど、おれ…」


おれ、おまえのことが好きだと思うと言った瞬間、塔矢は泣き笑いのような顔をして
それからおれの一番好きな笑顔で笑った。


「ぼくも…」

ぼくもキミが好きだよと言われて思わず強く抱きしめる。






それは、長い長い時間をかけて羽化した蝶が、同じように長い長い時間をかけて開
いた大輪の花に留まった瞬間。


臆病で繊細な者同士がにじり寄り、やっと互いに手をかけることが出来た、まるで
フィルムに焼き付いたような色鮮やかで幸せな光景だった。






※この話は、本を読むような気持ちか、又は映像を見るかのような気持ちで読んでいただければと思います。
変形版。その時々でどんな話が出てくるのか自分でもわからないので時にこういう話もあります。
2009.11.19 しょうこ