セピア
ゆっくりとした朝に、いつも見る夢はセピア色だった。
実際にはあったはずの無い風景が、古い、懐かしい写真のような色合いで目の前に
浮かんでくる。
子どもの頃、進藤とふざけあい辺りを駆け回るぼく。
友達何人かと誰かの家に泊まりに行って、夜中に二人だけ眠れなくなって一晩中顔
を突き合わせ、ひそひそと話をしているぼくと進藤。
同じ学校に通い、授業や折々の行事を共に過ごして、成長してもやはり二人で時間
を重ねて行く。
同じ碁会所に通って、院生試験を受けて、やがてプロになってタイトルを賭けて争う
ようになって―。
途中からそれは微妙に現実にリンクするようになるけれど、それでもやはりそれは
現実では無い。
その証拠に背も伸びて、体つきもしっかりして、すっかり顔つきも大人びた夢の中の
彼はぼくに手を差し伸べると「一緒に帰ろうか」と笑うからだ。
『こんな街中で?』
『いいじゃん、別に恥ずかしいことじゃないし』
『恥ずかしいよ…』
ゆっくりとゆっくりと、暮れかかりの空の下、他愛の無いことを話しながら家に帰る。
ぼく達二人の住む家に。
それは懐かしい色合いに包まれた、ぼくが憧れ夢見ていた世界。
ぼくの知らない進藤の時間をぼくも共有したかった。
見たことの無い子ども時代を一緒に過ごしてみたかったとそんな願いが反映された
幻のようなものだった。
そして出来るならこれからの未来も共に生きてみたいと―――。
馬鹿みたいな妄想と、ずっと自分で自分を笑って来たけれど、でもそれでもぼくは
セピア色の夢を見るたびに幸せで胸が一杯になった。
いつかもし。
でも、たぶん。
現実に叶うことが無いとしても、夢を見ることだけは自由だったから。
雨上がりの空は薄い雲が一面に残り、でもその向こうに暮れかかりの空の色が明
るく透けて見えた。
「あ、雨上がったんじゃん」
棋院から出た所で進藤がぼくの肩越しに空を見上げるようにして言う。
「夕方には上がるって天気予報で言っていたからね」
「でもその割に当てにならない時があるからっておまえ傘を持って行けってしつこ
く言ったじゃん」
予報は昼くらいから夕方くらいまで雨が降り、その後晴れるというものだった。
「だってそれは、時間がずれることもあるし、駅からここまでだってささなければ結
構濡れてしまうし」
「でも結局使わなかったじゃん?」
傘立てから取ったのは折りたたみでは無くしっかりとした骨組みの大きめの傘。
ぼく達が二人で入るには折りたたみでは少しだけ幅が足りないからだ。
「文句を言うな、ぼくが責任を持って持って帰るから」
溜息をつきつつ傘を持とうとした手をそっと退けて進藤は自分で傘の柄を握った。
そして空いた反対側の手をそっとぼくに差し出しながら言う。
「手ぇつないで帰ろうぜ」
「こんな時間に? こんな街中で?」
「別に誰も気にしないだろ」
あの人達まるでホモみたいって笑うだけで誰も本気になんかしやしないよと笑う進
藤は想像の中の進藤とは少しだけ違う。
ぼくが夢に見ていた進藤よりもずっと不貞不貞しくて強かだった。
「…恥ずかしいよ」
「恥ずかしくなんか無い」
だっておれ達一緒に暮してる仲良しだもんと、そう言って有無を言わさず握ってし
まった。
そして躊躇う間も与えず外に出る。
雨上がりのひんやりとした空気。
薄く透ける空の色は夕暮れの赤から黄昏れた色に変わり、街の景色全体がブラ
ンデーのようなとろりとしたセピア色に包まれていった。
「…なんかこういうのも雰囲気あっていいよな」
「―うん」
長い間見ていた夢。
でも今はもう見ない。
だってぼくはもうセピア色の夢を見なくても、現実に進藤と二人、懐かしいような色をし
た景色の中を微笑んで歩くようになったのだから。
生々しく、でも温かく。
ぼくを包む彼の手は、夢の中で感じたよりもずっと優しく、ずっと力強く、ぼくを幸せな
気分にさせたのだった。
※なんてことは無いけれど、でもなんとなく幸せってこともありますよね。
些細なことであればあるほどかえって実現が難しいような気もします。 2008.11.17 しょうこ