静かの海




別に何があったいうわけでは無くて、ただ単に海が見たかった。


あれはいつだったか、電車に乗ってつり革に掴まりながらぼんやりと外を眺めていたら、
唐突にそれが目に入った。


大きな川を渡る鉄橋。少し離れた所を平行して在来線も走っていて、それのやはり鉄
橋が、光る川を背にしてぼくの目に飛び込んで来たのだ。


少し錆の浮いた鉄橋の緩やかなカーブの上には赤いペンキで大きく矢印のような物が
描かれていた。


元から描かれていたものか、誰かが悪戯で描いたものかはわからないが、ぼくは毎日
のように乗っている電車でその時初めてそれに気がついたのだった。


(まるで海へと言っているみたいだ)

矢印の指す方向は確かに流れて行く先を向いていて、そんなことを思ってぼくはくすっ
と小さく笑った。


「海へ…か」

海に行きたいなと、その瞬間に思った。

それも誰かと一緒にではなく一人で海を見に行きたい。

それはある種の衝動で、ぼくはそれを密かに、機会があれば実行する自分自身の目
標に決めたのだった。





そして、それをぼくが実行したのは矢印を見てから一年以上も経った一月の終わりの
頃だった。


それまでも行こうと思えば行けたのかもしれないが、なかなか一人きりで海に行くという
のは難しく、対局が詰まっていたこともあって伸ばし伸ばしになっていたのだ。


それがある日ぽっかりと空いた日が出来た。

進藤はその日用事があって、ぼくはその日何も予定が無くて、しかも天気が良い。

こんな奇跡のようなことはもう二度と無いだろうとぼくは背中を押されるような気持ちで
一人海に向かったのだった。




季節外れの海は人の姿がほとんど無くて、非道く静かで風が冷たかった。

打ち寄せる波を辿りながら歩いても、自分の足跡しか砂浜には残らない。

一度、散歩中らしい大きな茶色いレトリバーに追い越されて行ったけれど、その飼い主
はちゃっかりと堤防の上の方に居た。


波の具合が良くないせいか、どんな時期にも必ず見かけるサーファーもいなくて、本当
にこんな時に海を見に来る物好きは自分くらいだなと苦笑した。


(そういえばずっと前に、進藤とこんな海を見に来たっけ)

唯一動いている自販機を見つけて、熱い缶コーヒーを買って砂浜に腰掛ける。

青かった空は今は薄く雲が広がり初めていて、鈍く鉛色に変わろうとしている。

「あの時もやっぱりこんなふうに二人して缶コーヒーを飲んだっけ」

物も言わず並んで歩いて、そしてやはりこんなふうにして歩き疲れた頃に自販機で温か
いコーヒーを買って飲んだ。


普段あまり好きでは無い甘すぎるコーヒーが、何故か海では美味しく感じて不思議だと
思ったけれど、今飲んでいるコーヒーもやはり舌には美味しかった。


(寒いからかな)

寒ければどんなものでも美味しいと感じるのか。

「あの時は進藤と一緒だったから美味しいと思ったのかと思ったけれど」

そういうわけでも無かったのだなとそれを少し残念に思う自分が居る。

今日ここに来ることは進藤には話して来なかった。

それどころか付き合い始めてから、居場所を明かさずどこかに一人で行くということは
無かったような気がする。


「…夫婦でも無いのに」

いや、夫婦でもそんなことは無いのだろうか?

別に強制されたわけでも無いし、言わなければ言わないで大丈夫なのかもしれないけ
れど、彼と付き合いだしてから、ぼくは自分の時間のほとんどを彼と共に過ごして居る
し、居ない時には必ず所在を明らかにしてきた。


(もしかしてそれを窮屈だと思ったんだろうか)

あの時、あの電車から鉄橋を見た時、ぼくは確かに少し疲れていたかもしれない。

疲れて、だから一人で海を見たいと思ったのかもしれなかった。

「でも………」

違ったなと思う。

確かにぼくは一人で海に来てのびのびとした気持ちを味わった。

誰も居ない海を一人きりで歩き、砂浜に自分だけの足跡をつけることが妙に楽しくてた
まらなくて。


冷たい風に吹かれ、荒涼とした風景を眺め、犬に追い越されて行くことさえも何故か楽
しくて、青空から鈍色に変わった空と海も目に心地よくてたまらなかったけれど、もう充
分だと思う自分が片隅に居る。


もういい。

もう満足した。

だからもう帰ろう――と。

飲み終わった缶コーヒーの缶を持ってゆっくりと立ち上がると、ぼくは体についた砂を払
った。


「気持ち…よかったな」

振り返る海に、やはり人の姿は無い。

寄せて、返す波の飛沫を見ていたら、今度は無性に帰りたくなった。

帰って恋人の顔を見たくて見たくてたまらなくなった。

(そういえばさっきのレトリバー、進藤に少し似ていたな)

砂浜をまっすぐに嬉しさ全開で駆けて行く。あの後ろ姿はいつだったか一緒に来た時に
靴下を脱ぎ捨てて、波打ち際を走って行った進藤の後ろ姿によく似ていた。


「今度は春…もう少し温かくなってから来ようかな」

二人で。

たぶんもう自分は一人でこんなふうに海を見に来ることは無いだろうなと思いながら、ぼ
くは携帯の電源を入れた。


誰にも邪魔をされたくなくて、朝、家を出た時に電源を切ったままにしていたのだった。

途端に入る着信音。

メールと電話の着信が驚く程たくさん溜まっていた。

「芦原さんと……古瀬村さんと………マズイ…後は全部進藤だ」

どうやら進藤も予定が急に変わったらしく、ぼくに連絡を取ろうとしたらしい。それが全く取
れなくて、行方知れずになってしまっているものだから不安に駆られてかけ続けていたらし
い。


「面倒だな…」

一体なんと言って説明したものか。

思案している間にも着信がある。今度はメールでは無くて電話だった。

「…もしもし?」

出た途端、「バッ!」と怒鳴り声の途切れたような声がして、それから「塔矢?」と改めて声
がした。


「…うん」
『今、おまえどこに居るんだよ』
「ちょっとね、海に」
『海ぃ? なんで!』


放っておくと止まらなくなりそうな言葉の奔流を押しとどめて、それから一呼吸して微笑ん
で言う。


「愛しているよ」
『はぁ?』


誤魔化すなよと怒鳴るのに言う。

「誤魔化してなんかいない。キミのことを愛しているよ」

それを再確認するために海に来たのかな? と言ったらしばらく黙った後で、また怒濤の
ように怒鳴り出したので、ぼくはしばらくそれを聞き、進藤が怒鳴り疲れて息を継ぐのを待
ってから、微笑んで「帰るよ」とひとこと言ったのだった。



※ふっと時々どこか遠くに行きたくなることありますよね。電車に乗ってると特に。一人でどこかに行ってしまいたくなる。
2011.1.15 しょうこ