睡眠薬
通された部屋でまず目についたのは、海の見える大きな窓。
ガラス一枚隔てた向こうにはテラスがあって、そこで食事をすることも出来るらしく、白いテーブル
セットが置いてあった。
いつもは簡素なワンルームなのに今回は寝室が別にあると言う。
仕事で宛がわれたのにしては随分良い部屋だねと機嫌良く話していたのはそこまでで、隣接す
るベッドルームに足を踏み入れた途端にぼくは凍った。
「…進藤」
「ん?」
はしゃぎ気味にテラスに出て外を眺めていた進藤は、呼んでもすぐには来なかった。
「進藤…キミ、こっちのスタッフに部屋のことを聞かれた時になんて答えた?」
宿泊前に何やら連絡があったというようなことを確か彼は言っていたのだ。
「部屋ぁ? なんか聞かれたかな。ああ、そういえばツインが空いて無いからダブルでもいいかっ
て聞かれたような気がする」
テラスで風に吹かれながら、進藤は気持ち良さそうな声で言う。
「男同士でダブル?」
「別にいいじゃん。こっちが指定したわけじゃないんだし、空いて無いんだったら仕方無いし」
おまえも別に気にしないだろうと言われて、ああ確かに気にしないさと胸の内で呟いた。
「…こんな仕様になっていなければね」
ようやくぼくの口調の変化に気がついて、進藤が不審そうにやって来る。そして来るなり歓声の
ような声をあげた。
「なんだこれ、スゴイじゃん!」
ひゅっと口笛を吹いたのも無理は無い。
寝室のほとんどは大きなベッドで占められており、真っ白なシーツが鳥が羽ばたくような綺麗な
形に模様折りされていたからだ。
枕元には色鮮やかな花。ベッドの上には風で舞ったかのように花びらが散らされていて、甘い
香りが漂っていた。
恥ずかしくなる程、完璧なハネムーン仕様。
(だからチェックインの時にあんな顔をされたのか)
カウンターに居た従業員も荷物を運んでくれた従業員も皆一様に「おや」という顔をした。
リゾート地にスーツでなんて来ているからそれが珍しいのかと思っていたけれど、こういう理由が
あったのだ。
「すっげぇ。これって絶対、新婚用だよな」
こんなベタベタにセッティングするものなんだと、物珍しそうに落ちてる花びらをつまみ上げる。
「あ、これ本物じゃないや。枕元のは本物の花だけど、花びらはなんかいい匂いがする薄い紙
みたいなモンで出来てる」
「そんなこと、どうでもいい」
こんないかにもな部屋に進藤と二人で居ることが嫌だった。
「えー? 面白いじゃん。こんな部屋、泊りたくても普通泊れ無いだろう」
「…冗談じゃ無い、仮にも仕事で来ているんだぞ」
今日はこれからレセプションがあって、その後に地元の有力者の方達の指導碁をする予定が
ある。
その時に日本棋院を代表して挨拶をしなければならないのに、その挨拶文も部屋を見た瞬間
にどこかに飛んだ。
「スタッフのルームナンバーを覚えているか? 今すぐ行って部屋を替えて貰う」
苛立ちのままベッドルームを出ようとするぼくを進藤が捕まえる。
「待てよ、いいじゃん別にこのままでも」
「良く無い。こんな部屋、二泊もするんだぞ。まともな神経で泊まれるわけが無い」
カリカリするぼくとは逆に、進藤は苦笑しながらも落ち着き払っている。
「んー…、でも、そもそも部屋が無いからダブルでいいかって聞いて来たわけじゃん?」
そうで無くても観光客で一杯の南国リゾートは、今回行われる囲碁の親善イベントのために、い
つも以上に人で溢れている。
「それで良いって言ったのはこっちなんだし、それを今更文句つけられたって向こうも困るだろう
し」
そもそも替える部屋なんかどこにも無いんじゃないかと言う、進藤の言葉は悔しいけれど筋が通
っている。
「でも、だからって…恥ずかしいじゃないか、こんな部屋」
ホテルの人達は一体なんと思っただろう。
新婚仕様の、しかもこれはかなりグレードの高い部屋だろう、そこにどんなカップルが泊りに来
るかと思っていたらスーツ姿の男が二人やって来た。
「…ゲイのカップル?」
にっこりと邪気無く言われて殴りたくなった。
「それが嫌だって言っているんだっ!」
「嘘、単なる伝達ミスだろ。それに別にいーじゃん、もし何か思われたって」
進藤は言って靴を脱ぐと、ちゃっかりとベッドの上に寝そべった。
「あ、これかなり気持ちいいかも。ベッド広いし、いつもの仕事仕様の安モンと違ってすごく寝心
地いいし」
「それが―」
「普通だったらこんな部屋、おれらが泊まれるわけ無いじゃん。それをタダで泊らせてくれるって
言うんだから素直に楽しめばいいんだよ」
「だからって、こんな…」
「まあ、いいからおまえもこっち来いって」
ニコニコと笑われ、ベッドをポンポンと叩かれて頬が染まる。
「何を考えているんだ、後一時間もしないでレセプションが始まるんだぞ」
「いいじゃん。別になんにもしないから来いって」
鷹揚に笑ってひたすら誘う。
それを拒み続けている自分も馬鹿のようなので、ぼくは渋々靴を脱ぐと彼の隣に腰を下ろした。
「な? スプリングがいいよな、これ」
こういうのおれらも部屋に欲しいよなと言われて更に頬が赤くなる。
「…こんな大きなベッド、入れられるわけが無いだろう」
「うん、だからまあ、夢の話」
いつかプライベートでもこんな大きなベッドで寝たい。そしてこんなふうにゆったりと、海を眺めて
暮らすことが出来たらもっといいんじゃないかと。
「海?」
「おまえって、本当に頭に血が上ると視野が狭くなるのな」
進藤は笑いながらぼくを無理矢理引き倒すと、肩を抱くようにして顔を足元の方に向けた。
「…あ」
足元には大きく窓が設えてあった。
隣室とは窓の方向が違うのと、彼の言う通りベッドに釘付けになっていたので室内を見渡す余
裕が無かったのだ。
「海が…近い」
綺麗だった。
張り出した構造になっているのか、こちらの方が隣室から見るよりもはるかに海が近かった。
「さすがに新婚用は違うよな。向こうの窓は他のホテルとか、別の棟とか見えるけど、こっちは
視界に何も無い」
本当に海と空しか見えないようになっている。つまり逆に言えば誰からも覗かれないで景色を
楽しめるようになっているのだ。
「こんな青、沖縄でも見たこと無いなあ」
しみじみと進藤が言うのは海の色のことで、確かにぼくもこんな色の海を見るのは初めてだっ
た。
「コバルト…いや、もっと透明かな」
心も体も青に染まるような、そんな気持ちになって来る。
「どうせ泳ぐ暇なんか無いんだからさ、景色くらい楽しんで帰っても悪く無いんじゃないか」
気がつけば進藤はぼくの頭を撫でている。宥めるようにそっと何度も優しく指が触れて行く。
「それは…そうかもしれないけれど」
「おまえのスピーチって何番目くらい?」
「さあ、たぶん始まってこちらの代表の挨拶が終わった次くらいだと思うけど」
「そうか、それじゃ遅刻して行ったら怒られるな」
だったら今はこれで我慢と、首筋に口づけられて振り向いた。
「進藤! 仕事とプライベートは!」
ケジメをつけろと言う前に怒鳴りかけた唇を温かい唇で塞がれる。
「わかってるって、夜まで待つよ」
「わかって無い! キミは全然わかって無い!」
「わかってる。おまえがわかって無いって思っているよりは、もう少しちゃんとわかっているか
ら」
だからそんなに怒るなよと、撫でられる指に怒鳴る気が失せた。
静かだった。
窓から聞こえてくる波の音と風の音、そして互いに呼吸する微かな音しか耳には入って来な
い。
「寝る時にカーテンを閉めないで寝たら、きっと凄く綺麗な朝焼けが見られるんじゃないかな」
「………うん、そうだね」
長旅の疲れと部屋を見た時の瞬間的な怒り、それらが彼の指で解けて行く。
あと少し、もう少ししたら身支度を調えて会場に向かわなければならないのに、ふいに猛烈
な睡魔に襲われた。
だるくて、気持ち良くて、気持ち良くて、だるくて、どうしても瞼が閉じて行く。
「…キミの指が悪い」
「はあ?」
「…気持ち良すぎて眠りそうだ」
「いいじゃん眠れば」
おれがちゃんと起こしてやるからと、甚だ信用出来ないことを進藤は自信満々言い切った。
「本当に少し寝ろよ。飛行機でもおまえ、ほとんど寝ていなかったじゃんか」
「緊張していたんだ。今日は緒方さんも誰も居ないしぼく達だけだから―」
少しでも失礼があってはならないとスピーチも散々考えて来たのだ。
ああ、それなのに。
「キミみたいにどんな所でも寝られる神経の太さが羨ましい」
「はいはい、おまえは繊細ですよっと」
そして「おれは心臓に毛が生えてマスから」と茶化して笑う。その笑い方が好きだなと思っ
た。
「…緊張が解ける」
「ん?」
「キミと話していると緊張が解けるって言ったんだ」
「そうか、それは良かった」
とにかく本当に時間になったら起こしてやるから少しでも眠った方がいいと言われて目を閉じ
た。
「なんかここ、本当にマジで新婚向けみたい」
ぼくの頭を撫でながら進藤がぽつりと独り言のように言う。
「…そうか」
「そこからは見えないだろうけど、こっち側に小さなテーブルがあってさ、ウエルカムフルーツ
と一緒にハート型のケーキなんか置いてある」
「…ふうん」
「シャンパンとグラスも用意してあるぜ?」
「…どうせこれから飲むんだから」
飲みたければ一人で飲めと言ったら進藤はおかしそうに笑った。
「飲まないよ。戻って来てからおまえと二人で飲むんだから」
つまんない窮屈な仕事をさっさと終わらせて、部屋に戻ったら目一杯新婚仕様を楽しもうと。
「ケーキ食って、シャンパン飲んで」
そしてこの思い切り大きなベッドを活用してやろうぜと言うのに怒鳴ろうとして、でも何故か口
元は笑ってしまった。
「………うん」
「言ったな? 約束したからな」
してないよ。そんな約束ぼくはしてない。
頭の隅で思いつつ、でもぼくは心地良い眠りに引き込まれて行った。
ほんの少し、うたた寝程度にしか眠ることは出来ないだろうけれど、あまりにも心地良くて抵
抗出来ない。
「塔矢?」
閉じた瞼を風が撫でる。
波の音も変わらずに響いて来る。
ああ本当に新婚旅行でこんな所に来られたら良かったのに。
言葉に出したつもりは無かったけれど、頭を撫でる指が一瞬止まってそれから進藤の声がし
た。
非道く優しい声だった。
「うん、いつか本当にマジで来ような」
二人っきりで新婚旅行に――。
花なんかいらない。礼服も着ない。
ケーキもシャンパンも祝福も何もいらないから。
こんなふうにいつか二人きりで過ごせたら、それはきっと天国のように幸せだろうと、気怠い眠
りに身を委ねながら、ぼくはぼんやりと思ったのだった。
※南国リゾート囲碁ツアーなんてあったら素敵。でもアキラ、暑い所でもスーツびっしり着込んでるんだろうなあ。
2011.1.26 しょうこ