そして誰もいなくなった・おまけ



運ばれて行く時に見た天井をぼんやりと覚えている。

綺麗な木目の和室の天井からゆっくりと移動され、長い廊下を運ばれた。

ああ、ホテルの天井ってこんな色で、思っていたよりも曲がりくねっているんだなと、思うとは無しに
思っていた。




進藤。

進藤、進藤と、ずっと誰かがおれの名前を呼んでいて、誰だろうと思い、すぐにあいつしかいないじゃ
んと思って笑った。


(こんな泣き出しそうな必死な声でおれを呼ぶヤツなんか塔矢の他にいねーよ)

きっとあいつ怒ってるんだろうな。

大事な対局をぶちこわしにしたって、台無しだって怒っているに違い無い。そしてこんなふうに倒れる
なんて健康管理が出来ていないと、それも怒っているのに違い無いのだった。


「…それでも打ったじゃん」

倒れる前の最後の一手、決して適当な所に置いたんじゃない。あれでもちゃんと考えて、考え抜いて
打ったのだ。


「何か言ったか?」
「打ったじゃんって言った。おれ、ちゃんと打ったじゃんて」


相変わらず、ぐるぐるとホテルの中を引き回されながら、たぶん側に居るんだろう塔矢の問いにおれ
は答えた。


「おまえが…鬼みてーにおっかない声で呼ぶから、ちゃんと川渡らずに帰って来たじゃんか」
「当たり前だ!」


びっくりするほどの大声に咎めるような声が被さる。たぶんきっと、意識が混濁している病人を怒鳴る
なんてって責められてるんだろうな。可哀想に。


意識を無くして倒れたおれを無理矢理呼んで、一手打たせたそのことも、きっと散々悪く言われるに
違い無い。


『塔矢アキラは血も涙も無い鬼だ』と。

(まあ確かに鬼なんだけどさ)

それでもこれ以上無いほど優しい鬼だ。そして愛しくてたまらない、泣き虫の情の深い鬼でもある。



十段戦五番勝負の第五局。

塔矢がタイトルを守り抜くか、おれがその懐からかっさらって行くかの大切な一局を疎かにしたつも
りはまるで無い。


一手、一手、それこそ命をかけて打ったし、もちろん最後まで打って勝つつもりだった。

それが出来なかったのは体の方が持たなかったからで、それはつまり塔矢が言う所の健康管理の
問題なんだろう。


神経をすり減らす棋戦の重なりと、遠方での仕事。もう下っ端の時のような細かな仕事は入って来
ないが、代わりに責任と重圧がのしかかってくるような仕事が増えた。


それに負けたとは悔しくて思いたく無いけれど、風邪のウイルスが後押ししたことだけは確かだろう。

この日、朝からおれは体調が悪く、朝食もほとんど摂れなかった。

それでもなんとか盤の前に座れば集中して打てていたものが、午後になってからふいに視界が暗く
なった。


あ、マズイ。

思った時には体がもう利かなくなっていて、気がついたら倒れていた。

しかも無様なことにたった今、石を置こうとした碁盤の上に倒れたのだった。

じゃらと石のこぼれる音を聞きながら、ああ、塔矢のヤツ怒るだろうなあと思った。

どうして後10p脇に避けて倒れないんだとか言いそう。

みんなが駈け寄って来るのが解る。

起こしてくれたのは窪田先生で、その向こうで記録係の女の子が真っ青な顔でこちらを見ているの
がちらりと見えた。


ああ、あの子、今日が初めての記録係だって聞いたのに申し訳無いなと思った。

そしてその手前、俯きながら必死にこぼれた石を集める塔矢の姿を見て、おれは苦笑してしまった。

バカ、おまえそんなんしたら、またボロクソ言われるのに――。



「進藤、キミの番だ」

塔矢がおれを呼んだのはどれくらい後のことだろう。朦朧としてよく解らないけれど、きっと倒れてか
らそんなに経ってはいなかったんだろう。


「進藤、キミはこの大切な一局を放り出して寝ているつもりか?」

そんなこと絶対に許さないと、責める口調なのにその声音は泣いている。

「進藤!」

頼むから、お願いだから行かないでくれ。ぼくの前に戻って来てくれと、声にならない声にも呼ばれ、
おれはよろよろと起きあがった。


その瞬間の大きく目を見開いたあいつの顔をおれはきっと一生忘れ無いと思う。

「…進藤」

這っていって盤の前に行き、石を掴む。

「おまえ…」

おれが崩してしまったはずの盤上はちゃんと綺麗に並べ直してある。

おれは倒れる前に考えていた場所に石を置いた。

ぱちりと、響いた音にほっと息を吐く。

「…本当に」

マジ、おまえ、キッツイなあと言った所までは覚えているが、その後は真っ暗になってもう何も解ら
なくなってしまった。


誰かがぎゅっとおれの手を握ったのは解ったし、それが塔矢だろうというのも解ったし、ずっと名前
を呼ばれているのも解った。


解ったけれど、何もすることは出来なかった。

次に気がついた時は運ばれて行く最中で、薄く開いた目から見た天井と、移り変わって行く景色が
面白いなあなんて暢気なことを考えていた。


その次に気がついたらもうそこは病室で、おれは点滴なんかされながら寝かされていて、その手に
は塔矢がすがりついていたのだった。




「…塔」

言いかけてやめた。

おれの手にすがりついたまま、伏せるようにして眠っている塔矢の頬には涙の筋がはっきりと残っ
ている。


どれだけの時間泣いたのか、そしてどれだけの時間側に居てくれたのか、考えたら胸が塞がって
切なくて愛しくてたまらなくなった。


「…ありがとな」

おれを生かしてくれてありがとうとそっと呟き、反対側の手で一度だけ頭を撫でて再び静かに目を
閉じた。



きっと誰にも解らない、こいつとおれだけの絆。

誰に理解されてもされなくても関係無い、まっすぐにおれを―おれだけを愛するこいつのことをお
れも守ってやらなくちゃ。


(取りあえずは今回のことのフォローだな)

人非人、鬼、冷酷な人でなし。そこまで勝ちに拘るのかと容易に想像出来る悪意の礫から庇って
やりたい。


(いや、それよりも先に)

目を覚ましたら真っ先にこいつに言ってやろうとそう思った。

「…愛してる」

おまえのことが大好きだよと。



※「そして誰もいなくなった」の続きというかおまけです。この後、お昼に出た病院食を結構がつがつと食べてヒカルは皆に呆れられます。
この段階ではアキラが投了したことを知らず、知ってから「バカだなあ」と言ってぶん殴られます。
でもまあそれも愛ってことで。 2011.4.26 しょうこ