そして誰もいなくなった



その日―。

五月の第三金曜日が、私の記録係として初めての仕事の日だった。

塔矢アキラ十段に進藤ヒカル八段が挑む、十段戦五番勝負の第五局。お互いに二勝二敗で、この最終局で
決着が着くという大切な一局、本来なら私のような下っ端が記録係をするようなことは無いのだけれど、第四
局まで記録係を務めた小倉桜子三段が急病で、他に代わりが居なかったのだ。


緊張しつつ赴いた対局場、部屋の中は既にぴりぴりとしていて、両棋士の登場によって空気は痛い程に張り
詰めた。


「お願いします」
「お願いします―」


まだ二十歳。

同い年で親友同士だという二人の噂はいつも棋士仲間から聞いていたけれど、こうして間近に姿を見るとそ
の迫力に圧倒される。


(私とそんなに変わらない年でこんな場所にいるなんて)

羨ましいというよりは怖いというに近かった。

ぱちり、ぱちりと静かな部屋に石を置く音が響き、私はそれを書き留めることに必死になった。

間違うまい、書き誤るまいと神経を集中していたので打ち掛けまではあっという間だった。ほどけた空気に思
わずほっと息を吐くと、立会人の窪田先生が「お疲れ様」と声をかけてくれた。


「記録係、初めてなんだって? タイトル戦は緊張するでしょう」

労いの言葉に思わず頷く。

「はい。もし不注意で物音をたてたりしたらと思うと怖くて…書きながら手が震えました」
「大丈夫。少しくらい物音をたてても目の前の二人には何も聞こえ無いから」


対局中の棋士の集中力は半端では無い。自分も打つから解りはするのだが、それでもこんな大切な一局を
ほんの少しでも邪魔したくは無かった。


「塔矢十段も、進藤八段も凄いですね」
「あなただってプロとして打っているんでしょうに」
「いえ、同じプロでも全然違います。今回間近で見ていてよく解りました」


見えない糸が部屋中に張り巡らされ、それがキリリと音を立てるくらい引き絞られているかのようだった。

「もし今私がお二人のどちらかの前に座ったとしたら、もうその時点で気合いで負けていると思います」
「まあ…あの二人はちょっと特別だからねえ」


それでも、だからってあなたが劣るということは無いはずですよと窪田先生の言葉に私は黙って頷いた。



そして打ち掛けが終わり、始まった午後の対局。

私はふと、進藤八段の顔色が非道く悪いことに気がついた。

(そういえば朝から顔色があまり良く無かった)

光線の加減かと思っていたのだけれど、こうして昼の明るい光の中で見ると顔色は更に悪くなっていて、青
いというよりどす黒い。


それによく見てみると全身に汗をかいているようだし、呼吸も心なしか苦しそうだった。

大丈夫なのだろうか?

日々、進藤八段の名前をタイトル戦で見ないことは無い。大きな棋戦では必ず上位に居て、今日十段戦を
戦って翌々日に、天元戦のリーグ戦に赴くという信じられないタイトなスケジュールで動いていたりするのだ。


それはもちろん対局相手である塔矢十段も同じなのだけれど、今回進藤八段は棋聖戦も重なっていて、一
昨日北海道から帰って来たばかりだったのだ。


(風邪気味だっていう話も聞いたけれど)

あれは絶対発熱している。それも相当高い熱だろうと、そう思った瞬間に唐突にぐらりと進藤八段の体が揺
れた。


「あっ」

思わず声を上げたのと同時に碁盤の上に突っ伏すようにして進藤八段が倒れた。

ばらっと盤の上から石が落ち、見学していた人達が慌てて立ち上がる。

「進藤くん!」
「進藤八段! どうしたんですか」


窪田先生も駈け寄って、倒れた進藤八段の体を引き起こして畳の上にそっと寝かせる。

「意識無いよ」
「呼吸…止まってるんじゃないか?」


救急車をと部屋の中を怒声が飛び交い、慌ただしく人の足が行き来した。

そんな中、私は唖然として塔矢十段を見つめていた。

親友であり、たった今まで打っていた進藤八段が倒れたというのに、塔矢十段はそれでバラバラになった
碁石を拾い集め、盤の上に一人で並べ直していたからだ。


(なんて人なんだろう)

そこまでの進行は塔矢十段がやや優勢だった。ほとんど終盤で、けれどまだどちらが勝ちとは言い切れ
なかった。


(そこまでして勝ちたいんだろうか)

目の前で今、親友が死にかかっているかもしれないというのに、それでもその事実よりも盤上の勝負の
方が重要なのだろうかと思ったら、先輩であるにも関わらず、激しい怒りが沸いて来た。


「非常識じゃないですか」

気がついたら思わず言ってしまった。

皆は進藤八段の側に居て気がつかなかったようだけれど、塔矢十段には間違い無く聞こえたはずだっ
た。


それでも手を止めない。

「進藤八段、倒れたんですよ。心配じゃないんですか?」
「キミには関係無い」


ぽつりとひとこと言って、塔矢十段は石を並べ続けた。

「それは関係無いかもしれないですけど―」

むっとして言い返そうとした時に、塔矢十段の指が止まった。中断した所まで並べ直し終わったのだ。

「進藤」

きっちりと碁盤の前に座ったまま、塔矢十段が通る声で呼んだ。

「進藤、キミの番だ」

ざわと、部屋中の人が塔矢十段を見た。

「塔矢くん、いくらなんでも―」
「進藤、この大切な一局をキミは投げ出して寝ているつもりか」


そんなこと絶対に許さないと響く声に、皆の視線が非難の色を帯びて塔矢十段に注がれた。

けれど塔矢十段は気にしない。

「進藤! キミの番だと言っている!」

叩き付けるような声にも進藤八段はぴくりとも動かない。まさか本当に亡くなってしまっているのではと、
私はとても怖かったけれど、塔矢十段は眉一つ動かさなかった。


「進藤っ!」

それはまるで悲鳴のような大声だった。

――と。

視界の隅で進藤八段の指が微かに動いた。

投げ出された腕の先、畳の上に置かれた指がぴくりと動くと、それから閉ざされた瞼が開かれて、進藤
八段は起きあがったのだった。


「進藤くん、大丈夫なのか?」
「君、まだ寝ていた方が」


そんな声を聞いているのか聞いていないのか、よろよろと碁盤の前に這うようにして近寄って行くと、碁
笥から石を掴んで盤の上にぱちりと置いた。


「…キッツイなあ、おまえ」

そして目の前に座る塔矢十段を見つめると、にっこりと笑って、それから再び倒れたのだった。

「進藤くんっ!」

わっとまた皆が騒ぐ中、塔矢十段が私の方を向いて何か言った。

「―――」

最初気付かず、繰り返し言われて振り返った。

「負けました」
「え?」
「投了します。ぼくの負けです」


ちゃんと記録して下さいねと、念を押すように睨み付けて、それから塔矢十段はいきなり座布団を蹴る
ようにして立ち上がった。


「進藤っ」

つい今まで。

ほんのついさっきまで、あれ程冷静で表情一つ変えなかったのに、塔矢十段は泣いていた。泣いて進
藤八段の側に駈け寄ると投げ出された手をしっかり掴んでそのまま二度と離さなかった。



その後、到着した救急車に塔矢十段は進藤八段と共に乗り込んで行ってしまった。

残された私は呆然と対局場を眺め、それからはっとした。

塔矢十段の座っていた座布団の端が破れている。破れる程強く掴んで感情を殺していたのだと、今頃
になってやっと悟った。


「あの人―」

冷酷なんかじゃない。自分の勝ちに拘っていたわけでは無かったのだと今更ながらに思う。

(あれは進藤八段のためだったんだ)

明らかに尋常では無かった進藤八段の倒れ方、呼吸は確かに一度は止まったのでは無いかとそう思
う。


だからこそ塔矢十段はわざわざ石を並べ直したのだ。

駈け寄りたい、その気持ちを抑えて石を並べ、戻って来いと進藤八段を呼んだ。

死なせないためにやったのだとそう思ったら横っ面を叩かれたような気持ちになった。


「今回はとんだことになっちゃったね」

あなたも初めての仕事なのに大変でしたねと窪田先生に言われて私はそっと首を横に振った。

「そんなことありません。勉強をさせていただきました」
「勉強?」
「はい。心の強さを学ばせて頂きました」


進藤八段も塔矢十段も、どちらも素晴らしい方でした。同じ棋士として尊敬しますと言った私に窪田先
生は黙って頷き、そして静かに微笑まれたのだった。




ハプニングで終わった十段戦第五局。塔矢十段の投了により、進藤八段がタイトルを獲得した。

新十段となった進藤八段は、一週間の入院の後無事に復帰し、現在、名人戦予選にて塔矢九段と対
局中である。




※アキラは結構ボロクソ言われたと思います。その場を見て無い人は解らないからね。
見ていた人にも真意は解らなかったかもしれないし。
ヒカルは過労。入院中はべったりアキラが張り付いて離れませんでした。一度は死の橋を渡ったかもしれない恋人を引き戻せたのは幸いです。
2011.4.18 しょうこ