Sleeping Murder
大昔の少女漫画かっ! と、ヒカルが激怒したのは、手合いの時にアキラが石を掴もうと手を入れた
碁笥の中で指を切ってしまったからだ。
「痛っ」
お願いしますと頭を下げて、いつもの通り指を入れたアキラは反射的に抜き出すと、それから改めて
指を見た。
「痛い…何かで切ってしまった」
差し向かいに居た対局相手は硬直して身動きもせず、碁笥をいきなりひっくり返して中身をぶちまけ
たのは、部屋のほぼ対極に居て駆けつけて来たヒカルだった。
「なんだこれ。ガラスの破片が入っているじゃん」
どうしてこんな物がと思うような、結構大きな欠片が白石の中で鋭く光を弾いていて、先端が赤く汚れ
ていることにヒカルの眉はぐっと寄った。
「これ用意したの誰?」
「進藤、落ち着け。別にゴミが混ざっただけだろう」
「はあ? おまえ頭イイのにそこでボケるかよ。何をどーやったらこんな綺麗にガラスの欠片が一個だ
け碁笥の中になんか入るんだって!」
海王の生徒はみんなバカばっかりかと怒鳴ったら、負けじとアキラも怒鳴り返した。
「誰がボケだ。誰がバカだ。キミこそ浅はかな判断で誰かを陥れるようなことをしない方がいい」
「陥れるって、だって明らかに故意だろ、故意」
「そうとも限らないだろうって言っている。もし何かの手違いで入ってしまったのだとしたら、こんな風に
騒ぎ立てたらその人の立場が無くなるじゃないか」
「はー? 棋士の大事な利き手の指を傷付けられておまえも随分お優しいよな」
「キミ程浅慮ではないだけだ」
「なんだとぉ!」
「はいはいはいはい、ストップストップ。塔矢くんは事務室に行って手当して貰って来て。特別に時間を
ずらして貰うようにするから。で、進藤くんは自分の場所に戻って。キミは関係無いんだから持ち時間
がどんどん減って行くよ」
現われたのは篠田師範で、ぱんぱんと手を叩くといきり立っている二人を離し、打つどころでは無くな
っている皆を盤に向かわせた。
「だって先生!」
「いいから。たまにこういう事故もあるんだよ。塔矢くんの言う通り、事故で人を追い詰めてはいかん。
そもそもその『人』さえ存在しないかもしれないのに」
以前、窓際に置かれた碁笥に本当にたまたま、壁から落ちた画鋲が入り込んだことがあったのだと
いう。
「あの時も指を突っ込んだ子は結構流血していたけれどね、手当をしてもらってすぐに普通に打った
よ」
だからキミもそう頭っから決めつけてはいけないと諭して問題の碁笥を手に取った。
「それじゃ、これは危ないから私が保管しておく。塔矢くんには新しい物を用意させるから」
そこまで言われてはいつまでも突っかかっているわけにもいかずヒカルはすごすごと席に戻った。
(でも違うって、絶対違う!)
画鋲が壁から落ちることはあっても、ガラスが勝手に碁笥に入るかよと、むっとした顔のままびしばし
と怒りを石にこめて容赦無く相手をやり込めてしまった。
アキラはアキラでしばらく経つと指に包帯を巻いて戻って来て、けれど何事も無かったかのような静か
な顔で打ち始めた。
「お願いします」
改めて言い直された挨拶の言葉を聞きながら、ヒカルは釈然としない気持ちで目の前の盤上を睨ん
だのだった。
「ちょ…待てって」
帰り、検討が長引いたアキラをずっと待っていたヒカルは、やっと来たと思ったらひとことも話さずに
歩いて行ってしまったアキラを一生懸命追いかけた。
そして棋院からかなり離れた所で、やっとアキラを引き止められたのである。
「何シカトしてんだよ。昼間のことまだ怒ってるのかよ」
「どうして? 自分のために怒ってくれた人のことをどうしてぼくが怒るなんて」
振り返るアキラは笑っている。
「じゃあどうして…」
「あのね、だってキミは結構声が大きいじゃないか。なのにあんな所で立ち話をしたら誰かに聞こえ
てしまうかもしれないから」
「って…」
「今日ぼくが指を怪我したこと、本当はキミが言った通り故意なんだ」
「え?」
「偶然や事故なんかじゃなく、明らかに悪意を持った人の仕業だったんだよ」
「って、何こんな所でのんびりそんなこと言ってるんだよ。棋院戻って言わないと」
「必要ない。その人は手合いの後でぼくに謝罪したから」
悪意を持ってアキラを傷付けたそいつは、手合いが終わるや否や、アキラを別室に呼び出して土下
座をして謝ったと言う。
「もちろん事務室にも行った。篠田先生にもちゃんとお話ししてきたよ。警察に…って話も出たけれど、
それはぼくが断った」
「はあああああ? どこまでお人好しなんだよおまえは」
ヒカルはやっぱりそうだったじゃんで頭がいっぱいで、なのにアキラがそれを許したことに逆上してし
まった。
「そんな、天下の塔矢アキラ様が舐められて黙ってるなんて随分人が良すぎるじゃんかよ」
はっきりきっぱり実名出して、警察でもなんでも行って被害届出して来いと言うのに大きく溜息をつく。
「ほらね、キミは絶対そう言うと思った」
「だって当たり前だろう。おまえ怪我したんだぞ!」
「うん、それでもそんなに非道い怪我じゃない。もしこれが指の腱でも切ったのだとしたら許したりはし
なかったけれど、そうじゃ無かったから」
それに何よりもっと大きな問題があったのだ。
「あのね、あれは本当はぼくが狙われたわけじゃないんだよ」
「はあ?」
「キミ達の席とぼく達の席、直前に席が取り替えられたのは知っている?」
「いや…」
「知らないよね。実は事務所に脅迫状みたいな物が届いていてね。キミに怪我をさせるようなことを匂
わせていたんだ」
だから直前で変えて貰ったのだとアキラは言った。
「は………はあああああああ?」
「だから本当はあの席で怪我をしたのはぼくでは無くて、キミかキミの対局相手の人の予定だったんだ」
ヒカルでもヒカルの相手でもどちらかが怪我をすれば手合いは滞る。下手をしたらそのまま中止になる
ことも有り得たのだ。
「何かあるかもしれないと知っていたから、ぼくは無造作に石を掴むことはしなかった。だからあの程度
で済んだんだ。でももしそうじゃなかったら結構深く切ることになったんじゃないかな」
ヒカルはもう言葉も無い。
「な、なんで!」
「さあ。その辺は本当はキミの方がよく知っているのだと思うんだけど、事実を明らかにしないという約束
でその人を許すことにしたから言えない」
「ふざけんなよ、言えよ」
「言わない。とにかくその人はキミに含む所があった。だから傷付けようとして失敗した」
それでいいじゃないかと涼しい顔で言う。
「事務所の人に相談されたんだ。ぼくとキミは親友同士ってことになっているからね。何か心当たりは無
いかって。でも残念ながらぼくにはそういう心当たりは無いから」
申し訳無いけれど被害を未然に防ぐ方に徹させて貰ったと。
「防いでないだろっ」
「キミが怪我をするのは防いだよ。もっともぼくのことで大騒ぎしてキミの持ち時間が少し減る所だったけ
れどね」
キミももうプロになって長いんだから、あのくらいで動揺するものじゃないよと、とうとうと言われてヒカルは
切れた。
「だ・か・ら!」
おまえが何も言わないからいけないんだろうと、その怒鳴り声は凄まじく、道を歩く人が皆一斉に振り返
った程だった。
「マジ、ふざけんなよな。おれの代わりに怪我されて、それで守ってあげましたなんて言われたって嬉しく
もなんともねーっての」
むしろおまえが怪我するなら、自分が怪我した方が何倍も何十倍も良かったとヒカルは言った。
「…ぼくもそうだよ。どんな小さな怪我でもキミの体が傷つくのは嫌だ」
だからごめんね、本当にごめんねと謝られてヒカルは怒れなくなった。
「でも、なんでそいつのこと許しちゃうんだよ」
「表沙汰にするのは簡単だけど、そんなことをしてもキミへの不満は消えないかもしれないだろう?」
だから逆に利用させて貰うことにしたのだとアキラはさらりと凄いことを言った。
「は? え?」
「表沙汰にしない代わりに、今後一切二度とキミに手出ししないと約束させた」
反故にした時にはどんな恐ろしい目に遭うことになるのかも充分に思い知らせてねと、それが長引い
た検討と思われていた時間だったのだ。
「彼はもう絶対に何もしないと誓ってくれたよ?」
にっこりと笑うアキラの顔には邪気は無い。でもきっと鬼だったんだろうなとヒカルは思った。
「そいつ…心の傷になったんじゃねえ?」
「そうだね。生まれて来たことを不幸に思うくらいのことはしておいたから」
だから絶対大丈夫だよと笑うアキラの笑顔はあどけないくらいに可愛くてヒカルは大きく溜息をついた。
「解った。今日の件は詮索しねえ」
「賢明だな」
「でもおまえも約束しろよ、また同じようなことがあっても次は絶対におれに言うって」
あ、これはお前本人が脅迫された時も同じだかんなと念を押されてアキラは笑った。
はぐらかすような笑みだった。
「いいよ。了解」
「なーんか信用出来ないんだよなあ」
ぼやきつつ、ヒカルはアキラの手を取った。いつものように握って歩きだそうとして、包帯の感触に慌
てて手を離し、それから改めて手首を掴む。
「腹減ってねえ? なんか奢ってやるよ」
「そうか? だったら―」
和やかに、会話はもう普通のものになったけれど、それからしばらくの間、アキラの手の包帯を見るた
びに、ヒカルは己の恋人の頭の良さと自分への想い、そしてそうで無い者への冷酷さを思って、非道く
複雑な気持ちにさせられたのだった。
※実力勝負の世界なのだから、妬みそねみは当然存在するものと思います。こんな古典的なやり方はしないでしょうが(苦笑)
そして迂闊にもヒカルを傷付けようとした相手は、アキラに相当恐ろしい目に遭わされたことと思います。きっとトラウマになった
んじゃないかな。最強、最恐塔矢アキラ伝説。(笑)
2011.6.30 しょうこ