歯車



そんなことを言われても、もし本当に物が落ちて来たら避けようも無い。どう注意すればいい
のかと、ずっと思っていた工事中のビル。


『頭上注意』の看板の横を進藤と二人駅に向かって歩いていたら、ふっと僅かに視界が陰っ
た。


なんだろうと顔を上げた時、目に映ったのは自分の体よりも遥かに大きそうな鉄骨が、真上
から落ちて来る光景で、反射的に彼の体を思いきり突き飛ばしていた。



方向はあれで良かったのか。

体にかすらなければ良いけれど。

彼だけでも助かりますようにと、それらはほんの瞬く間の出来事で、でも次の瞬間、ぼくもま
た誰かの手によって突き飛ばされていた。



音が消え、視界が一度真っ暗になり、奇妙な程遠くで重い音を聞いたと思ったら、何故か道
路に倒れていた。


真横には鉄骨があって、頭のすぐ側で地面に深くめり込んでいるのを見て、よく助かったなと
思った。



「塔矢っ!」

ゆっくりと体を起こしていると、道路の端から進藤が腰をさすりながら恐ろしい顔でこちらに向
かって来る所で、あ、転んでしまったのかと申し訳無く思った。


「ごめん、怪我は―」
「おまえ、おれを突き飛ばしやがったな、よくもそんな」


進藤は怒り心頭で、ぼくをいきなり怒鳴りつけた。

「生きてたから良かったものの、おまえ、この下敷きになっていたら、どうなってたと思ってんだ
よ」
「来月からの棋聖戦…不戦勝でキミが棋聖になったね」
「…この、バカっ!」


ぼく達は来月から始まる棋聖戦を前にして、取材を受けた帰りだったのだ。


バカだ阿呆だ信じられない。

てめえは何を考えてるんだと進藤は言葉の限りを尽くしてぼくを罵っている。

「…あっ!」
「なんだよ」
「ぼくの後ろに居た人、下敷きになってしまっているかもしれない。早く救急車を呼ばないと」
「は? おれらの後ろ、ずっと誰も歩いてなんかいなかっただろ」


建物出てからここまで、前後に誰も人なんか居なかったと言われて首をひねる。

「でも…」

確かにぼくは誰かの手で突き飛ばされたのだ。

「そんなことより、てめえはちっとは反省しろっ。おれを庇ってそれで自分が死んだら、なんに
もならないだろっ」
「いや、ぼくはキミが助かれば…」
「違うだろっ、この大馬鹿っ」


それから後の罵倒大会はほとんど聞き流していたのであまりよく覚えていない。

すぐに人が集まって来て、警察も来て、なんだか非道く大事になって、ぼく達は念のためにと
救急車に乗せられてしまった。


「でも…確かに誰かいたと思ったのに」
「なんだよ、まだ言うか」


突き飛ばされたあの時、手の他に白い着物の袂のような物も見えた。

ダメですよと、そういえば囁くような声も聞いた気がする。

「とにかくおまえはトロいんだから、自分のことだけ心配してろっ」
「でも―」
「うるさいっ」



あれは一体なんだったんだろう?

純粋な善意かそれとも悪意か。

ぼくには解らないけれど、それでもぼくはぼく自身が自分の意志とは関係無く、誰かに助けら
れ、生かされている存在なのだということをこの日実感したのだった。




※もちろん悪意ではありません。もし意志があるとするなら「ヒカルが悲しむから」。
2011.7.26 しょうこ