女郎蜘蛛



棋院だってそこそこに古い建物だが、地方の老舗旅館というと、もうその古さの桁が違う。

温泉地での囲碁ツアーの会場となったその旅館は350年経つという。

あちこち建て増しや建て替えで新しくなった部分もあるが、建物の大半は黒光りするような
古い木材で構築されていた。



『こんなんだったらユーレイでも出るかもな』

眠る前、進藤が温泉に浸かりながら笑って言っていたことが蘇る。

『キミ、そんなもの信じているのか?』

意外だったので尋ねたら、進藤は一瞬あ、やばいの顔をして、それからつるりと『まあね』
と言った。


『だって歴史のある物には魂が宿るって言うじゃないか』

憑も神の考え方だなと思い、いつどうしてそういうふうな考えを持つようになったのか尋ね
てみたくなったけれど、なんとなく聞きそびれてしまった。


それがほんの数時間前。

風呂上がりに炭酸を飲んで、そしてそのまま気持ちよく旅館特有の分厚い綿の布団に潜り
込んで眠った。


普段眠りが深いはずだったのにどうして目が覚めてしまったのか解らなかったが、幾らも経
たないうちに何故かぱっと目が覚めた。


起きたというよりは目を開かされたという感覚だった。

今何時だろうとぼんやりと思い、時計を見ようと首を回してぎょっとした。

隣の布団で眠る進藤の側に誰かが居て、彼の顔をのぞき込むようにしていたからだ。

最初に思ったのは窃盗の類で、次に思ったのは夜這いの類だった。これで進藤は結構人
気があるから突拍子も無い考えではないはずだった。


でもいくらなんでも同室のぼくが居るすぐ側でと、ぐるぐるとしている時に苦しそうな声で我
に返った。


「……ん」

押し殺した、けれど我慢出来なくて漏れてしまったようなその声は間違い無く彼のもので、
はっとして改めて見てたら、進藤はその人影に首を絞められていたのだった。


「何をしている!」

怒鳴っても動かない。

「退けっ!」

大声で怒鳴ったらゆっくりと人影は振り返った。

濡れそぼったような髪の、青白い顔をした女だった。

カッと頭に血が上る。

「おまえなんかが触れていい相手じゃ無いんだ、今すぐ消えろ!」

明らかに生きた人間では無いどろりとした目や雰囲気、その恨めしそうな表情は、通常だ
ったらぼくでも怖じ気づいたかもしれない。


でもその誰かが、進藤に害を為そうとしていたという事実がぼくの中を激しい怒りで一杯に
して怖いとかそういう感情を吹き飛ばしてしまった。


「退けったら、退けっ!」

枕を掴んで投げつけたら、ふっと女の姿はかき消えた。

後は静かな闇ばかりでぼくはしばし呆然とした。

『何かありましたか?』

深夜の大声に、程なくフロントから電話がかかって来たけれど、ぼくは寝ぼけて転んだだけ
と言い訳をして切った。



「…おまえって怖ぇぇ」

振り返ると、進藤が半身を起こしてぼくを見詰めていた。

「フツー、ユーレイ相手に怒鳴るかよ。しかも枕投げつけてやっつけるなんて、どんだけ勇ま
しいんだ、おまえ」


呆れたような、どこか茶化すような物言いにむっとして睨み返す。

「だったら何もしない方が良かった?」
「いや、正直助かった。寝てたらいきなり金縛って、そのままぐいぐい首締められたから」


おまえが助けてくんなきゃ殺されていたかもしれないと言われてぞっとした。

「…あの人、キミの知り合い?」

バカなことをと思いながらも、昔捨てた女じゃ無いだろうなと疑いつつ尋ねてみる。

「知らないって、まったく全然知らない女」
「だったらどうしてすぐに振り解かない、キミくらいの精神力があれば出来ないことじゃない
だろう」
「んー…そうなんだけど、顔見てからじゃないと、知り合いか知り合いじゃないのか解らない
じゃん?」


だからちょっと無抵抗でいたのがマズかったかなあと言われて怒りに頬が赤くなった。

「幽霊に知り合いも知り合いじゃないも関係無い。万一知り合いだったとしても、いきなり首
を絞めてくるような知り合いは、キミが許してもぼくが許さない」


一気に言って、そのまま背を向ける。

「どれだけぼくが驚いたか、どれだけぼくが必死だったか思い知るがいい」

奪われるかもと思った瞬間の、あの焦燥感を思い出してぼくはぎゅっと唇を噛んだ。

やっと側に居られるようになってまだ何年も経っていない。それなのに、あんなどこの誰と
も解らない異形に連れ去られるのはまっぴらだった。


「ごめんな?」

ぼくが本気で怒っているらしいことに気がついて、進藤が機嫌を取るように近付いて来た。

「マジ、ごめん。うん、そーなんだよな。よくよく考えたら、知り合いだったとしても、そいつお
れの首なんか絶対絞めないや」


だから今度から身動き出来なくなるまでじっとしてるなんてしないからと言ってぼくを抱きし
めた。


「だから機嫌直して? な?」
「知るか」
「ほんと悪かった。今度から幽霊でもなんでも女には気をつけるから」


そういうことじゃない。言いたかったけれどぼくは黙った。彼がぼくの機嫌を取りながら、す
るりと話題の本質をすり替えたのに気がついたからだ。


触れられたくない。触れてはいけないものがこの会話には含まれていたんだろう。

「とにかく、キミはもっと自分の身を大切にしてくれないと」

ぼくはきっと次には、あの床の間に飾ってある、本物らしい信楽を幽霊に投げつけることに
なってしまうかもしれないよと脅しをかけた。


「え? あれ幾らぐらいするん?」
「良いものっぽいからね、百万は行かなくても数十万はするんじゃないか?」


そしてもしぼくがそれを割ったなら、お代は全部キミ持ちだからと念を押した。

「うわー、怖ぇ、マジおまえの脅しって幽霊よりも怖ぇわ」

でも解った気をつける。そしてその後に小さくありがとうなと付け加えた。

彼が話の本質をすり替えたように、ぼくもまた問い質さずに本質をすり替えた返事をしたか
らだ。


そういうことが言わないでも解る。そんな関係であることがぼくはなんだか嬉しかった。

嬉しくて、面はゆくて、そしてとても悔しかった。

「…もう寝よう。明日もまた早いんだし」
「だったらおれ、そっちの布団で一緒に寝ていい?」
「は?」
「だってさっきのオンナのユーレイ、また出てきたら怖いから」


お前と一緒に居たら魔除けになって絶対出ないと思うからと、大まじめに言われて笑ってし
まった。


「いいよ、こんなお守りでよければ」

布団の端を開いて入れてやる。

「あー、温かい」
「キミの布団だって同じだろう?」
「違う。全然違う。おまえの布団だから温かいんだって」


そしてぼくの腰に手を回すと子どものようにしがみついて眠った。

すうすうと安心しきった顔を見るうちに、ぼくもなんだか満たされて、彼を抱き返すようにし
て眠った。


深く、安らかで温かい眠り。

今度は朝まで目覚めることも無く、見知らぬ幽霊も姿を見せることは無かった。


※こんなものではとても代わりにはなりませんが夏祭りに行けない皆様へ。ちょっとでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
せっかく夏なので、今回はこういう話にしてみました。2011.8.12 しょうこ