主よ、みもとに近づかん
あっと思った時には、もう目の前に対向車が迫っていて、運転手の引きつった顔と相まって
拙い状態だと思い知った。
いつものように進藤と会って、なのにいつもとは違う展開での大喧嘩になって、ほとんど振り
切るようにタクシーに乗り込んだのだけれど、その結果がこうなるとは夢にも思わなかった。
怒り心頭、頭に血が上ったままの状態で流れて行く景色を見るとはなしに眺めていた。それ
がいきなり短い叫び声と共に顔を上げて見ればこんな事態になっている。
場所は首都高の緩いカーブ。
相手がスピードを上げすぎたのか、それとも単に運転が下手なのかわからないけれど、曲が
りきれずに車線を越えて真向かいから迫って来る。
その瞬間、怖いとか死にたくないとかそんな気持ちは不思議と起こらず、信じられないと思い
ながら何故か進藤ヒカルの顔を思いだしていた。
ものすごく怒っていたっけ、でもこんなことになったのを後で知ったらきっともっと怒るんだろう
なと。
そして奇妙な程ゆっくりと進む時間の中で、頭の中だけは恐ろしい程のスピードで、彼との出
会いから始まる様々なシーンが再現されていった。
(ああ、せめてあんな別れ方をしなければ良かった)
そう思ったのが最後で、後は大きな衝撃と金属音。痛みも苦しみも何も無く、ぼくの意識はぷ
つりと切ったように失われた。
次に気がついた時は病室で、体に色々な物がついているなと最初に思い、それから生きてい
たんだとそのことに軽く驚いた。
怪我をしたのは間違い無くて、でも少なくとも目が見えているということは、棋士としてかなり運
が良いと思った。
「塔矢」
そんなことをつらつらと考えていたので、すぐ間近から呼ばれ続けても、しばらくはそれに気が
つかなかった。
「目ぇ覚めた? おれのこと解る?」
ゆっくりと顔を巡らせて(良かった麻痺していない)見慣れた顔を見てうっすらと微笑む。
「…進藤」
「何があったか解るか? いや、それより塔矢先生達呼んで来ないと。ずっと居たんだけど、食
事をしに出た所だから」
「いや…いいよ」
声も出せる幸運に、後幾つぼくには幸運が残されているだろうかと考えつつ言う。
「ぼくはどうなった?」
「事故ったんだって。乗ってたタクシーが酔っぱらい運転の四駆に突っ込まれて」
随分非道い事故だった。運ちゃんもおまえも突っ込んだ相手も生きていたのが不思議なくらい
の事故だったのだと進藤は言う。
「…そうじゃない。ぼくはまだ打てるのか?」
一瞬何とも言えない顔をして、それから進藤は大きく溜息をついて言った。
「打てる。ちょっと怪我してるけど死ぬまで打てるから安心しろ」
こんな時なのに頭ん中それしか無いのかよ信じられないと、それからぐっと顔を歪めた。
「おまえ…知らせを聞いた時、おれがどんな気持ちだったかなんて気にもして無いんだろう」
別れる直前僕たちは大喧嘩をした。
それは進藤がいきなりぼくを好きだと言い、そして付き合って欲しいと言ったからだった。
『おまえだっておれのこと好きだろ。そういうのって解るもんだぜ?』
『どうしてぼくのことがキミに解る、勝手に決めつけるな』
かなり醜く罵り合って、別れた結果がこれだと内心苦笑する。
「…バチが当たったかな」
ぽつりと呟くと進藤が更に嫌な顔をして「なんのバチだよ」と言った。
「さあ…なんだろう」
でも少なくともこれから嫌という程ぼくにはきっとバチが当たると思う。
何故なら死ぬかもしれないというあの瞬間、慈しみ育ててくれた両親のことをぼくは欠片も思い
出さなかった。
親として愛していると思っていたのに、その人達と別れることをぼくは少しも悲しいとは思わなか
ったのだ。
ぼくはただ、自分で笑ってしまう程に進藤ヒカルのことだけを思い出し考えていたのだった。
「とにかく、今呼んで来るからちょっとそのまま寝てろ。あ、ナースコールした方がいいのかな。意
識戻ったら呼んでって言われてたんだ」
そして仏頂面のままぼくの枕元に手を伸ばす彼をぼくは点滴のついた手で握って止めた。
利き腕が動く。大丈夫、幸運はまだ続いている。
「待って」
「なんでだよ。ちゃんと診て貰わないと…」
「それより先にキミに言わないといけないことがあるから」
「何?」
「撤回する」
「は?」
「絶交だ、もう二度と会いたく無いって言ったのを撤回する」
「そんなこと今言わなくても…」
「今だから。そしてもう一つ撤回する。キミを好きなんかじゃないって言ったあれ、間違っていた」
どうやらぼくもキミのことが好きだったみたいだと言った時の進藤の顔は見物だった。
「おまえ頭でも打って、どうかしたんじゃねえ?」
「頭を打ったのか?」
それは非道い不運だ、碁に影響はあるだろうかと真面目に考え出したのを進藤が慌てて打ち消
す。
「違う、違う。頭なんか打って無い。おまえの怪我は本当に足の骨折とかそーゆーのだから」
「そうか…良かった」
幸運はまだ続いていた。
「で、キミがぼくに言うことは何か無いのか?」
散々罵った。
汚い物を見るような目でぼくは彼を見、彼のぼくへの気持ちを完全に否定した。
なのにどうだ、生きるか死ぬかの瞬間になり、余計な物が何もなくなってみると、ぼくは真っ直ぐ
に彼のことしか考えられない。
ぼくの中には進藤ヒカル唯一人しか住んで居なかったのだ。
親よりも誰よりも愛しているのは彼なんだと、呆れるほどはっきりと解ってしまった。
「まだ怒っているかな」
怒っているよねと呟くぼくに進藤は更に顔を顰めて怒鳴りかけ、それからいきなり俯いて泣いた。
「怒ってねーよ! 愛してるよ!」
おまえが生きてて本当に良かった。死んでいたらおれも生きてなんかいられなかったと、そう掠れ
た声で言うのを聞いて、一番残っていて欲しかった幸運がぼくに残っていてくれたことをぼくは心の
底から有り難いと思ったのだった。
※アキラはかなり頑ななので、本当にギリギリにならないと認められないんじゃないかと思います。又は無意識に自覚
していてもだからこそ逆ギレるタイプ。腐目線無しで見ても、アキラの中にヒカル以外が存在するとは思えない。あんな
に強烈にすり込まれてしまったら、もう一生他に誰のことも考えられないのではないかなと思います。
ヒカルも同じ、あんなに激しくて一途で綺麗なものを子どもの頃に知ってしまって他に気持ちが行くはずが無いと思いま
す。2011.10.30 しょうこ