代償行為
研究会で向かい合って打っている時に、唐突に「あ、おれ子ども欲しい」と思ってしまった。
碁盤の向こう側に居たのは岡で、若獅子戦で打って以来なんとなく懐かれて、そのツレの
庄司と一緒に和谷の研究会に引き込んでしまった。
なので他の院生よりも顔を合わせる機会が多いのだが、こんな衝動を覚えたのは始めて
で正直非道く狼狽えた。
「進藤さん、どうかしましたか?」
自分の番だというのに、ぽかーんと石を持ったまま固まっているおれに、岡が心配そうに
尋ねて来る。
「あ、悪い、なんでも無い。ちょっとケツが痒くなっちゃってさぁ」
「もう、どうしてすぐにシモネタに走るんですか。王座の名が泣きますよ」
ほんの少し頬を膨らませて言う。からかわれたと思ったんだろう。こういう所がかわいいよ
なあと思うのだ。
そしてそれは庄司も同じで、すぐ隣に控えて身を乗りださんばかりにしておれと岡が打つ
のを見詰めていたのが、やり取りを聞いてすぐに参戦してくる。
「バっカだなあ岡は。進藤さんはおまえの碁がぬるくて尻が痒くなるくらいだって遠回しに言
ってんだよ」
もっとびしばし打てと言われて、あわや乱闘になる所だった。
「まあまあ、庄司言い過ぎ。それで岡、おれぬるいとかそんなこと思って無いから」
ただちょっとぼんやりしていたのを誤魔化しただけだったんだと謝ると、目に見えてほっと
した気配になった。
「なんだ、よかったあ」
きゅん。
その瞬間、また強烈に思った。
こんなカワイイ子どもが欲しいなあ―。
自分の中に唐突に芽生えた感情がわけがわからなくて、おれはそれからしばらく難儀し
た。
だって年下の棋士、しかももっと幼児に近いような子どもを見て思うなら理解出来なくも無
いけれど、生意気盛りのそこそこ大きいクソガキを見て思うなんて、おれはどうかしている
んじゃないかと思ったからだ。
見た目からして愛らしいというものとはちょっと違う。保護欲をかきたてるというのも少しだ
け似ているけれどやはり違う。
解らないけれど、こいつを見て育ててやりたいと思ってしまったのだ。
そしてそれは岡と庄司、特に岡に対して強く思うような気がする。
なので知らず知らずおれは岡を構い過ぎてしまっていたらしく、ある日とうとう思い詰めた
顔をした塔矢に問い詰められることとなった。
「キミ…最近随分岡くんに優しいみたいだけど」
「えっ? そ、そんなことないよ。庄司だって構ってるよ」
「そうかな。見ているとそんなふうには見えないけれど」
遠回しに言うのは性格に合わないからはっきり言わせて貰うけれど、心変わりしたのだっ
たら、今ここでそう言って貰えないだろうかと言われて仰天する。
「おれが? 心変わり? 誰に?」
「岡くん。無自覚なのだったら始末が悪いな。キミ、まるで若い女性を落とそうとしている中
年男みたいだよ」
何かというと側に置きたがって、自分の用事にかこつけて食事や遊びに連れ出している。
「や、いや、でもそれはマジで後輩の面倒見るって言うか、下心なんか全然無かったし」
「じゃあどうして、あんなに岡くんにだけちょっかいをかけるんだ」
後輩を可愛がるというなら、庄司くんや他の院生の子達だって同じようにすればいいんじゃ
ないかと真顔でじっと見詰められ、ぐっと詰まった。
「ぼくより岡くんの方がいいって言うなら―――」
「わあ、待って、待って、待って、マジでそんなんじゃないって、おれが愛してるのはおまえだ
けだって!」
昼日中のカフェだというのも忘れて大声を出し、おれは塔矢にテーブルの下で強か足を蹴
飛ばされた。
「じゃあどういうことなのか『恋人』のぼくにちゃんと説明して貰おうか」
「…言ったらおまえ、怒るもん」
「やっぱりそういうことなのか」
「いや、だからそうじゃなくて…えーい、もう仕方無いなあ、言っちゃうけど、なんかすげえ今、
おれ子どもが欲しい気持ちなんだよ」
「え?」
「わけわかんないけど、岡とか庄司とか…うん。特に岡だな。打ってると無性に子どもが欲し
いなって思っちゃったりするわけ」
それはもちろん自分の血を分けた子どもで、でもだからと言って塔矢との間に子どもは永久
に生まれない。
「だったらそれこそぼくと別れて女性と―」
「おまえとの子どもが欲しいの! 他の誰かとの子じゃ無くて、おれとおまえの子どもが欲しい
んだって!」
それで二人で育てて、碁を教えたい。
この気持ちと衝動をどうしていいのかわからないのだと。
「で…じゃあそうだとして、どうして岡くん?」
「わかんないけど、たぶんあいつちょっとだけおまえに似てるから」
おまえ似の子どもが出来たらあんな感じかなって無意識に思っているのだと思うと言ったら
塔矢は目を閉じて大きな溜息をついた。
「……怒った?」
怒られて当然の内容なので恐る恐る尋ねると、塔矢は再び大きく息を吐いてそれから目を開
いた。
「ぼくだってね。子どもを欲しいと思うことが無いわけじゃないんだよ」
まだ二人とも二十代。そんな気持ちになるのは早いとは思うものの、それでも時折無性に子
どもが欲しくなることがあるのだと。
塔矢の答えは想像もしないものだったので驚いた。
「そんなこと今まで一度もおれに言ったこと無いじゃん」
「言えるわけ無いだろう。ぼくはキミ以外の人の子どもなんか欲しく無いし、でもそれは絶対無
理なんだから」
塔矢は養子を考えたこともあるのだという。
「もっとずっと先にね、養子を迎えてキミと二人で育てるというのもいいかなと思ったこともある
んだ」
「そうなんだ」
「でもそれはすぐに却下した」
「どうして?」
「ぼくはキミが思うよりずっと独占欲が強いんだ。例え相手が子どもでも、キミをほんの欠片で
も渡したくは無いからね」
「じゃあ―」
「でもキミも同じような気持ちになっていたならば仕方無い」
三度目の溜息をついた後、塔矢は諦めたような顔になって言った。
「いつか囲碁教室を開こう」
「えっ?」
「碁会所でもいいけれど、どうしても年配の方が多くなってしまうからね。もっと…そうだね、現
役を退いた頃でも、それより前でもどちらでもいいけれど、キミとぼくとで子ども向けの囲碁教
室を開いたらいいんじゃないかな」
「それと今までの話とどうつながるん?」
「繋がるよ。キミは自分の碁を誰かに伝えたいんだと思うから」
子どもが欲しいという気持ちは結局それに繋がるのではないかと言われてムッとして、でも何
故か反論出来なかった。
「でも…なんかそれだとおれってすごい自己中じゃん」
自分で築いて来たものを失いたく無くて、残したいと執着しているように思えてしまう。
「そんなことは無い。だってぼく達にとって囲碁は命と同じだろう。その命を誰かに繋げたいっ
て気持ちは男女のそれと同じ、ごく自然なものなんじゃないのか」
そもそもキミだって、誰かからそれを受け取ったのではないかと言われてはっとした。
「おれ―」
「ぼくもね、お父さんから教わったことをぼくの中だけで終わらせてしまうのはとても辛い。か
つてぼくがそうして貰ったように、大切に育てて慈しんで、誰かにそれを伝えたいと思うんだ」
だからそれは子どもで無ければならない。
もう既に出来上がってしまっている大人では無く、まだ真っ白で何色にでも染まる、白石の様
に純粋な、生命力に溢れた子どもで無ければならないのだ。
「お父さんの囲碁サロン、税金対策だなんて言っているけれど、本当はぼくが生まれる少し前
に開いたものなんだよ」
結婚して何年も子どもに恵まれず、塔矢のお母さんはちょうど今の塔矢のように養子を迎える
ことを先生に申し出たらしい。
「そうしたらお父さん、お母さんとの間以外の子どもはいらないって言って、それで少しして囲碁
サロンを始めたらしいんだ」
たぶんきっとそれで実の子どもの居ない満たされ無さを埋めようとしたんだろう。けれどその後、
奇跡のように塔矢を授かり、それからの親馬鹿ぶりは他人であるおれもよく知っている。
「もう一度言うよ。ぼくはキミ以外の人との子どもは欲しく無い。だからいつか一緒に囲碁教室を
開いてそこでたくさんの『子ども』にぼく達の碁を教えないか」
「……うん」
なんかこれ、ほとんどプロポーズだなあと思いながらおれは塔矢の言葉を聞いた。
おれの方から好きだの一緒に居たいの、未来を語ることはあったけれど、塔矢の側から言われ
たのはこれが初めてだと今更ながらに気がついた。
「キミ…ハトが豆鉄砲を食らったような顔をしている」
「や…てっきり刃傷沙汰になるもんだと思っていたから」
「その方が良かったか?」
「いやいやいやいやいやいや、冗談、勘弁してくれよ」
「キミが岡くんにばかり構うのも理由が解ってすっきりしたし」
確かにキミとの間に子どもが出来て、その子がぼくに似ていたら、あんな感じになるのかもしれ
ないねと言って塔矢は苦笑した。
「それでね、こういう機会だから言ってしまうと、ぼくはキミとは逆に最初に打ってからずっと庄司
くんのことをキミに似ていると思っていた」
「は?」
「もしキミとの間に子どもが出来て、その子がキミ似に産まれたら、きっとあんな感じになるんだ
ろうなと思っていたんだ」
だからぼくはどちらかというと岡くんより庄司くん贔屓なんだよと言われて、反射的に怒鳴ってし
まった。
「庄司コロス!」
「バカだなあ」
自分の『子ども』達にそんなことを言うような親は最低だよと言い放って、それから塔矢は改めて
笑うと、おれの頭を愛しそうにイイコイイコと優しく撫でてくれたのだった。
※もしかしたら気持ちワルイと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、何となく子どもが欲しくなっちゃってる二人の話でした。
結局二人は碁という大きな括りの中で広い意味での『子ども』達を育てて行くんだろうな。養子は迎えないと思います。
結局二人とも焼き餅妬きだし(笑)
2012.2,21 しょうこ