うたかた
フローリングに薄く、痕が残っていた。
気がついてすぐ屈み込んで、さり気ない素振りで指で拭う。
「どうしたの? ヒカル」
他の面々は誰も気に止めなかったようだけれど、あかりだけは目ざとくそれに気がついて尋ねて来た。
「ああ、なんでも無い。朝飲んだコーヒーがこぼれていたから」
「だったらちゃんと雑巾で拭きなさいよね。そういうの染みになって残っちゃうんだから」
この部屋出る時、敷金返って来ないわよと笑われて、へらりと適当な笑みで返す。
「平気だよ。おれ稼いでるもん」
「またそういうこと言う」
だから生意気だって苛められるんでしょと、まるで彼女のような言い方だけど、あかりとおれは純粋に幼馴染みで
それ以上の関係になったことは無い。
あかりの方はおれを好きで、今も憎からず思っているようだけれど、おれはそれに気がつかないふりを通していた。
「ねえ、奥の和室を使ってもいいの?」
「ああ、散らかってるけど別にいいだろ」
冷蔵庫の中をのぞき込み、皆に出す物を物色しながら生返事をする。
今日はあかりの友達が六人ばかり集まって、これから家で打つことになっているのだ。
高校で囲碁部を立ち上げたあかりは、短大に行ってもそこで同じように囲碁部を立ち上げて、部長なんかをやって
いる。
今日は新入生の歓迎会を兼ねて、プロのおれに指導碁を頼みたいと言って来たのだ。
『ね? いいでしょ? ヒカルに会ってみたいって人、たくさん居るのよ』
おれはおれでたまたま2日続けての休日で、片方ならばと承諾した。
『ごめんね、本当に。もしかして前の日彼女と約束してるんじゃない?』
だったら翌日も止めた方がいいのでは無いかと、心配を装って少しだけあかりは探って来る。
『別に、そんなんじゃないから。久しぶりに塔矢と打つ約束してるだけ』
『ふうん、塔矢くんと。…ヒカルと塔矢くんてずっと仲が良いよね』
『まあな、あいつと打つの楽しいし』
『私と打つより?』
『だっておまえプロじゃねーじゃん』
あかりと塔矢の話をする時はいつでも心の裏側がひやりと冷える気持ちになる。
女の勘は恐ろしい。本当は何もかも解っているんじゃねーのかと時々思ってしまうからだ。
「ヒカルー、座布団足りないんだけど押し入れ開けてもいい?」
「あー、ダメダメ、魔窟になってるから。座布団無いならリビングのソファにあるクッション代わりに持って行けよ」
「えー? あれあんまり座り心地が良く無いんだけどなあ」
ぶつぶつ言いながら、あかりの声が移動する。リビングに行ったんだなと思いながら、ペットボトルとコップを持って
キッチンから出たら、先程おれが拭った痕をあかりがじっと見詰めていた。
「なんだよ?」
おれの声にはっとして顔を上げる。
「これ、やっぱり染みになっちゃってる。ズボラなのもいい加減にしないと本当に色々損するよ?」
「はいはい。おまえって本当ーに、おれの母ちゃんみたいなのな」
からからと笑って、そのまま無理矢理あかりを和室に促した。
ちらりと振り返る床には確かにぽつりと染みがあって、あああれは確かにもう消えないかもしれないなと思った。
夕べ抱きしめた塔矢の体から滴り落ちた―雫。
「あいつにも怒られるかな?」
だらしないと怒るだろうか?
(それともわざと残して行ったか)
あかりがおれを好きなことを塔矢もちゃんと知っていて、時々ちくりと釘を刺されることもあったから。
『キミが彼女に寛容でも、それは別に構わないけれど』
それでも一秒でもぼくのことを忘れたらただではおかないよと氷のような声で言った。
「…平気だよ。しない」
浮気なんか絶対しないからと誰にも聞こえ無いように呟くと、おれはあかりたちの待つ和室に向かった。
「それじゃ、今日は1日よろしくお願いしマス」
ぺこりと笑って頭を下げる。
華やかな空気と女性特有の化粧品の甘い匂い。
日なたに咲いた、鮮やかな花のようだとそう思う。
(でもおれは夜に咲く、真っ白な花の方が好きだから)
和やかに流れる時間。
他愛無く皆と打ちながら、けれどおれはリビングのあの場所で昨夜塔矢としたことだけをひたすら考え続
けていた。
※こーゆーのも背徳的でいいなと思っているヒカルの話。そしてアキラにもそれを口にして悪趣味だと本気で怒られます。
でも、ヒカルは結構そーゆー所、あると思う。2012.5.3 しょうこ