地を這うことしか出来なくても



別れ話をした翌日、進藤はもう和谷くんに紹介されたという短大生と付き合い始めた。

『本気なのかよ』
『本気だよ』


軽々しい気持ちでこんなことは言わないと、答えたぼくへのこれが彼の気持ちなのかと思ったら、
非道く「らしい」と感じられた。


毎日あれほど頻繁に入っていたメールも電話も無くなり、顔を合わせても、挨拶くらいでそれ以上
の会話は無くなった。


清々しい。

いっそ清々しい程の断ち切り方だとそう思った。

元々彼に別れる気は無くて、ぼくの方が一方的に別れようと切り出した。それを怒っている気持ち
もあるんだろうに、それでも決めたことだからと気持ちを切り替えて前を見る。


振り返ることを許さずに、自分で自分の退路を断つ、そんな潔の良さに感心した。

きっとこのまま彼は普通に恋愛して結婚して家庭を持って暮らして行くんだろう。

子を為して、人の言う幸せというものを手に入れて満足して死んで行く。

良かった。

これで良かったんだとぼくは呟くようにそう思った。

自分が望んだ結末。


けれどぼくはこの時から眠ることが出来なくなった。

布団に入って目を閉じても一睡も出来ない。うとうとと眠りかけて見る夢は進藤と見たことも無い女性
が仲睦まじく歩く姿で、その瞬間に引き裂かれるような痛みを感じて飛び起きてしまう。


目が覚めた時はいつも非道い動悸がしていて、全身にはびっしょりと汗をかいていた。

非道い時には一晩にそれが何度も繰り返される。

そのせいでぼくは随分と痩せた。

眠れないせいなのはもちろんだけれど、食欲も全くなくなっていたからだ。

一方進藤は見る度に楽しそうで幸せに輝いている。

付き合っている彼女との仲も順調なようで、時々その話を和谷君達と話している声が聞こえて来るこ
ともよくあった。


「おれ、もしかしたらこのまんま結婚しちゃうかもしんないなあ」

わかりきっていたことなのに、その言葉を聞いた時にドキリとした。

「えー?まだ早いだろ?」
「そんなでも無いだろ。もうとっくに二十歳過ぎてるんだし、ずるずる引きずるよりもするならするでさ
っさと落ち着いた方がいいような気もするし」
「そんなもんかなあ」


ぼくに聞かせるつもりでは無い。当てこすりや嫌がらせで言っているわけでも無いと思う。進藤は本
来そういう性格なのだ。


決めたら揺るがない、迷わずに一直線で自分で決めた道を進んで行く。

(ぼくとは大違いだ)

ふとぽつりと思いかけて慌ててその考えを頭の中から振り払う。まるでこれでは別れたことを後悔し
ているようではないか。


このまま男同士、隠れて付き合うことに疲れた。一生添い遂げることなど出来そうに無くて、なのに
進藤に縛られたまま、周囲から見合い話を勧められ、断る理由をひねり出すことにも嫌気がさした。


それは進藤にしても同じような状態だったはずで、だから別れを切り出したというのに、何故かぼく
だけがどんどん枯れて衰弱して行く。


体のどこかが破れて切れて、そこから生きる気力が流れ出してしまっているようなそんな感じだった。

でもプライドにかけてそんな素振りは見せられないので、人前に出る時には極力気持ちを張って出
かけていた。


進藤の前でもそれは同じで、やつれたように見せないように必死で元気なふりを続けていたと思う。

棋戦にも影響していると思われるのが嫌でいつにも増して勝ちに拘った。

絶対に負けない。進藤に無様な様子は見せない、そう決めて自分でも異常なくらい執着して勝ち続
けていたと思う。


『いやあ、塔矢七段、順調ですね』

リーグ入りも果たし、タイトルにももう少しで手が届くという状態だった。

進藤もまた順調で、恋人との仲も上手く行っているらしく、婚約したという噂も耳に入って来た。

順風満帆。

ぼく達二人は周囲からそう見られていたことだろう。

そんなある日、突然朝、起きられなくなった。

前日までは普通で、全てを普通にこなしていたのに、朝目が覚めたら体が動かなくなっていたのだ。

「…手合いがあるのに」

それも大切な一局だった。もし行かなければ不戦敗になってしまう。這ってでも行こうとそう思ったの
に、頑張って起きあがることは出来たものの、一分も立っていることは出来ず、ぼくは悔しさを噛みし
めながら欠席の旨を棋院に連絡したのだった。


それからずっと動けない。

ただ横たわったまま眠るわけでも無く、けれど起きて生活するということが一切出来なくなってしまっ
た。


(どうしたんだろう)

さすがにこのままでは拙い。病院に行かなければと思ったものの、何故か救急車を呼ぶことは躊躇
われた。


(このまま、ここでこうしていたい)

その気持ちを何と表現したらいいのか解らないけれど、とにかくぼくは何もしたくなかった。

気力の全てが失せてしまったかのようで、食べることも飲むこともせずに横たわり続けた。当然手合
いに出られるわけも無く、しばらくの間病欠すると棋院には連絡した。


そしてやっと安心した。

もう誰に煩わされることも無いと。

電話が鳴り、訪ねて来る人も居たけれど、全て無視した。

もしかしてこのままこうして居たら死ぬんじゃないか、そうも思ったけれど、それでも何かをしようとい
う気持ちにはなれなかった。




進藤が来たのはそんな日々が続いた夜だった。

夜というよりは真夜中に近い時間、ふと人の気配に目を覚ましたらすぐ傍らに進藤が立っていて、じ
っとぼくを見下ろしていたのだ。


窓からの月明かりにぼんやりと照らされた彼は、ぼくが起きたことに気が付くと、にっこりと笑って言
った。


「いい気味」

一瞬耳を疑った。

「…進藤?」
「おれと別れて、そんなにも辛くて、そんなにも苦しかったんだ」


嬉しそうに、いかにも小気味良さそうに言う。

「そんなこと…無い」

静かな夜の時間、ぼくを見下ろす彼の顔は口角が少し皮肉に持ち上がってさえいなければ、ひたす
ら優しい笑顔に見えた。


「ただ、体が動かなくて、何もしたくなくて」
「おれがおまえのことなんか忘れて女と幸せに暮らしている所なんか見たくなくて?」


「――違う」
「違かなんかねーよ」


進藤の声は静かで、でも決めつけるような響きがあった。

「おれ、ずっと楽しかった」
「何?」


「おまえが痩せてやつれて行くのを見て、すげー嬉しくて毎日楽しくてたまらなかった」
「…悪趣味」


「悪趣味で結構。おれを捨てたおまえが後悔に苦しんで、気が狂いそうになって行くのを見てるのが
快感で快感でたまんなかった」
「思い―」


思い上がるなと言いたくて、でも言葉を遮られた。

「嘘つき。マジでおれが恋しくて死にそうになっていたくせに」

どんなに平静を装っても、どんなに表面を取り繕ってもおれには解る。おまえの中身なんか透けて丸
見えなんだよと言われて腹が立った。


「それで?」
「ん?」
「それでぼくを笑いに来たのか」


自分から別れようと告げたくせに、こんな有様になっているぼくをあざ笑いに来たのかと言ったら、信
じられないことに彼は「うん」と言った。


「ざまぁ見ろだ。もうおまえボロボロじゃん。おれが来なかったらもう明日か明後日には死んでるんじゃ
ないの、おまえ」
「―そうかもしれないね」


もう既にぼくには怒鳴る気力も無い。言い返す元気も無かった。

屈辱的で悔しくて、惨めで情けなくてたまらない。

けれどそれなのに同時にぼくは喜んでいる自分にも気がついていた。

(目の前に進藤が居る)

ただそれだけのことが馬鹿のように嬉しい。

理解なんかしたく無い。でもそれは間違い無くぼくの本心だった。

「…キミの手で終わらせてくれないか?」
「おれに人殺しになれって?」
「死ねってひとこと言ってくれればいいよ。それかもう愛して無いって」


おまえのことなんか、もうひとかけらも愛していない大嫌いだと言ってくれればそれでもうぼくは死ね
るからと。


ぼくの言葉を聞くと進藤は眉を寄せ、それからぼくの傍らに跪いた。

「おまえって非道いヤツなのな」
「うん」


「そしてものすごく馬鹿で残酷だ」
「…そうだね」


「おれはそんなおまえが大嫌いで」
「…うん」
「死ぬ程愛してる」


しんと静寂が訪れた。

「え?」
「愛してるって言った。今でも変わらずにおまえのこと滅茶苦茶愛してるよ」
「…嘘だ」


だったらどうして女性と付き合っているのだと言いかけた言葉を飲み込んだ。

それはぼくのせいだったから。

ぼくが別れを告げたから彼は痛みを忘れるために女性と付き合うことを選んだんだろう。

「おまえが今何考えてんだか解るけど、でもそれ違うよ」

透けて見える。そう言ったことは本当なのだろうか。進藤は僕に更に顔を近づけると低い声で言
った。


「女と付き合ったのなんて、おまえを傷付けるために決まってんじゃん」

おれを手放したおまえが後悔して苦しむようにわざと付き合い始めたに決まっているじゃないか
と言われて目を見開いた。


「そんな…」
「おれは優しくなんか無いよ。おまえがおれを切り捨てようとするなら容赦しない。傷付けて傷付
けて、ぼろぼろになるまで痛めつけて、自分からすがりついて来るまで許してなんかやらない」


今や触れそうな程に顔を近づけて進藤は言った。

「許して欲しいか?」

ぼくは何も答えない。

「おれに戻って来て欲しい?」

元通り、おまえの恋人に戻って欲しいかと言われて眉が寄った。

「…どうしたら…いい?」
「言えばいい、おれに」


「何を?」
「あの女と別れろって、自分のために何の罪も無いあの女をゴミみたいに捨てろってそう言えよ」


「そんなこと―」
「おれ、寝たよ? おまえにしてやるみたいに念入りに可愛がってひーひー言わせた。相手の子
は初めてで、おれのことマジで好きみたい」


結婚するって信じているから別れたらあの子は相当傷つく。

「もしかしたら捨てられたら自殺するかもしれないな」

それでも自分を選べと言えるかと言われて躊躇った。

「ぼくは―」
「言えよ。これが最後のチャンスだぞ。言わなかったらおれはマジでおまえを捨てる。このままお
まえが生きようとどうしようと気にもとめない」


そしておまえの知らない場所でおまえの知らない可愛い女と幸せな家庭を築いて生きてやると。

「―別れて」

掠れた声でぼくは言った。

「別れてくれ、頼む」

そしてぼくの元に帰って来てくれと、涙で詰まる声を絞り出すようにして言ったら進藤は笑って「い
いよ」と言った。


「あの女、明日捨ててやる」

それは全部おまえのためだ。おまえのために捨てるんだと、ダメ押しのように囁いて、満足そう
にぼくに触れた。


「おまえ―最低」
「そうだよ、ぼくは最低な人間だ」


それでもキミを愛している。心からキミを愛しているんだと半ば悲鳴のようにそう言ったら、進藤
はぼくに口づけて「わかってる」とひとこと言ってから、「一緒に地獄に落ちような」と無邪気な顔で
笑ったのだった。




※話自体は結構前に書いたものですが、SS−diaryに上げた「おれの気持ちは変わらないから」に頂いた感想を見て、あー…いや
こういうことなんですよと思ったのでこっちもアップしました。ヒカルの思いつく『アキラが本当に嫌がること』とはこういうことです。
人として非道いかもしれませんが、私の中のヒカルとアキラはこんな感じの人達です。2012.9.4 しょうこ