Stand by me.
木枯らしの中、三時間待った。
まだ冬では無いとは言え風は充分に冷たく、日が暮れてからは尚更だった。
手も足も凍え、体はしんから冷え切っている。
それでもまだ待ち合わせ場所に塔矢は来ない。いや、もしかしたら、どれだけおれが待っていようと
来ないつもりでいるのかもしれなかった。
「………うーっ、マジ寒い」
昼間はそれなりに温かいため、マフラーも手袋もしていない。コートも秋用の薄手の物なので生地を
通して容赦無く風が吹き込んで、立っているのも辛かった。
(あいつ、本当に来ないのかな)
昨夜別れた時の顔を思い出して苦い気持ちで唇を噛む。
恋人として付き合うようになって早数年、他愛無い喧嘩は少なくなった代わりに、最近はお互いの人
間性というか深い所での理解、不理解での争い事が多くなった。
(夕べのはなんだっけ?)
寒さのあまり体を揺すりながら考える。
(ああ、告られた女の子に携帯のアドレス教えたことだ)
普通はもちろんそんなことはしない。ただ昨日の相手は元々仕事でよく顔を会わせる子で、棋士とし
て普通に好意を抱いていた相手だった。
だから思い詰めた目で気持ちを告げられた時にはマズイと思い、同時にこんなことで縁が切れるの
を惜しいとも思った。
『すみません。もしかしたらそうじゃないかとは思っていました』
好きなヤツがいるからと断ったら一瞬泣きそうな顔になり、でもすぐにさばさばとした態度に戻った。
『仕方無いですね、こういうのは。すぐにもっといい男見つけますから、避けるのだけは勘弁して貰え
ませんか?』
『ああ、もちろん』
嫌味のない態度には感服したし、元のように付き合えるならそれは有り難いと思った。だから出入り
している研究会に誘われた時には快く承諾したし、連絡用にアドレスの交換もしたのだった。
けれどそれが塔矢の耳に入って逆鱗に触れてしまった。
『どういうつもりだ』
むっとした顔で尋ねられて、『別にどうもこうもないけど』と答えた。
教えたのはプライベートでは無い仕事用のものだったので、自分では問題無いと思っていたのだけ
れど、塔矢的には大いに問題有りだったらしい。
『どうしてキミはいつも、綺麗にきっぱり断れないんだ。そうやって未練があるまま繋がって、変に期
待を持たせてどうするつもりだ』
『そういうんじゃないって、もともと行きたいと思っていた研究会だったから』
『だからって、自分を好きだと告げた相手に誘われて受けるなんて軽薄にも程がある』
相手がどういう気持ちでいるのかなんて解らないじゃないかと言われて溜息をついた。
『そういう子じゃないよ。引きずったりはしないと思うから』
『どうしてそれがキミに解る。もしかしたら相手は長期戦に持ち込もうとしているだけかもしれないじ
ゃないか』
幾ら言っても塔矢の態度は軟化しない。むしろどんどん頑なになって行くのでついムッとして言ってし
まった。
『じゃあ、何? おれ、おまえと付き合っている限りは仕事関係でも何でも女の知り合いは持てないっ
てこと?』
『ああ、そうだね』
塔矢はおれの言葉を真正面から受け止めると、温かみの欠片も無い声で返して寄越した。
『それが嫌なら別れればいいよ』と。
『ぼくは…例え仕事でも女性とはアドレスの交換なんかしない』
付き合っている相手に不安を与えるようなことは一切しないと決めている。でもキミはそうじゃないん
だねと、続けた言葉は氷の礫のようだった。
『これでもう何回目だ? 正直ぼくは疲れた』
もういっそキミはキミに相応しい人を見つけた方がいいんじゃないかと、感情のこもらない声で言わ
れて思わず言い返してしまった。
『ああ、そうさせて貰うよ』
それが昨日の夜のこと。
そして今日、タイミングが悪いことにおれは塔矢と映画を見に行く約束をしていた。
たまたまネットで応募したら試写会のチケットが当たって、それが塔矢が見たいと言っていたものだ
ったので一緒に行こうと誘ったのだ。
(久しぶりだから終わった後はちょっといい所でメシ食って、それからどっちかの家に泊ってとか、そ
ういう約束だったけど)
たぶん塔矢は来ないだろうと思った。
何しろ昨日の今日である。機嫌が直っているはずも無く、事実待っているおれの方もまだもやもやし
た気持ちが残っている。
それでも待ち合わせた場所にやって来たのは、万一を考えてのことだったけれど、まったくの徒労だ
ったかもしれない。
時間になっても塔矢は現われず、10分が過ぎ、20分が過ぎてもやって来ることは無かったからだ。
(まあ、そんなもんだろうな)
試写会の時間をとっくに過ぎて、立ちっぱなしで一時間以上待っても塔矢は来ない。
電話してみようかとか、メールを送ってみようかとも考えたけれど、冷ややかな言葉を聞くのが嫌で連
絡をとることは躊躇われた。
「仕方ねえなあ」
待ち合わせたのは駅近の広場で、他にも同じような輩がたくさん居たけれど、時間の経過と共にどん
どんその数は少なくなって行った。
当然のカップルに、飲みに行くらしい友人同士。
年老いた母親を待つ若い男も居たし、何かの試合でも見に行くのか、看板を持って集まっている集団
も居た。
それらが皆、入れ替わり立ち替わり現われては消え、三時間が経った今ではぽつんとおれだけが取
り残されている。
風は冷たくて、この季節にしては本当にかじかむように冷たくて、冬のコートを着てこなかったことをお
れは死ぬ程後悔した。
ふと見上げる空は都会だというのに星が結構綺麗に見えて、それがまた寂寥感を否応無しにかきた
てる。
(ああ、おれら…)
もしかしてこれで終わってしまうのかなと思った時、隣にすっと誰かが立って、同じように夜の空を見
上げた。
「塔―」
「どの星を見ていたんだ?」
抑揚の無い声がぽそっと尋ねる。
「…知らねえ、星座とかあまり詳しく無いし」
答えながら向き直って見ると、隣に居るのはやはり塔矢で、睨むような鋭さでまだ空を見詰め続けて
いる。
「おまえは、どの星を見てんだよ」
「何も―」
こちらを向きもせず、空を睨んだままで塔矢は言う。
「そもそも星なんか見る気分じゃないし」
「だったらなんで上向いてんだよ」
「キミがどんな気持ちで何を見ていたのか知りたかったから」
そしてゆっくりとこちらを向いた。
「随分遅い試写会なんだな」
「そんなん、もうとっくに終わってるって」
いけないと思うのに、つい喧嘩口調で言ってしまう。
「来るなら来るでもっと早く来いよ、今更のこのこ来られたって、どうしようも無いじゃんか」
「だったら来ない方が良かったか?」
「そういうことじゃねーよ!」
辺りはもう本当に人気が無くて、ただひたすら風が吹き抜けるばかりの広場に、おれと塔矢は二人き
りだった。
「…本当は来ないつもりだったんだ」
しばらくしてぽつりと塔矢が言う。
「キミには本当に腹を立てていたし、顔も見たく無いと思っていたし」
正直このまま別れてもいいと思えるくらいキミの無神経さに怒っていたよと。
「…だったら来なけりゃ良かったじゃん」
「そうだね、その方が良かったかもしれない。でもキミはたぶん待っていると思ったし」
あそこと、塔矢は後ろのビルを指さした。
「どうしたらいいのか解らなくて、ずっとあそこからキミを見ていた」
塔矢が指したのは三階にある小さなカフェの窓だった。
「いつから?」
少しばかり驚いて尋ねる。
「最初から。キミが来る少し前からあそこに居て、来てずっとぼくを待っているのを上から見ていた」
「おれ…すげえ寒かったんだけど」
「うん、寒そうだった。そんな薄物を着て来るから、馬鹿だなあと思って少しいい気味だと思っていた」
「そうかよ、馬鹿を眺めるはそんなに楽しかったかよ」
「そうだね、キミは考えていることが表情や態度に出るから、それを眺めているのは面白かった」
最初は落着かなく辺りを見ていた。
何度も携帯を取りだして時計の時間を確認した。
約束の時間を過ぎてからは、諦めたような納得したようなそんな表情になって、ただひたすら足元を
見ていた。
「そういえばキミ、途中で女性に声をかけられていたよね」
「ああ…逆ナン? それどころじゃなかったから、そっこー断ったけど」
「綺麗な二人組だった。この近くで働いているOLかな。キミは苦笑いみたいな顔をして断って、でも
ずっとその二人の背中を見詰めてた」
「…趣味悪ぃ」
「あの時、キミの顔に書いてあった。『どうしておれはこんな所で塔矢を待ってるんだろう』って」
おれは思わず目を見開いた。まったくそのままのことをその時思ったからだ。
「思うだろ、そりゃ。来ないかもしれない恋人を三時間も待って、手も足も寒くてたまらなくて」
「付いて行ったって良かったんだ。ぼくを待つのなんか止めてあの二人と行けば、温かい所で美味
しい物を食べて、きっと楽しい思いが出来たのに」
「そりゃ、そうかもだけど、それでも…行けねえよ」
あの二人、綺麗にお化粧していて、でもケバくなくていい感じだった。
声も明るくて耳障りが良くて、話したらきっと好きなタイプだなと思った。
「おまえなんかいつも仏頂面でさ、おれと話す時もにこりとも笑わないし、嬉しいんだか嫌なんだかち
っとも解らないし」
寒い中、凍えていたから余計に女の子の柔らかさ温かさに強く惹かれた。蝶が花にとまるのはこうい
う気持ちなのかもしれないと思うくらいの誘惑だった。
「だけど、それでも、その綺麗な可愛い女の子達より、おまえの方が好きだって思っちゃうんだから仕
方ねーじゃん」
「ぼくだってキミなんかより、もっと心安らぐ相手が居るんだろうなってよく思う」
母親や親戚が持って来る見合い話。あの写真の女性達の誰かを選んだならば、きっと穏やかで幸せ
な日々を過ごせるのではないかと。
「それでも、そんな人達よりも不誠実なキミと居る方が幸せだと思ってしまうんだから救いようが無い
よね」
「どうしようも無いな」
「どっちが?」
「おれ達、両方」
おれの言葉に塔矢は笑った。小さい、溜息のような笑いだった。
「だったらもう、仕方無いのかな」
言って塔矢はおれの手に触った。
「キミ、随分冷えている」
「誰かさんが温かいカフェでぬくぬくと過ごしている間、おれはずっとここで凍えていたから」
「当然の報いだろう」
「そういう所が冷たいって言うんだよ」
「でもぼくはこうだから仕方が無い。そしてキミがそうなのも仕方が無いことなんだよね」
きゅっと強く塔矢がおれの手を握った。その指はとても温かかった。
「帰ろう。こんな所に居たってどうにもならない」
「じゃあ、どうするんだよ」
「どこか温かいお店に入って、温かい物を飲んで、温かい物を食べるって言うのはどうだろう」
塔矢の声は静かで、とても穏やかだった。
「それで? 食ったその後は?」
「じゃんけんでもしようか。それで勝った方の家に一緒に行く」
そしてゆっくり時間をかけて建設的な喧嘩をするんだと言うので笑ってしまった。
「…建設的な喧嘩ってなんだよ」
「別れるためじゃなくて、別れないようにするためにする喧嘩」
キミとぼくにはそれが必要なのかもしれないと言う塔矢の言葉におれは大きく頷いていた。
「いいな、それ」
「いいだろう?」
おれを見て塔矢が笑う。それは久しぶりに見る素直な笑いだった。
「暴力は無し、不必要に傷付けるのも無し」
「えっちにもつれこむのは?」
「さあ、その時次第かな。それから一番大切なことだけど、お互い駆け引きは無しにしよう」
「いいぜ?」
待ち合わせた約束の時間からもうそろそろ四時間近くになろうとしている。
おれ達はさらに二言三言会話を交わし、それからやっと納得すると、しっかりと手を繋いだまま、『建
設的な喧嘩』をするために凍えるような場所から去ったのだった。
※寒い中、三時間アキラを待つヒカルが書きたかった。それだけです。いや、ごめんヒカル。
2012.11.4 しょうこ