そして誰もいなくなった
美味しいと教えて貰った焼き鳥屋に、伊角さんと後輩を誘って食べに行った。
焼き鳥屋と言っても所謂立ち飲みのようなものでは無く、凝った料理も出て来る清潔な店で、
酒の種類も多い。
店の雰囲気も良いから、デートにも使えると教えられた通り、入ってみたら客の三分の一くら
いはカップルだった。
「いいな、この店」
どれも美味しそうじゃないかと、あまり騒がしい店は好まない伊角さんも寛いだ様子でメニュ
ーに見入っている。
「和谷先輩、こういう店詳しいんですね」
最近研究会に入って来たばかりの二つ年下の後輩が、尊敬したように言うのに気持ち良く
「まあな」と答えて、それから後は気の向くままにオーダーして、飲んで食ってを繰り返した。
炭火でじっくりと焼かれた焼き鳥は香ばしく、頼んだ物はどれも美味かった。酒も各地の地酒
がずらっとあって酒好きにはたまらない店だと思った。
「…そういえばここ、個室もあるんですね」
途中トイレで退席した後輩が戻って来るなりそう言った。
「個室? そんなもんあったか?」
「ええ、ありましたよ。店のずっと奥に引っ込んだようになっている席が三つくらいあって、そこ
は襖で仕切られていて完全に個室になってました」
「…ふうん、だからデートにいいって言ってたのか」
言われたことを思いだして思わず一人呟いた。
「三つとも使ってるみたいで閉め切られてるんですけど、あれだったら中で一局打てそうですよ」
「ばあか。どこの誰がこんな所まで来て打つかよ」
笑い飛ばしてしまったけれど、おれはそう言った瞬間、何故か一瞬塔矢の顔を思い浮かべて
しまった。
(あいつならこんな所でも碁盤持ち出して来て打ちそう…)
四六時中携帯用の碁盤を持ち歩いていて、暇さえあればどんな場所でも打ち始めるという、そ
れくらい面白みの無い囲碁バカのあいつならこういう場所でも打つだろうと、心の中で毒づいて、
それきり個室のことは忘れてしまった。
思い出したのは自分もやはりトイレに行きたくなって席を立った時だった。
用を足して戻ろうとした時、ふと耳慣れた音を聞いたような気がしたのだ。
ぱちり、ぱちりと耳に響く、それは碁盤の上に石を置く音のように聞こえた。
(まさか)
こんな所で打っているバカなんかいるはずが無いと、そう思いつつ目をやった先には襖があっ
て、ああここが例の個室なのかと思った。
「まさかね、まかり間違って塔矢が居たとしたって…」
焼き鳥屋で打つ程のバカでは無いだろうと首を横に振った時、思いがけずその襖が開いたの
だった。
「―失礼しました」
皿を下げに来たのだろうか、個室から盆に空いた皿を載せた店員が出て来たのだ。その瞬間、
何気なしに中を覗いたおれは、仰天した。
区切られたその狭い空間に、確かに塔矢の顔を見たからだ。
あっと思う間も無く襖は閉まってしまったけれど、切子の小さなグラスを持った塔矢は、向いの
席に居る誰かと楽しそうに何かを話していた。
「嘘だろ…」
本当に塔矢が居たことに驚き、テーブルの上に(たぶん)携帯用の碁盤があったのにも驚き、
何よりも塔矢が嬉しそうに笑っていたことにおれは驚いた。
(あいつ、あんな顔も出来るんじゃん)
普段見る塔矢はあまり表情というものが無い。その整った顔に表れるのは「不快」とか「苛立ち」
とか「軽蔑」とか「怒り」で、それ以外の表情というものをおれが見ることはほとんど無かった。
笑い顔も全く見ないでは無かったが、今のように本当に心の底から楽しそうに笑う塔矢というも
のを見たことは無かった。
(女だ)
あいつ女と来てるんだと、おれは閃くように思った。
塔矢に恋人が居るなんて話は聞いたことが無いけれど、あの顔は、あの嬉しそうにほころんだ
表情は間違い無く恋人に向けるそれだと直感的に思ったのだ。
「ふうん…」
あいつも一応人間だったんだ。機械で出来てるわけじゃなかったんだなあと変な感心をしつつ、
同時に進藤はこのことを知っているのかなと思った。
(知っているよな、あいつら仲いいし)
だったら今度、相手の女がどんな女か聞いてみようと思いながら席に戻ったおれは、余程妙な
表情をしていたのだろう、伊角さんからも後輩からもどうしたのだと聞かれてしまった。
「どうした和谷、トイレに幽霊でも居たのか?」
笑いながら伊角さんに言われて苦笑する。
「え? さっきおれが行った時は別に何もありませんでしたよ?」
心なし青ざめて後輩が言う。
「いや、幽霊じゃないけど…」
有る意味幽霊よりコワイものを見たかもしれないと思う。
(嬉しそうに笑う塔矢だぞ)
酒のせいかほんのりと頬を染めていた塔矢の顔は子どものように無防備で、塔矢でさえなけれ
ば可愛いと思えたかもしれない。
「なんですか、勿体つけないで教えてくださいよ」
焦れたように後輩に尋ねられて、笑いながら口を開きかけた時だった。
「あれー、和谷じゃん」
のんびりした声に名を呼ばれ、おれは驚いてそっちを向いた。
「進藤……」
「早速食いに来たのかよ、な、いい店だろ?」
どこに…とか、いつから…とかそういう言葉は皆、進藤の後ろに居る塔矢を見て引っ込んでし
まった。
「おまえ…塔矢と来てたんだ?」
「あ?……うん。ここだったらこいつも気に入るかと思ってさ」
そして進藤は唐突に塔矢を振り返った。
「美味かっただろ、焼き鳥も酒も」
「まあね、キミが好きだというお店の割には、まともな物を食べさせて貰えたし」
美味しかったよと返す塔矢はもういつもの塔矢で、その顔はにこりとも笑ってはいない。
でも―確かにさっきまで塔矢は嬉しそうに笑っていたのだ。ほころんだ花のように。
「…おまえら二人で来たん?」
「うん。今日、芹澤先生の研究会だったからさ。ちょっと早めに抜けて来てそれで夕飯代わり
に食いに来たんだ。そっちは伊角さんと…ああ、野村じゃん」
「こんばんは。進藤先輩」
後輩は進藤に人懐こく笑いかけ、それから塔矢に向かっては少し緊張した顔で会釈した。
「進藤はこれから帰るのか?」
伊角さんの声に進藤は塔矢を見ながら考えるように言った。
「んー、それでもいいけど折角だからどこか寄り道して行く…かも?」
「キミの家で打つんじゃ無かったのか?」
即座にぼそりと塔矢が言う。
「打つよ? 打つけどまだちょっと食べ足り無いかなぁって」
「ぼくはもうお腹が一杯だ。打たないなら帰るけれど」
「いや、待てよ。じゃあ真っ直ぐ帰るから、おまえも短気起こすなよ」
そして改めておれの方を向く。
「じゃ、おれらそういうわけで帰るから」
お先にと、無邪気に笑って去って行った。
「相変わらず仲がいいんだな」
「え?」
「あの二人」
伊角さんに言われて呆けたように頷き返す。
「あ、ああ。うん。仲…いいよな」
でも、さっきのアレは――。
塔矢の目は間違い無く恋人を見る目だったと思う。でも、一緒に居たのが進藤ならばそんな
ことは有り得ない。
有り得ないはずだ――と思う。
「…どうなってんだ、まったく」
「それより和谷先輩、さっきの話の続きをしてくださいよ」
幽霊より怖いものってなんなんですかと思いだしたように尋ねられ、おれは個室のあった店
の奥に目をやりながら、そういえばこの店を教えてくれたのは進藤だったよなとぼんやりと思
ったのだった。
※創作料理とか、コースの出て来る焼き鳥専門店とかそういう感じ。人前だったので素っ気ない態度を取りましたがアキラは
大変ここが気に入ったので後に何度も来るようになります。でも絶対にヒカルとで無ければ来ない。
二人で飲みつつゆっくり打てる至福の店です。2010.4.3 しょうこ