アトロポス



我が家は夫婦仲が良く、両親が喧嘩する姿を見たことは物心ついてから一度も無かった。

囲碁界きってのおしどり夫婦と呼ばれるくらい、父は母を大切にしたし、母も常に父を立て、父を助けて
生きて来た。



睦まじい。

そんな言葉がしっくりと来る。そんな両親だったけれど、一度だけ家庭にさざ波のようなものが立ったこ
とがあった。


それはその頃家に出入りしていた女流棋士が、師と弟子の間柄を越えるくらい父に近づいて来たからだ
った。



最初は誰かの紹介で研究会にやって来て、すぐに誰よりも熱心に父に付いて勉強するようになった。

ほとんど男ばかりの研究会で、その人はかなりキツイ当たられようもしたけれど、何を言われても引かな
かった。


美しい人だったと記憶している。

真っ白い肌に長い黒髪、きゅっと引き締まった気の強い口元は意志の強さを表していた。

母も最初は若い女性の参加を素直に喜び、娘のように接していたのだけれど、それがいつの頃からか戸
惑ったような表情になった。


『あなた…あの神崎さん、少し熱心過ぎじゃありませんか?』

碁に関係することに滅多に口を挟まない母がそう言ったのでぼくはとても驚いた。

『何か、問題でもあったかね』

『いえ、そういうことでは無いんですが』

その人は、緒方さんや芦原さんに混ざり、家に泊まって行くこともよくあった。

普通、女性は余程遠方で無い限りは泊っては行かない。

それなのに彼女は進んで泊りを希望して、そんなときは決まって夜遅くまで父の部屋に詰めた。

『塔矢先生、お時間良いでしょうか?』

涼やかで甘い声を覚えている。

『先日の座間先生との一戦の棋譜、よろしければ見せて頂くわけにはいかないでしょうか』

その頃ぼくは五歳くらいで、人々の邪魔にならぬように部屋の隅から皆が打つ様を見渡していることが多
かったけれど、それでもやはり子ども心にも、その人が加わってから家の中がぎこちなくなって行くのがよ
く解った。


『奥様、私よろしければ代わりにお買い物に行って来ましょうか?』

『御用事がお有りでしたら、私がお客様にお茶をお出ししておきますけれど』

一つ一つはなんでも無い。

弟子として気を遣って健気だと思える。

けれど彼女の申し出は少しずつ多くなって行った。

『さっき酒屋さんが来ましたので注文しておきました。いつもので良かったんですよね?』

『先生のお着物、汚れていたようでしたので着物屋さんに染み抜きをお願いしておきました』

『そうそう、桑原先生がいらっしゃると聞いたので、虎屋の最中を買っておきましたから』

最初は母に言いつかったことをやっていたのが、そのうち先回りして色々なことに手を出すようになって
来た。


着物などは両親の部屋に入らなければ解らないことで、さすがに母もこれには不快を感じたらしい。

『神崎さん。色々お手伝いして下さって有り難いですけれど、そういうことは私の仕事ですから神崎さんは
碁のお勉強だけに集中してくださればいいんですよ』


『でも、奥様はとてもお忙しそうですし、私に出来ることはやらせていただきたいんです。だってもう家族み
たいなものなんですから』


そう言われた時、ぞっと背筋が泡立ったと後になって母はぼくに聞かせてくれた。

『神崎さん、何か勘違いされているようですけれど、あくまでお弟子さんはお弟子さん。家族ではありませ
んから』


内々のことにまで手を出すなと、さすがの母も釘を刺さずにはいられなかったらしい。

『すみません。出過ぎたことをしまして…』

彼女は素直に謝って、それで事は収まったかに思われた。

けれど実際は家でそういう行動に出なくなっただけで、今度は逆に母の居ない外で父に世話を焼くように
なっただけのことだったのだ。


父も最初は苦笑して流していたけれど、あまりにも出過ぎた態度を取るようになったので、終いにはキツ
い口調で叱りつけたという。


『君はどういうつもりでこんなことをするのかね』

その頃には母の悩みはかなり深くなっていて、父とも何度も話し合いをしていた。

『どういうって…何がですか?』

『君は私の妻でも娘でもなんでも無い。なのにどうしていつも側に居て、頼まれてもいないことをやろうと
するんだね』


『それは…だって』

そうすることを先生が望んでいらっしゃるからですと、何の邪気も無く言われて父は絶句した。

『言葉に出して言われなくても私には解ります。先生が私を望んで下さっていることを』

思い込みは恐ろしい。彼女は父が彼女に好意を持っていると信じ込んでいた。

『悪いが、もう二度と研究会には来ないでくれ』

『どうしてですか? 私、先生のお役に立ちたいだけです』

『それでも、君が居ることで私も妻も迷惑している。少なくとも私は妻を不快にさせる君を側に置いておく
つもりは微塵も無い』


きっぱりと父に言われ、実際に出入りも禁止にされてしばらくは相当揉めたと言う。

『だって先生、…先生も私を好きだとおっしゃって下さったじゃないですか―』

打ち筋の話だったと、素直で良い打ち筋をしていると碁を褒めただけのことだったのだと父は母に言って
いたけれど、実際はもしかしたらほんの少しだけ彼女に誤解をさせるだけの何かがあったのかもしれない
と大人になった今では思う。




「なんで? 先生愛妻家じゃん」

「うん。そうなんだけどね。でもそれでいて、お父さんには無自覚に人を期待させる所があるような気がす
るんだ」


進藤と二人で飲みに行って、何がきっかけだったか忘れたが、思いがけず父の昔話になった。

堅物で真面目一辺倒な父にもそんな事件があったんだよとふいに話したくなったのは、酒の酔いが回っ
たからだけでは無く、なんとなく最近の進藤を見ていて父を思い出すことが多いからだった。


「期待させるって?」

「うん、そうだね。父は基本的に母以外の女性には全く興味が無いんだけれど」

それでも碁が絡んだ時や仕事絡みの時は思いがけず愛想が良くなり、存外に優しくなったりするのだ。

「そうかぁ?」

おれには怖いばっかりだけどと、不審丸出しの進藤に苦笑しながら説明してやる。

「それはキミが男だから。父はたぶんフェミニストなんだと思うよ」

女性には優しく親切にするものと、それが本来の性格の中にある。だから取材で来られたり、学ぼうと真
摯に近寄って来る相手を男性を相手にする時のように無下にはどうしても出来ないのだ。


「例えば忙しいさなかに取材の申し込みがあったとして、男性だったら断るけど、少しでも面識のある女性
だったら断らないような所があるんだよ」


それは父にしてみればさして深い意味の無いことだけれど、相手にしてみれば『自分だったから応じてくれ
た』という大いなる勘違いを引き起こす。


「食事の誘いも大抵は断るけど、大勢の前で女性に直接誘われたら滅多に断ることは無いしね」

「ふーん」

「『彼女』の一件があってから、父も随分気をつけるようになったみたいだけど」

それでも未だに甘さがあって、母はやきもきさせられることがあるという。

「へー、なんか意外だなあ。先生って男にも女にも平等にびしっと厳しい人なんだと思ってた」

っていうか甘い所があるなんて、話し聞いても全然信じられねーと進藤は口を尖らせて言う。

「…キミはぼくを好きだよね?」

「は? なんだよ藪から棒に」

「事実確認をしているだけだよ。キミはぼくの事が好き。それで構わないか?」

「何今更そんなこと言ってんだよ。好きに決まってんじゃん」

憤然と言われて苦笑する。

「それで、キミは浮気はしないと信じているんだけど、ぼくの買いかぶりかな」

「しっ……しねーって。するわけ無いじゃん」

「うん。キミは真面目だしね。それに人が思っているよりずっと一途で誠意がある」

「なんだよ、おまえに褒められると気持ちワルイよ」

「きっとぼくだけを一生愛してくれると信じてる。それでもね」

話の途中で言葉を切って、ぼくは身を乗り出すとテーブルの向こうに居る進藤の上着のポケットから一枚
名刺を抜き出した。


「こんな風に気安く、食事の誘いに乗ってしまうんだ」

瞬間、進藤はぎょっとしたような顔をした。

「どうして名刺貰ったの知ってんだよ。っか、それよりどうして食事に誘われたことまで知ってんの」

「この人、女性誌の編集さんだよね。以前ぼくも取材を受けたことがある」

その時から、彼女が進藤に興味を持っていることは知っていた。機会があれば食事に誘いたいと、あか
らさまにぼくにリサーチまでした。


だから今回そこの取材があると知って、きっとこうなるだろうと思ったのだ。

「キミはいつも後ろめたい名刺を名刺入れに仕舞わずにポケットに入れる。そしてその後でゆっくり、誘
いに乗るか乗らないか決めるんだ」


「昼飯誘われただけだって!」

思わぬ成り行きに進藤は青ざめた顔色で必死に言う。

「ほんとマジそれだけだってば」

「うん。はっきりと危なそうなものはキミはその場で断るものね。でもそれでも、もしキミがこの人の誘いを
受けて食事に行くと言うなら、ぼくは今この場でキミと別れても構わないよ」


「塔矢!」

「ぼくはお母さんほど寛大じゃない。隙のある恋人の側で一生苛々させられるくらいなら、きっぱり別れて
しまった方がいい」


お父さんと進藤は性格もタイプも似通った所は無いけれど、それでもどこか似ているのだ。

碁に対する姿勢、愛する人に対する一途さ。

なのにその優しさを愛していない者にまで、時に気安くばらまいてしまうことまで。

「おまえ…マジかよ?」

「本気だよ。ずっと前から気になってはいたんだ。こう見えてぼくは結構嫉妬深いからね」

でもそうやって嫉妬し続けるのにも少し疲れてしまったのだ。

「どうする? 結構綺麗な人だったしね。あの人と食事をするのは楽しいかもしれないよ」

「どうするも、こうするも……」

思いきり口をへの字に曲げた後、進藤はぼくに向かって手を差し出した。

「名刺!」

そうなのか、そちらを取るのかと、自分で仕掛けたことなのに青ざめた瞬間、進藤はぼくの目の前で名刺
を綺麗に千切ってしまった。


「行くわけねーだろ、んなこと言われて」

はらはらとテーブルの上に紙が散る。

「確かにおれは信用無いかもしんないけどさ、でも、愛してるのはおまえだもん」

おまえだけを愛してるのに、こんなつまんないことで失うことなんか出来るかよと怒った口調で言われて閉
じていた口元が微かに緩んだ。


「…は」

ははと力無く笑ってしまったのは限り無く安心したからだった。

「笑いゴトじゃねーだろ」

「うん、そうなんだけど」

そう言えばお父さんも彼女の手紙をお母さんの目の前で千切って捨てたことがあった。

破門して一年が過ぎた頃だったか。

『あなた、神崎さんから』

硬い顔をして母が持って来た一通の封書を父は一瞥するなり破いてしまった。

『読む必要も無い』

だからおまえも気に病むことは無いのだと、渋い顔をしながら父は言った。

あの時の光景と今見た景色はぼくの中で重なった。

(なんだ)

やはり父と進藤はどこか似ている。

こんな所まで似ているのかと思ったら、これから先も苦労する自分の姿が見えるようで、ぼくは進藤を見
詰めながら苦笑せずにはいられなかった。



※一体何が怖いかと言うとアキラが一番怖いという話でした。
ヒカルはちょっとガードが緩い所があるので、びしっとシメた方が良いと思います。2013.8.31 しょうこ