代償行為
『これは違う』
気がつくと1日に何度もそう思ってしまっている。
思うと言うか、自分の本能的な部分が勝手にそう囁いているというか。とにかくそういうことがあまりにも続いて、
自分でもこれは本当に違うのかもしれないなと思うようになった。
何がというと簡単で、父親に勧められるまました見合いで知り合った人と、そのまま付き合い始めたことだった。
アキラは別にその人に一目惚れしたわけでも無く、特別にいいと思ったわけでも無い。ただその人は非常に感
じのいい人であったし、とても可愛らしい人でもあった。
だから断る理由も無いし、そのままお付き合いということになったのだった。
アキラ自身は結婚や恋愛にこうという理想があるわけでは無く、なんとなくそのくらいの年齢になったら適当な誰
かと結婚して家庭を持ち、子を持つべきだという認識があったくらいだ。
失礼と言えば失礼極まりないのかもしれないが、自分が今ひとつそういう方面に感情が薄いのは解っていたので
そんなもんだろうと割り切っていたのだ。
けれど、付き合いだしてすぐ、決して楽しく無いわけでは無いのにこの感覚がまとわりつくことに困惑した。
一緒に居て笑っているその顔を眺めている時、食事して散歩して買い物に付き合っている時など、明らかに自分
の意識とは別な所ではっきりと声が聞こえるのだ。
無意識の意識というか、冷静な別の自分が言っているというか、その声はいつも『違う』と言っている。
『これは違う』
『自分は間違った相手と居る』
『これは自分の相手では無い』
最初、自分は頭がおかしくなったのではないかと思った。
和やかに談笑して「そうですね、じゃあ今度は海でも見に行きましょうか」などと言ったそのすぐ後にぼんやりと頭
の中で『でも違う。自分は間違ったことをしている』と続けて考えてしまっているのだから。
それは常につきまとい、アキラも次第に無視出来なくなっていった。
どうして自分はそんな声が聞こえるんだろう。
オカルトでもスピリチュアルなものでも無く、これは間違いなく自分の本能が言っている声なんだろう。
「でも…違うって、じゃあ誰なら違わないんだ」
偽物だ。間違いだ。自分は間違った道を進んでいると、あまりにそれを繰り返されて困惑はよそよそしさとなっ
て表面に出てしまっていたらしい。程無く相手の方から別れ話を切り出された。
「ごめんなさい。塔矢さんはとても優しくして下さる…いい方だとは思うんですが、でも…」
でも私のことちっとも好きでは無いですよねと、その通りなので言い返すことも出来ず、あっさりとそれで付き合
いは終わった。
そうしたら現金なことにあんなにうるさかった声も聞こえなくなり、同時に自分が非道くほっとしていることにも気
がついたのだった。
(なんだ、本当にぼくは無理をしていたのか)
そもそもが好きでも無い相手と、そうするべきだからというだけの意識で付き合ったのが間違いだったんだろう。
両親は相手を結構気に入っていたらしく、目に見えてがっかりしていたけれど、でも向こうから断られたのでは
仕方無いと諦めてしまったようだった。
「本当に…アキラさんて朴念仁な所があるから」
母に愚痴のように言われたけれど、申し訳無いが自分自身はきっと変わらない。だったらそれでも好きになって
くれるような人を捜さないと同じように断られ続けるに違い無い。
(それにしても)
改めて思う。彼女の何が『違う』だったのか。
少なくとも容姿、性格は満点だった。控えめで、でも自分の意見もはっきりと言えて、どことなく母親に似たタイプ
の人であった。
可愛いけれどしっかりした所もあり、もし結婚しても棋士の夫をちゃんと支えられ妻として切り盛りして行けるだろ
う人でもあったのだ。
そもそもが棋士としての縁がある家庭のお嬢さんだったのだから碁打ちに対しても理解があり、だったらどこをど
う探せばいいのか解らない。
(そもそもぼくは恋愛をしたり、家庭を持ったりするということに向かない性質なんだろうな)
そう思い、改めてふうと大きく溜息をついた時、約束していた相手である進藤ヒカルが元気よく駈け寄って来た。
「塔矢!」
いつもながら屈託の無い、綱を放された犬のような顔でアキラの側にやってくるとにっこりと笑った。
「聞いたぜ、おまえフラレたんだって? すっげえ可愛い子だったのにダメじゃんおまえ」
人が気を遣って言わないことをいかにも面白い話題だと言うようにいきなり言う。
「無神経だな、キミは」
「あれ? もしかしてそれなりに傷心なんだ」
「当たり前だろう。男として恋愛対象に見られないって言われたのと同じなんだから」
「まあ、でもそれは仕方無いんじゃない? おまえあの子と居てもあんまり楽しそうじゃなかったから」
「そうか?」
「そうだよ。なんつーか、アレ。頼まれた仕事を頑張ってこなしてますって顔しててさ、だから聞いた時バカだなと
は思ったけど、やっぱりなとも思った」
なるほど。
もし他の人間が言ったことだったらアキラはきっと激怒していただろうけれど、ヒカルの物言いには嫌味がない。
万一あったとしてもこうあっけらかんと言われては怒る気持ちは涌かなかった。
「まあ…そうなんだろうね。ぼくは恋愛に向いて無いのかも」
「そんなこと無いだろ。まだ本当に好きなヤツに出会って無いってだけで、これから会うかもしれないじゃん」
そうしたらまた違った感じになるんじゃないのと言われて、素直になるほどと思った。
確かに、好きでは無い相手と付き合ったから本能が『違う』と拒絶したのだ。だったら好きな相手と一緒だった
らきっとあの声は聞こえて来ないに違い無い。
「あの声が聞こえない相手と恋愛すればいいのかな」
ぼんやりと呟いたのを耳ざとく聞きつけてヒカルがアキラをじっと見る。
「何それ。なんか面白そうな話?」
「いや…そういうわけじゃないんだけど」
返しながら唐突にアキラは男女の区別をつけなければ、自分が一番好きな人間はヒカルだなと思った。
自分とは全く性格も趣味も違うし、生まれ育ちも合う所が無い。なのにこんなに遠慮無い口をきかれても楽し
いとしか思えないのは、何故かこの男がとても好きだからに他ならない。
「なー、秘密にしないで教えろよ」
ぐいと顔を近づけられてあっと思った。
これはたぶん恋人距離だ、いつもだったら近すぎるとぐいと押し返す所だったのだけれど、試しにしないでみ
たらちっとも嫌では無かったのだ。
「塔矢?」
どこか呆然としたような顔で、なのにアキラが無反応になってしまってヒカルは困ってしまったようだった。
「どうしたんだよ、怒ったのかよ? だったらもっといつもみたいにきっちり怒れよ」
無反応なおまえって怒鳴っている時よりよっぽど怖いと、失礼極まりない言葉を繰り返されている時もアキラ
はぼんやり思っていた。
(じゃあ、例えば進藤と付き合ったら)
さぞや喧嘩が多そうだけれど、たぶん全然気は遣わない。碁は打てるし、というかいつも一緒に居て打ちたい
し、その他の雑談も彼の話はとても楽しい。
生涯を添い遂げる。それがもし進藤ヒカルだったら。そう考えたら嬉しくなった。そしてどう考えても間違ってい
るはずなのにあの声は聞こえ無かった。
『それは違う』
『間違っている』
うるさい程だったあの声は全くもって聞こえ無いのだ。
試しに側に居る彼の手をぎゅっと握って見た。
どうだ! という気持ちであったけれどやはり声は聞こえない。
「ととととと、塔矢?」
理解不能な行動にすっかり慌てているヒカルの手を離してアキラは笑った。
「ごめん、なんでも無い。ちょっと色々考えていて―」
それでやっと正解に至った。なんだあまりにも身近過ぎて解らなかったが自分の本当の相手はここに居たん
だ。
その証拠に、改めてべたべたと頬や肩を触っても『間違ったことをしている』という感覚は起こらない。
「なんだ。そうだったんだ」
バカみたいだと笑い出したらヒカルは逆にむっとした。
「なんだよ、おまえわけわかんねーよ。フラれて気でもおかしくなったのかよ」
「いや、そんなこと無い。むしろすっきり明快になったというか」
ああ、でもこれから大変そうだ。何しろ相手は進藤ヒカルだし、そもそも気持ちも通じなさそうだし、これは一生
片想いというヤツかなと、それはちくりと胸の奥が痛んだりもしたけれど、でも概ねは満足していた。
自分は恋愛にも結婚にも向いていないわけじゃない。興味が薄いわけでも無い、ただその相手に気がついて
いなかっただけだと解ったからだ。
「キミね…これから大変だね」
「はあ?」
ぼくがこれからしつこく、しつこくキミを好きでいるからとはさすがにアキラも口には出さない。
そして同時にがっかりさせてしまった両親を一生喜ばせることが出来ないことにも申し訳なさを感じたけれど、
でももうどうしようも無い。
「もー、おまえマジ分け分かんねえ」
「いいよ、一生解らなくても。とにかく早くどこかで打たないか」
「その前におれ腹減った。なんかどっかで食べてからにしたい」
「いいよ。変なことで煩わせてしまったお詫びに今日はぼくが奢る」
「マジ? だったら何にしようかな」
機嫌よくにこにこと食べる先を考えている。そんなヒカルの隣に並んで歩きながら、念のためもう一度意識の
奥を探って見た。
(ぼくの相手は彼なんだろうか)
彼が好きで恋愛も結婚も彼としたい。そこまで露骨に思ってみたら、無反応だった本能が弾んだような返事を
した。
『本物だ』
彼が本当の相手だと、太鼓判を貰えたのでアキラは喜びに笑いを抑えきれず、誤解したヒカルに再びむっとさ
れることになってしまったのだった。
※行ってきまーす。2013.10.27 しょうこ